50 / 237
第3章「後退」
49話
しおりを挟むモニカside
嗅ぎなれない消毒の香りが鼻腔を擽る。そのツンとした独特の香りに刺激され、私は重い瞼を開いた。
「…?」
ぼんやりとした視界に入り込むのは、上等な白い天井。自分の部屋では無いことが明らかであるが、微睡みから覚めたばかりの頭ではそれを理解するまで時間がかかる。
「気が付いたかい?」
すぐ側から声が聞こえてきた。声がした方へ視線を向ければ、初老の男性が椅子に腰掛け、私を心配そうに見下ろしていた。
この顔は知っている。皇族のお抱えの医者、皇宮医だ。
この時、自分がベッドの上で寝ていたことに気付いた。
「…ここは?」
ベッドからむくりと起き上がりながら、今まで発したことのない、しゃがれ声に驚いた。相当、喉がイカれているようだ。
「ここは、皇宮の医務室だよ。煙を多く吸い込み過ぎた君は、中庭で倒れていたんだ。」
ガンガン痛む頭を手で支える。
中庭…。その言葉に引っ張られるように思い出すのは、青い炎に焼かれる聖女の姿。
「…っ!」
思い出した。
そうだ、私は牢屋を飛び出して中庭に向かったんだ。そして、そこには炎に包まれる聖女と、それを見上げるアルベルトが…。
「せ、聖女マリーはどうなったんですか!?アル、陛下は…」
「静かに。聖女の名を口にしては、いけないよ。」
男の凄みのある声に、私は思わず押し黙る。その静かな威圧感に、ただならぬものを感じた。
「いいかい、聖女は初めから居なかったんだ。」
「…は、はぁ?」
―コイツは一体何を言ってんだ?
信じられないものを見るかのように、私は無言のまま男を見つめた。
「私たちは、悪い夢を見ていたんだよ。もう時期、この悪夢も私たちの中から完全に消える。それまで、君はここで大人しく寝ているんだ。」
「ま、待ってください。さっきから貴方は何を言って…分かるように説明して下さい。」
男が何を言っているのか、まるで理解ができない。理解できないのに、全身が嫌にざわめく。心臓は大きく鼓動を訴え、実際に耳にまで届いてしまいそうだった。
そんな私の様子を見た男は目を伏せ、静かに語り出す。
――そして、その言葉に耳を疑った。
男の話によると、アルベルトは、旅行から帰ってきた聖女を火刑台に縛り付けて、火を放ったそうだ。
その後、聖女の身体は、業火で滅却されたように骨一つ残さずに消滅され、それを確認したアルベルトは、皇宮に居る者にこう言った。
「聖女は初めから居なかった。この忌々しい記憶と歴史は消し去る。」と。
アルベルトはその言葉どおりに、自身の“青の魔力”を使い、ノルデン帝国全体に大規模な魔法をかけた。
魔法をかけられた帝国は、聖女の痕跡を完全に消滅させ、民衆は静かに聖女の記憶を失うという。
民衆から完全に聖女の記憶が消えれば、前と同じく聖女はおとぎ話の中の存在となるのだ。
そして、アルベルトは寝るまを惜しんで、傾いた財政の立て直しに尽力を注いでいる。
話し終えた男は水差しを取ってくると言って、傍を離れた。
一人残された私は、掛け布団を握り締める。
―ふざけるなっ!!!
心の底から湧き上がる憤怒の炎に、身体がわなわなと震え出す。私は怒りに目を見開き、唇をかみ締めた。
聖女の記憶を消す?初めから聖女は居なかった?
民衆を馬鹿にするのもいい加減にしろっ!
自分が聖女に惑わされたという事実を、便利な魔法を使って揉み消そうとしているだけじゃないか。
なんて、身勝手で不誠実な男なんだっ!!
今さら、正気に戻ったって遅いんだ!お嬢様はもうこの世に居ない。
そこで、ハッとする。
聖女の存在が消えれば、お嬢様の存在も消えてしまうのではないだろうか。
正気に戻ったアルベルトなら、お嬢様が冤罪だったことに気付いたはず。まさか、アルベルトはそのことも揉み消そとしているのでは?自分が聖女に言われるまま、無実のお嬢様を処刑してしまったという事実も全て、無かったことに…
怒りで目の前が真っ赤になる。許せない許せない許せない許せないっ!
アイツは邪魔者が消えた世界で、自分だけがのうのうと生きていくつもりなんだっ!!!
そんな奴、生かしておけない。
皇宮医は聖女のことを悪夢だと言っていたが、1番の悪夢はアルベルトがのうのうと生きていることだ!
私はすぐさまアルベルトを殺しに行こうとベッドから降り立つ。
「―あっ、」
そして、一歩も踏み出せないまま、その場に崩れ落ちた。
足に力が入らない。思い通りにならない自身の身体に舌打ちをする。
―くそっ!動け、動けよっ!
「何をやっているんだ!?」
水差しを持ってきた皇宮医が戻ってきてしまった。
皇宮医は床に倒れ込む私に駆け寄り、すぐさま身体を支える。
「安静にしていないと駄目じゃないか。」
そう言う男の目が淡く光り始めると、私の身体が中を浮き、そのままゆっくりとベッドの上へと戻された。
男は魔法を使ったのだと、遅れて気づく。
「君の身体は大量に煙を吸った上に、1週間も飲まず食わずだったせいで、もうボロボロなんだ。頼むから、大人しく寝ていてくれ。」
医者に厳しい声音でそう言われてしまったら、何も言い返せない。私は俯き、唇を噛んだ。
「今は色々と混乱していると思うけど、時期に陛下の魔法が効いてくるはずだ。そうすれば、もう大丈夫だよ。」
魔法が効くまで大人しく寝てろだって?冗談じゃない!
アルベルトの魔法が効いてしまえば、聖女の事を忘れてしまう!それだけでなく、お嬢様の事も、私が何のために皇宮に忍び込んだのか、その目的全てが…っ!
そんなのは駄目だ。
私しか居ないんだ。
お嬢様の無念を晴らせるのは、私しか…
黙り込む私に皇宮医は見当違いのとこを言ってくる。
「分かってくれたようで嬉しいよ、モニカ。」
「勘違いしてんじゃねーよ、ハゲ。」と言ってやりたかったが、皇宮医がしがない侍女である私の名前を知っていたことに驚いた。
「何で私の名前を…」
「あぁ、君は皇宮では有名人だからね。」
「有名人?」
…まさか、私がアルベルトを殺そうとしているのがバレたのだろうか。背中に嫌な汗が流れる。いや、バレているのなら私は今頃、冷たい牢屋の中だろう。
ふと、床に倒れ込むアルベルトを思い出す。
―そうだ!私はアルベルトに毒を盛ったことになっているんだった。
顔を青くする私を他所に、皇宮医は何故かくつくつと笑い出す。
「陛下にあんなお茶を出すなんて、君は心臓に毛でも生えているのかい?」
「…は?」
「陛下も仰っていたよ。「こんなにも不味い茶を飲んだのは生まれて初めてだ。」ってね。」
「…。」
私はすっと真顔になった。
97
あなたにおすすめの小説
愛される日は来ないので
豆狸
恋愛
だけど体調を崩して寝込んだ途端、女主人の部屋から物置部屋へ移され、満足に食事ももらえずに死んでいったとき、私は悟ったのです。
──なにをどんなに頑張ろうと、私がラミレス様に愛される日は来ないのだと。
前世と今世の幸せ
夕香里
恋愛
【商業化予定のため、時期未定ですが引き下げ予定があります。詳しくは近況ボードをご確認ください】
幼い頃から皇帝アルバートの「皇后」になるために妃教育を受けてきたリーティア。
しかし聖女が発見されたことでリーティアは皇后ではなく、皇妃として皇帝に嫁ぐ。
皇帝は皇妃を冷遇し、皇后を愛した。
そのうちにリーティアは病でこの世を去ってしまう。
この世を去った後に訳あってもう一度同じ人生を繰り返すことになった彼女は思う。
「今世は幸せになりたい」と
※小説家になろう様にも投稿しています
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?
水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。
私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
最初からここに私の居場所はなかった
kana
恋愛
死なないために媚びても駄目だった。
死なないために努力しても認められなかった。
死なないためにどんなに辛くても笑顔でいても無駄だった。
死なないために何をされても怒らなかったのに⋯⋯
だったら⋯⋯もう誰にも媚びる必要も、気を使う必要もないでしょう?
だから虚しい希望は捨てて生きるための準備を始めた。
二度目は、自分らしく生きると決めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いつも稚拙な小説を読んでいただきありがとうございます。
私ごとですが、この度レジーナブックス様より『後悔している言われても⋯⋯ねえ?今さらですよ?』が1月31日頃に書籍化されることになりました~
これも読んでくださった皆様のおかげです。m(_ _)m
これからも皆様に楽しんでいただける作品をお届けできるように頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします(>人<;)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる