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第一章:後宮に棲む毒
第3話 鬼神の夢
しおりを挟む夢は、匂いから始まった。
甘く、重く、そしてどこか懐かしい香。
目を開けると、蘇玉玲は見知らぬ回廊に立っていた。
後宮の廊に似ている。だが、柱の装飾は古く、色彩も褪せている。
――まるで、過去の後宮。
(ここは……)
問いを口にする前に、足が勝手に動いた。
香に導かれるように、奥へ、奥へと。
やがて、広い殿に出る。
中央に置かれた香炉の前に、一人の男が立っていた。
黒衣。
背は高く、静かな佇まい。
だが――額には、はっきりと二本の角が生えている。
「……玄曜、様?」
名を呼ぶと、男はゆっくりと振り返った。
夢の中でも、その顔立ちは変わらない。
けれど、瞳の色が違った。夜よりも深い、赤を帯びた闇。
『様は要らない』
声は、低く、少しだけ掠れている。
『ここでは、俺はただの鬼だ』
玉玲の喉が、ひくりと鳴った。
「……ここは、夢ですか」
『そうだ』
あまりにもあっさりとした肯定。
『だが、お前の夢ではない。――俺の記憶だ』
胸が、強く脈打つ。
鬼――玄曜は、香炉に手をかざした。
中から、黒い煙が立ち昇る。
『昔の後宮は、今よりもずっと酷かった』
煙の中に、光景が映し出される。
香を焚き続ける女たち。
笑いながら毒を盛る手。
泣き叫ぶ子ども。
『人の欲は、香よりも濃い。溜まれば、必ず形になる』
煙の中で、あやかしが生まれ、育ち、暴れる。
それを――喰らう影。
『それが、俺の役目だった』
「……最初から、宦官だったのですか」
玄曜――鬼は、短く笑った。
『まさか』
次の瞬間、景色が歪む。
香炉の前に、幼い少年が立っていた。
痩せた身体。汚れた衣。額には、まだ小さな角。
『捨て子だ』
淡々とした語り。
『あやかしの血を引く子は、後宮では忌み子になる。だが――使える』
誰かの声が、遠くで響く。
『鬼は毒を喰らう。香に宿るものも喰らう。ならば、後宮の掃除役にちょうどいい』
胸の奥が、冷え切る。
(……ひどい)
言葉にすると、鬼は玉玲を見た。
『同情するな』
鋭い声。
『同情は、俺にとって毒だ』
それでも、玉玲は視線を逸らさなかった。
「……それでも」
震える声で、続ける。
「あなたは、あやかしを“診て”います」
玄曜の眉が、わずかに動いた。
「あなたは……香炉のあやかしを、すぐに喰いませんでした。私に任せた」
鬼は、しばらく黙っていた。
『……よく見ているな、薬師』
その声は、少しだけ柔らいでいた。
『喰えば楽だ。だが――喰い続けると、俺は完全な鬼になる』
玉玲の心臓が、跳ねる。
「……人に、戻れなくなる」
『ああ』
鬼は香炉から手を引いた。
『だから、お前の薬が必要だ』
その言葉は、あまりにも静かで、重かった。
「私の……?」
『お前は、普通の人間じゃない』
玉玲は息を呑んだ。
『気づいているだろう。あやかしの毒にだけ、反応する身体』
母の面影が、脳裏をよぎる。
「……母が」
口にした瞬間、香が強くなった。
『あの女も、同じ匂いがした』
鬼は、玉玲に近づく。
角の影が、彼女の額に落ちるほどの距離。
『禁薬を作った女だ。人と鬼の境界を――溶かす薬』
胸が、締め付けられる。
「母は……そのせいで」
『殺された』
即答だった。
『だが、望んだ結末だ』
玉玲の目に、熱いものが滲む。
「……なぜ」
『薬師だったからだ』
鬼は、そう言って微かに笑った。
『治すことを、選んだ』
その瞬間。
殿が、大きく揺れた。
香炉が倒れ、煙が一気に噴き出す。
『目覚めろ、玉玲』
鬼の声が、遠くなる。
『夢の中に長くいると……戻れなくなる』
「玄曜様――!」
手を伸ばす。
だが、指先が触れる前に――
*
玉玲は、跳ね起きた。
額に汗が滲み、心臓が早鐘を打っている。
鼻腔に、微かな血と香の匂い。
夢ではない。
枕元に置いた薬包が、淡く光っていた。
(……母の、薬)
そのとき。
障子の向こうに、人の気配。
「……起きているか」
聞き覚えのある声。
玄曜。
玉玲は息を整え、障子を開けた。
月明かりの下、彼はいつも通りの無表情だった。
だが――
「……夢を、見たな」
なぜ、分かるのか。
玉玲は、小さく頷いた。
「はい」
玄曜は一歩近づき、低く言った。
「次に見る夢は、もっと深い」
そして、わずかに視線を伏せる。
「……戻れなくなるかもしれん」
それは、警告だった。
同時に――誘いでもあった。
玉玲は、逃げなかった。
「それでも、知りたいです」
母のこと。
彼のこと。
自分の身体のこと。
玄曜は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……愚かな薬師だ」
だが、その声音は、どこか優しかった。
月の下、二人の影が重なる。
後宮の深部で、香と夢と鬼神が――静かに動き始めていた。
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