2 / 13
第一章:後宮に棲む毒
第2話 あやかしの診立て
しおりを挟む翌朝、後宮は何事もなかったかのように目を覚ました。
皇妃・静華が倒れた夜の騒ぎは、まだ薄闇のうちに封じられ、女官たちは噂話ひとつ漏らさぬよう口を噤んでいる。後宮とはそういう場所だ。
事件は起きても、起きなかったことになる。
蘇玉玲は、薬庫の一角で薬草を刻みながら、鼻先をかすめる匂いに神経を研ぎ澄ませていた。
(……まだ、残っている)
微かだが、確かに。
昨夜嗅いだ、あの苦く鉄臭い香の余韻が、空気の底に沈んでいる。
後宮全体が、ひとつの巨大な香炉のようだ――そう思うことがある。
焚かれ、混ざり、残り続ける匂いは、嘘や恐怖と同じで、完全には消えない。
「玉玲」
名を呼ばれ、顔を上げる。
年若い女官が立っていた。下級妃付きの者だが、今日はどこか落ち着かない。
「静華さまのご容態、少し落ち着かれたそうです」
「……そう」
胸の奥で、かすかな安堵が広がる。
助かる――玄曜はそう言った。
その言葉が本当だったことに、玉玲はほっとしていた。
「ただ……」
女官は声を潜める。
「香を替えたのに、またおかしなことが起きているのです。香炉が……夜になると、鳴くと」
玉玲の手が止まった。
「鳴く?」
「ええ。獣のような、子どものような……誰も姿は見ていません。でも、確かに音がする、と」
(あやかし……)
昨夜の影が、脳裏によみがえる。
女官は言い淀み、周囲を気にしながら続けた。
「宦官殿が……玉玲を呼べと」
玄曜。
名を聞くだけで、胸の奥がひやりとする。
忘れろ、と言われたはずなのに――忘れられるわけがなかった。
玉玲は小さく頷き、薬箱を抱えた。
*
静華の寝殿は、昼間でも薄暗かった。
香を焚くのを禁じられたため、空気は澄んでいるはずなのに、どこか重い。
玉玲は一歩足を踏み入れただけで、違和感を覚えた。
(……音)
確かに、聞こえる。
耳ではなく、鼻の奥で。
匂いが、鳴いている。
「来たか」
柱の陰から、玄曜が姿を現した。
相変わらず黒衣。
無駄のない所作で近づいてくる姿は、宦官というより、武人に近い。
「香炉だ」
示された先には、新しく置かれた白磁の香炉があった。
蓋は閉じられ、香は焚かれていない。
――それなのに。
玉玲は、ぞくりとした。
「……中に、何かいます」
「分かるか」
「はい」
香炉に近づくほど、匂いは強くなる。
昨夜のものとは違う。より幼く、未熟で、しかし確かに悪意を孕んだ気配。
玉玲は香炉の前に膝をついた。
「これは……香そのものではありません。香を“巣”にして生まれた、小さなあやかしです」
「生まれた?」
「長く同じ香を焚き続けると、思念が溜まります。恐れ、嫉妬、祈り……それらが形を持つことがある」
後宮では、特に。
玉玲はそっと蓋に手を伸ばしかけ、止めた。
「開けると、暴れます」
「では、どうする」
玄曜の問いに、玉玲は一瞬、迷った。
「……薬で、眠らせます」
「祓わないのか」
「祓えば消えます。でも――」
玉玲は、香炉に向かって静かに言った。
「このあやかしは、まだ“害”を為していません。ただ、ここに居たいだけです」
玄曜は、玉玲をじっと見つめた。
その視線に、値踏みするような冷たさはない。
あるのは、純粋な興味――いや、もっと深い何かだった。
「お前は、あやかしを憐れむのか」
「……分かりません」
正直な答えだった。
「ただ、薬師として……無駄に殺す必要はないと、教えられました」
母の声が、胸の奥で響く。
――治せぬものを殺すのが、薬師の役目ではない。
玉玲は調合した香包を取り出し、香炉の傍に置いた。
甘く、柔らかな匂いが広がる。
やがて。
――くぅ。
確かに、何かが眠りにつく音がした。
「……鳴き止んだな」
「はい。今夜には消えます」
玄曜はしばらく香炉を見つめ、やがてぽつりと呟いた。
「優しい薬師だ」
その言葉に、玉玲は顔を上げた。
「だが、後宮では……」
玄曜は視線を逸らす。
「優しさは、毒になる」
玉玲の胸が、きしんだ。
彼自身が、その毒に侵されているように見えたからだ。
「宦官殿」
「玄曜だ」
「……玄曜様」
呼び直すと、彼の眉がわずかに動いた。
「昨夜、香炉の影を……どうなさいましたか」
一歩、踏み込んだ問い。
命を縮めかねない一言。
玄曜はしばらく沈黙し、やがて低く答えた。
「喰った」
淡々とした声音。
「俺の役目だ」
それ以上、説明はなかった。
玉玲は、それ以上問わなかった。
問えば、戻れなくなると直感したからだ。
だが――
玄曜が去り際に、ふと足を止める。
「……お前」
「はい」
「俺の近くにいると、危ない」
そう言って、振り返らずに歩き去った。
残された玉玲は、香炉の前でしばらく動けなかった。
危ないのは、彼なのか。
それとも――彼に惹かれ始めている、自分なのか。
その夜。
玉玲は再び夢を見た。
鬼の角を持つ男が、血に濡れた香炉の前に立っている。
『優しいな、薬師』
夢の中で、彼は初めて笑った。
それが、なぜかとても――哀しかった。
1
あなたにおすすめの小説
雪嶺後宮と、狼王の花嫁
由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。
巫女として献上された少女セツナは、
封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。
人と妖、政と信仰の狭間で、
彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。
雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。
オオカミ様の契約婚約者になりました――兄がやらかしたので、逃げます!――
ととせ
キャラ文芸
神代の時代から、人は守り神と共に生きてきた。人は守り神を信仰し、奉ることで様々な加護を得る。守り神は人々の信仰を糧とし、代わりに富や名声、時には人ならざる能力までも与えてくれた…。
豪商、羽立野(はたての)家の娘三葉(みつば)は、家族から妾の子として蔑まれ使用人と同じ扱いされていた。数年後には父の道具として顔も知らない相手と政略結婚させられるのだ…。そう人生を諦めていた時、兄の明興(ともあき)が公の場で財界の重鎮「蛇頭家(じゃとうけ)」との業務提携を一方的に破棄した挙げ句、蛇頭家の一人娘、江奈(えな)に対して「妾になれ」などというやらかしをてしまう。
呆れ果てた三葉は空気である立場を最大限利用して、羽立野家から逃亡し見知らぬ家で女中として働き始めた。……はずなのに、何故か当主の大神弘城(おおかみ ひろき)から「契約婚」をしないかと持ちかけられて。これから私、どうなるの?
