1 / 12
第一章:後宮に棲む毒
第1話 毒香の皇妃
しおりを挟む後宮の夜は、昼よりも香りが濃い。
沈香、白檀、麝香――女たちの祈りと欲望が混ざり合い、甘く澱んだ匂いとなって廊を満たす。
その中に、あってはならない香が混じっていた。
「……これは」
蘇玉玲は、わずかに眉を寄せた。
皇妃・静華の寝殿。
玉玲は下級妃付きの見習い薬師にすぎず、本来なら足を踏み入れる資格はない。それでも今、彼女は寝台の脇に膝をつき、皇妃の手首にそっと指を添えていた。
脈は乱れ、肌は冷たい。
そして――
(香が、苦い)
鼻をつくのは、確かに高価な伽羅香だ。だがその奥に、微かに鉄のような、生臭い甘さが潜んでいる。
玉玲は息を殺し、香炉へと視線を移した。
「……毒では、ありません」
静まり返った寝殿に、ざわりと空気が揺れる。
「何を言う。皇妃様は香を焚いて倒れられたのだぞ」
年嵩の女官が鋭く言い放つ。
他の女官たちも、玉玲を睨みつけた。失言一つで首が飛ぶ後宮で、これはあまりにも大胆な物言いだった。
玉玲は唇を噛み、慎重に言葉を選ぶ。
「人の毒ではありません。薬理にも合致しない……香に、何かが憑いているように感じます」
――言ってしまった。
自分でも分かっている。
あやかしの存在は、後宮では“知っていても口にしてはならない”類のものだ。
次の瞬間。
「黙れ!」
叱責が飛び、玉玲の肩が強く掴まれた。
「見習いが妄言を吐くとは!皇妃様を呪う気か!」
処罰。
その二文字が脳裏をよぎったとき。
「――離せ」
低く、凍るような声が寝殿に響いた。
女官たちが一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、皇帝付きの宦官――玄曜だった。
月光を背に、黒衣をまとった青年。
年は二十前後だろうか。整った顔立ちだが、表情は乏しく、感情の揺らぎを一切見せない。
彼が一歩踏み出すだけで、空気が変わった。
「その娘を放せ。皇妃の容態は、確かに毒ではない」
「な、なぜ宦官殿が……」
「陛下の命だ」
それだけで、誰も逆らえなかった。
玄曜は玉玲に視線を落とす。
その瞳は、夜の闇を閉じ込めたように深い。
「名は」
「……蘇玉玲です」
「香を診たのか」
「はい」
短いやり取り。
だが、玄曜は玉玲の答えを疑わなかった。
「この香炉を下げろ。別の香に替えよ。皇妃には、これ以上近づけるな」
命じると同時に、彼は香炉へと手を伸ばした。
その瞬間。
――ぞわり。
玉玲の背筋を、冷たいものが走った。
(だめ……!)
「宦官殿、それは――」
止めるより早く、玄曜の指が香炉に触れた。
ぱち、と。
小さな音がして、香炉の中から黒い影が滲み出る。
人の形をしていない。
煙のようで、獣のようで、確かに何かだった。
女官たちの悲鳴が上がる。
だが、玄曜は一歩も引かなかった。
影は彼の腕に絡みつき――次の瞬間、霧散した。
まるで、喰われたかのように。
「……問題ない」
玄曜は何事もなかったように言った。
だが玉玲は見てしまった。
彼の指先に、一瞬だけ浮かんだ――黒い紋様を。
(あやかしを、祓った……?いいえ、違う)
祓ったのではない。
――取り込んだ。
玄曜は玉玲を振り返る。
「お前、後宮に残れ」
「……え?」
「香と毒を嗅ぎ分けられる薬師は貴重だ。皇妃は助かる。だが――」
彼は少しだけ、声を落とした。
「今日見たことは、忘れろ」
それは忠告であり、命令だった。
玉玲は深く頭を下げるしかなかった。
「……はい」
その夜。
玉玲は自室の寝台で、奇妙な夢を見た。
暗い廊下。
香の煙の中で、一人の男がこちらを見ている。
額から、角が生えていた。
人でありながら、人ではない存在。
男は静かに口を開く。
『その毒は、俺の血の味がする』
目を覚ましたとき、玉玲の鼻腔には、あの苦い香がまだ残っていた。
そして彼女は知らなかった。
この夜を境に、自分の運命が――後宮そのものを揺るがすものへと変わっていくことを。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
【書籍化】番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました
降魔 鬼灯
恋愛
コミカライズ化決定しました。
ユリアンナは王太子ルードヴィッヒの婚約者。
幼い頃は仲良しの2人だったのに、最近では全く会話がない。
月一度の砂時計で時間を計られた義務の様なお茶会もルードヴィッヒはこちらを睨みつけるだけで、なんの会話もない。
お茶会が終わったあとに義務的に届く手紙や花束。義務的に届くドレスやアクセサリー。
しまいには「ずっと番と一緒にいたい」なんて言葉も聞いてしまって。
よし分かった、もう無理、婚約破棄しよう!
誤解から婚約破棄を申し出て自制していた番を怒らせ、執着溺愛のブーメランを食らうユリアンナの運命は?
全十話。一日2回更新 完結済
コミカライズ化に伴いタイトルを『憂鬱なお茶会〜殿下、お茶会を止めて番探しをされては?え?義務?彼女は自分が殿下の番であることを知らない。溺愛まであと半年〜』から『番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました』に変更しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる