『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第一章:後宮に棲む毒

第1話 毒香の皇妃

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 後宮の夜は、昼よりも香りが濃い。
 沈香、白檀、麝香――女たちの祈りと欲望が混ざり合い、甘く澱んだ匂いとなって廊を満たす。

 その中に、あってはならない香が混じっていた。

「……これは」

 蘇玉玲そ・ぎょくれいは、わずかに眉を寄せた。

 皇妃・静華せいかの寝殿。
 玉玲は下級妃付きの見習い薬師にすぎず、本来なら足を踏み入れる資格はない。それでも今、彼女は寝台の脇に膝をつき、皇妃の手首にそっと指を添えていた。

 脈は乱れ、肌は冷たい。
 そして――

(香が、苦い)

 鼻をつくのは、確かに高価な伽羅香だ。だがその奥に、微かに鉄のような、生臭い甘さが潜んでいる。

 玉玲は息を殺し、香炉へと視線を移した。

「……毒では、ありません」

 静まり返った寝殿に、ざわりと空気が揺れる。

「何を言う。皇妃様は香を焚いて倒れられたのだぞ」

 年嵩の女官が鋭く言い放つ。
 他の女官たちも、玉玲を睨みつけた。失言一つで首が飛ぶ後宮で、これはあまりにも大胆な物言いだった。

 玉玲は唇を噛み、慎重に言葉を選ぶ。

「人の毒ではありません。薬理にも合致しない……香に、何かが憑いているように感じます」

 ――言ってしまった。

 自分でも分かっている。
 あやかしの存在は、後宮では“知っていても口にしてはならない”類のものだ。

 次の瞬間。

「黙れ!」

 叱責が飛び、玉玲の肩が強く掴まれた。

「見習いが妄言を吐くとは!皇妃様を呪う気か!」

 処罰。
 その二文字が脳裏をよぎったとき。

「――離せ」

 低く、凍るような声が寝殿に響いた。

 女官たちが一斉に振り返る。

 そこに立っていたのは、皇帝付きの宦官――玄曜げんようだった。

 月光を背に、黒衣をまとった青年。
 年は二十前後だろうか。整った顔立ちだが、表情は乏しく、感情の揺らぎを一切見せない。

 彼が一歩踏み出すだけで、空気が変わった。

「その娘を放せ。皇妃の容態は、確かに毒ではない」

「な、なぜ宦官殿が……」

「陛下の命だ」

 それだけで、誰も逆らえなかった。

 玄曜は玉玲に視線を落とす。
 その瞳は、夜の闇を閉じ込めたように深い。

「名は」

「……蘇玉玲です」

「香を診たのか」

「はい」

 短いやり取り。
 だが、玄曜は玉玲の答えを疑わなかった。

「この香炉を下げろ。別の香に替えよ。皇妃には、これ以上近づけるな」

 命じると同時に、彼は香炉へと手を伸ばした。

 その瞬間。

 ――ぞわり。

 玉玲の背筋を、冷たいものが走った。

(だめ……!)

「宦官殿、それは――」

 止めるより早く、玄曜の指が香炉に触れた。

 ぱち、と。
 小さな音がして、香炉の中から黒い影が滲み出る。

 人の形をしていない。
 煙のようで、獣のようで、確かに何かだった。

 女官たちの悲鳴が上がる。

 だが、玄曜は一歩も引かなかった。

 影は彼の腕に絡みつき――次の瞬間、霧散した。

 まるで、喰われたかのように。

「……問題ない」

 玄曜は何事もなかったように言った。

 だが玉玲は見てしまった。
 彼の指先に、一瞬だけ浮かんだ――黒い紋様を。

(あやかしを、祓った……?いいえ、違う)

 祓ったのではない。
 ――取り込んだ。

 玄曜は玉玲を振り返る。

「お前、後宮に残れ」

「……え?」

「香と毒を嗅ぎ分けられる薬師は貴重だ。皇妃は助かる。だが――」

 彼は少しだけ、声を落とした。

「今日見たことは、忘れろ」

 それは忠告であり、命令だった。

 玉玲は深く頭を下げるしかなかった。

「……はい」

 その夜。

 玉玲は自室の寝台で、奇妙な夢を見た。

 暗い廊下。
 香の煙の中で、一人の男がこちらを見ている。

 額から、角が生えていた。

 人でありながら、人ではない存在。

 男は静かに口を開く。

『その毒は、俺の血の味がする』

 目を覚ましたとき、玉玲の鼻腔には、あの苦い香がまだ残っていた。

 そして彼女は知らなかった。
 この夜を境に、自分の運命が――後宮そのものを揺るがすものへと変わっていくことを。




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