大正時代風のあやかし結婚譚。
カクヨムにも掲載しています。
後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。
それは愛のない政略結婚――
人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。
後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。
【完】出来損ない令嬢は、双子の娘を持つ公爵様と契約結婚する~いつの間にか公爵様と7歳のかわいい双子たちに、めいっぱい溺愛されていました~
夏芽空
恋愛
子爵令嬢のエレナは、常に優秀な妹と比較され家族からひどい扱いを受けてきた。
しかし彼女は7歳の双子の娘を持つ公爵――ジオルトと契約結婚したことで、最低な家族の元を離れることができた。
しかも、条件は最高。公の場で妻を演じる以外は自由に過ごしていい上に、さらには給料までも出してくてれるという。
夢のような生活を手に入れた――と、思ったのもつかの間。
いきなり事件が発生してしまう。
結婚したその翌日に、双子の姉が令嬢教育の教育係をやめさせてしまった。
しかもジオルトは仕事で出かけていて、帰ってくるのはなんと一週間後だ。
(こうなったら、私がなんとかするしかないわ!)
腹をくくったエレナは、おもいきった行動を起こす。
それがきっかけとなり、ちょっと癖のある美少女双子義娘と、彼女たちよりもさらに癖の強いジオルトとの距離が縮まっていくのだった――。
もっと早く、伝えていれば
嶌田あき
キャラ文芸
記憶から生まれ、1ヶ月で消える運命のあやかし・憶。鎌倉の古い喫茶店「波音堂」で目覚めた彼が最初に出会ったのは、17歳の高校生・夏希だった。
同じ17歳なのに、夏希には18歳の誕生日が来る。憶には来ない。
憶は、大切な人を失った人々を「記憶の渚」へ導き、故人の記憶と対話する手伝いをしている。言えなかった恋の告白、12年越しのさよなら、認知症の夫への思い――4つの「弔い」を通じて、憶は生きること、死ぬこと、記憶することの意味を知っていく。
そして最後、憶は自分の正体を知る。憶は、夏希の母の記憶から生まれたのだと。
「もっと早く、伝えていれば」と後悔する人々に寄り添いながら、憶自身も夏希との限られた時間の中で、大切な気持ちを伝えようとする。
1ヶ月後、憶は静かに光の粒子となって消えていく。でも憶の存在は、夏希の記憶の中で永遠に生き続ける――。
鬼様に生贄として捧げられたはずが、なぜか溺愛花嫁生活を送っています!?
小達出みかん
キャラ文芸
両親を亡くし、叔父一家に冷遇されていた澪子は、ある日鬼に生贄として差し出される。
だが鬼は、澪子に手を出さないばかりか、壊れ物を扱うように大事に接する。美味しいごはんに贅沢な衣装、そして蕩けるような閨事…。真意の分からぬ彼からの溺愛に澪子は困惑するが、それもそのはず、鬼は澪子の命を助けるために、何度もこの時空を繰り返していた――。
『あなたに生きていてほしい、私の愛しい妻よ』
繰り返される『やりなおし』の中で、鬼は澪子を救えるのか?
◇程度にかかわらず、濡れ場と判断したシーンはサブタイトルに※がついています
◇後半からヒーロー視点に切り替わって溺愛のネタバレがはじまります
紅玉楽師は後宮の音を聞く 〜生き残りたい私の脱走計画〜
高里まつり
キャラ文芸
【耳のいい隠れ長公主】✕【したたかな美貌の文官】コンビが挑む後宮の陰謀!
片目が紅い娘・曄琳(イェリン)は訳あって後宮から逃走した妃の娘ーー先帝の血を引く、隠れ長公主。
貧民街で隠れて生活していたのに、ひょんなことから宮廷に舞い戻ってしまった曄琳は、生まれを秘匿し、楽師としてあらゆる音を聞き分けるという特技を活かしながら、宮廷からの脱走を目論んでいた。
しかしある日、後宮で起きた幽鬼騒動の解決に駆り出された先で、運命を狂わされてしまう。
利用できるものは利用します精神の美形の文官・暁明(シャオメイ)と、出生の秘密をなんとか隠して外に出たい曄琳。
二人が後宮での事件を追う中で、母や貴妃の死、過去の出来事が少しずつ絡んで、宮廷の陰謀に巻き込まれていく。契約じみた曄琳と暁明の関係も少しずつ、少しずつ、形を変えていきーー?
曄琳の運命やいかに!
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる