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第一章:後宮に棲む毒
第2話 あやかしの診立て
しおりを挟む翌朝、後宮は何事もなかったかのように目を覚ました。
皇妃・静華が倒れた夜の騒ぎは、まだ薄闇のうちに封じられ、女官たちは噂話ひとつ漏らさぬよう口を噤んでいる。後宮とはそういう場所だ。
事件は起きても、起きなかったことになる。
蘇玉玲は、薬庫の一角で薬草を刻みながら、鼻先をかすめる匂いに神経を研ぎ澄ませていた。
(……まだ、残っている)
微かだが、確かに。
昨夜嗅いだ、あの苦く鉄臭い香の余韻が、空気の底に沈んでいる。
後宮全体が、ひとつの巨大な香炉のようだ――そう思うことがある。
焚かれ、混ざり、残り続ける匂いは、嘘や恐怖と同じで、完全には消えない。
「玉玲」
名を呼ばれ、顔を上げる。
年若い女官が立っていた。下級妃付きの者だが、今日はどこか落ち着かない。
「静華さまのご容態、少し落ち着かれたそうです」
「……そう」
胸の奥で、かすかな安堵が広がる。
助かる――玄曜はそう言った。
その言葉が本当だったことに、玉玲はほっとしていた。
「ただ……」
女官は声を潜める。
「香を替えたのに、またおかしなことが起きているのです。香炉が……夜になると、鳴くと」
玉玲の手が止まった。
「鳴く?」
「ええ。獣のような、子どものような……誰も姿は見ていません。でも、確かに音がする、と」
(あやかし……)
昨夜の影が、脳裏によみがえる。
女官は言い淀み、周囲を気にしながら続けた。
「宦官殿が……玉玲を呼べと」
玄曜。
名を聞くだけで、胸の奥がひやりとする。
忘れろ、と言われたはずなのに――忘れられるわけがなかった。
玉玲は小さく頷き、薬箱を抱えた。
*
静華の寝殿は、昼間でも薄暗かった。
香を焚くのを禁じられたため、空気は澄んでいるはずなのに、どこか重い。
玉玲は一歩足を踏み入れただけで、違和感を覚えた。
(……音)
確かに、聞こえる。
耳ではなく、鼻の奥で。
匂いが、鳴いている。
「来たか」
柱の陰から、玄曜が姿を現した。
相変わらず黒衣。
無駄のない所作で近づいてくる姿は、宦官というより、武人に近い。
「香炉だ」
示された先には、新しく置かれた白磁の香炉があった。
蓋は閉じられ、香は焚かれていない。
――それなのに。
玉玲は、ぞくりとした。
「……中に、何かいます」
「分かるか」
「はい」
香炉に近づくほど、匂いは強くなる。
昨夜のものとは違う。より幼く、未熟で、しかし確かに悪意を孕んだ気配。
玉玲は香炉の前に膝をついた。
「これは……香そのものではありません。香を“巣”にして生まれた、小さなあやかしです」
「生まれた?」
「長く同じ香を焚き続けると、思念が溜まります。恐れ、嫉妬、祈り……それらが形を持つことがある」
後宮では、特に。
玉玲はそっと蓋に手を伸ばしかけ、止めた。
「開けると、暴れます」
「では、どうする」
玄曜の問いに、玉玲は一瞬、迷った。
「……薬で、眠らせます」
「祓わないのか」
「祓えば消えます。でも――」
玉玲は、香炉に向かって静かに言った。
「このあやかしは、まだ“害”を為していません。ただ、ここに居たいだけです」
玄曜は、玉玲をじっと見つめた。
その視線に、値踏みするような冷たさはない。
あるのは、純粋な興味――いや、もっと深い何かだった。
「お前は、あやかしを憐れむのか」
「……分かりません」
正直な答えだった。
「ただ、薬師として……無駄に殺す必要はないと、教えられました」
母の声が、胸の奥で響く。
――治せぬものを殺すのが、薬師の役目ではない。
玉玲は調合した香包を取り出し、香炉の傍に置いた。
甘く、柔らかな匂いが広がる。
やがて。
――くぅ。
確かに、何かが眠りにつく音がした。
「……鳴き止んだな」
「はい。今夜には消えます」
玄曜はしばらく香炉を見つめ、やがてぽつりと呟いた。
「優しい薬師だ」
その言葉に、玉玲は顔を上げた。
「だが、後宮では……」
玄曜は視線を逸らす。
「優しさは、毒になる」
玉玲の胸が、きしんだ。
彼自身が、その毒に侵されているように見えたからだ。
「宦官殿」
「玄曜だ」
「……玄曜様」
呼び直すと、彼の眉がわずかに動いた。
「昨夜、香炉の影を……どうなさいましたか」
一歩、踏み込んだ問い。
命を縮めかねない一言。
玄曜はしばらく沈黙し、やがて低く答えた。
「喰った」
淡々とした声音。
「俺の役目だ」
それ以上、説明はなかった。
玉玲は、それ以上問わなかった。
問えば、戻れなくなると直感したからだ。
だが――
玄曜が去り際に、ふと足を止める。
「……お前」
「はい」
「俺の近くにいると、危ない」
そう言って、振り返らずに歩き去った。
残された玉玲は、香炉の前でしばらく動けなかった。
危ないのは、彼なのか。
それとも――彼に惹かれ始めている、自分なのか。
その夜。
玉玲は再び夢を見た。
鬼の角を持つ男が、血に濡れた香炉の前に立っている。
『優しいな、薬師』
夢の中で、彼は初めて笑った。
それが、なぜかとても――哀しかった。
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