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第4話 守られるということ
しおりを挟むヴァレンシュタイン公爵邸の客室は、静かだった。
豪奢ではあるけれど、押しつけがましさはない。
柔らかな色合いの調度品に、落ち着いた香り。
まるで、最初から私のために用意されていたかのような部屋だった。
「……落ち着かない、わね」
そう呟いて、そっとベッドに腰を下ろす。
伯爵家を出てから、まだ一日も経っていない。
それなのに、あの屋敷で過ごした三年間が、ずっと遠い昔のように感じられた。
――私は、本当に離婚したのだ。
胸に手を当てる。
痛みは、ない。
代わりにあるのは、奇妙なほどの静けさ。
ノックの音がして、顔を上げた。
「リュシエンヌ。入ってもいいだろうか」
セドリック様の声。
「はい」
扉が開き、彼は一礼してから室内に入ってきた。
手には、温かそうなカップが二つ。
「眠れそうにないだろう」
「……お見通しですね」
苦笑すると、彼は片方を私に差し出した。
「カモミールだ。昔、君が好んでいただろう」
その一言に、胸がきゅっと縮む。
「……覚えていて、くださったのですか」
「忘れる方が、難しい」
彼はそう言って、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく、二人で黙ってお茶を飲む。
沈黙は、気まずさよりも安心感を運んできた。
「……不思議です」
私は、ぽつりと言った。
「怖くないんです」
「何がだ?」
「これからのことが」
伯爵夫人という立場を失い、
世間体も、保証された居場所もない。
本来なら、不安で眠れなくて当然なのに。
「それは」
セドリック様は静かに言う。
「ここでは、君が何者であるかを証明する必要がないからだ」
はっとして、彼を見る。
「妻でも、伯爵夫人でもなく」
彼は続ける。
「ただ、リュシエンヌとしていればいい」
その言葉は、私の胸の奥に、深く沈んだ。
――私は、ずっと役割で生きてきた。
良き妻。
完璧な伯爵夫人。
感情を抑え、家のために最適解を選ぶ存在。
「……甘えても、いいのでしょうか」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分でも驚くほど、小さな声で。
セドリック様は、少しだけ目を見開き、
それから、ゆっくりと頷いた。
「むしろ、そうしてほしい」
「……迷惑では?」
「全く」
即答だった。
彼は立ち上がり、私の前に膝をつく。
視線の高さが、同じになる。
「君は、強い」
低く、穏やかな声。
「だが、強くあろうとしすぎた」
指先が、そっと私の手に触れた。
温かい。
「ここでは、弱くなっていい」
「……もし、依存してしまったら」
「構わない」
迷いのない瞳。
「依存される覚悟がない男は、最初から迎えに来ない」
その瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。
「……ずるい、です」
思わず、そう漏れる。
「そんなふうに言われたら……」
言葉の続きを、声にできなかった。
代わりに、目が熱くなる。
泣くつもりはなかった。
でも、涙は勝手に溢れてきた。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
彼は立ち上がり、私をそっと抱き寄せた。
強くはない。
逃げ道を残した、優しい腕。
「ここにいる間は」
耳元で、囁く。
「誰にも、君を傷つけさせない」
その言葉に、身体の力が抜けた。
――ああ。
これが、「守られる」ということなのだ。
伯爵家では、私は守る側だった。
家を、体面を、夫の立場を。
でも今は違う。
私は、何も差し出さずに、
ただ抱きしめられている。
「……眠れそうです」
小さく言うと、彼は微笑んだ。
「それは良かった」
離れる直前、彼は一瞬だけ、真剣な表情になる。
「リュシエンヌ」
「はい」
「今夜は、休め」
低く、確かな声。
「戦いは、私が引き受ける」
その意味を、私はまだ深く考えなかった。
ただ――
この人のそばなら、大丈夫だと。
そう、思ってしまったのだ。
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