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第5章「正義の履き違え」
89話
しおりを挟む渡り廊下から魔力保持者の校舎に入り、2階へと続く階段をのぼる。
辺りはしんと静まり返っており、私の足音だけが響いていた。不思議なことに、ここに来るまで誰にもすれ違わなかったのだ。今日は終業式だ。きっと生徒たちは講堂、もしくは教室に居るのだろう。
自分だけがその団体行動から外れ、別行動していることに、少しの罪悪感を覚えつつ、私は階段の踊り場に足を踏み入れた。
あと半分階段をのぼれば殿下の執務室がある2階だ。そのまま階段をのぼろうとするが、ふと手すりを掴んでいる左手に視線が止まり、ギクリと身体を強ばらせた。
―――痣だ。
その手首には手形の赤い痣が、くっきりと残っていた。すぐに先程、彼に掴まれた時に出来た痣だということに気付く。
「…っ、」
その瞬間、思い出したかのように身体が恐怖に震え上がった。自力では立てなくなり、手すりに身体を預ける。
私は、彼に何をした?
口腔内に僅かに残る鉄の味に、全身から嫌な汗が湧き出た。走馬燈のように、先程の出来事が頭の中を駆け巡り、思わず両手で顔を覆う。
あぁ、なんてことをしてしまったのだろう!
遅れてやってきた心を引き裂くような悔恨の念が、一気に押し寄せる。
怒りに我を忘れてしまうだなんて、私らしくない。いざ彼を前にすると、心が恐怖と怒りで支配され、感情を上手くコントロールすることが出来なかった。そのせいで、あの人の不興を買ってしまったのだ。
彼は危険因子を全て摘み取りたいという考えを持っている男だ。そんな男が、このまま私を野放しにしておくはずがない。
私は、自分で自分の寿命を縮めたのだ。
憤怒の炎は呆気なく恐怖の海にのまれ、鎮火してしまった。海は全てを飲み込み、また荒れ狂う波となって、私の心の防波堤を打ち付ける。
その激しく荒ぶる波は、その防波堤をも超えて私の心まで飲み込んでしまった。ぶくぶくと、沈んでいくツギハギだらけの心。だが、弱々しい心は深海まで潜ることはできない。
水圧に押し潰された心から悲しみが溢れ、恐怖の海は深い悲しみの色に染まっていった。
「…は、」
切なげに胸を締め付けられる感覚に戸惑う。
なぜ、私の心は悲しみに溢れているのだろう。
怖がる理由はわかる。怒る理由もわかる。だが、悲しむ理由はわからない。…自分の心がわからない。
…だが、この感覚は知っている。300年前、アルベルト様に冷たくあしらわれた時に感じた胸の痛みとそっくりだ。
―まさか、あの人が私を突き離したことにショックを受けているの?
そこまで考えて愕然とする。
あぁ、なんて馬鹿な…。あの人は私を殺したのだ。そんなことを思うだなんて、狂気の沙汰だとしか思えない。私の心は完全に壊れてしまったのだろうか。
自分が自分で、わからない。まるで、違う何かに塗り替えられていくような感覚。自分が自分でなくなる。そもそも、自分とは?
300年前、私はあの人の為に生まれて、あの人の為に努力をして、あの人の手によって命を散らされた。だから、今度は自分の為に生きて、自分らしく死にたいと願ったのだが…。
自分らしくとは?
嘘で塗り固められた私に、そんなものがあっただろうか。
本当の私は、臆病で不器用で人見知りで、あがり症で頭が固くて相手の気持ちを察するのが下手で口下手で……一人では何もできない出来損ないの人間なのだ。そんな私が、おおそれた確固たる自分を持っているはずがないじゃないか。
だから、生まれ変わっても、所詮何も変わらない。運命はきっと、初めから決まっていたのだ。
「…っ、あぁ、いけない。」
また思考が悲観的になっている。
本当に、私は1人になるとどうしようもない。早く殿下の元へと行かなくては。
そう思うのだが、足が床に縫い付けられてしまったかのように動かない。
「…。」
…私は迷っているのだ。
殿下を助けたい、彼を300年前の呪縛から放ってあげたいと言っていた口で、まだ舌の根の乾かぬうちに殿下に「助けて」と縋るつもりなのかと。
…こういうときばっかり、彼の存在に縋り付こうとする。これでは、殿下に偽善者と言われても何も言い返せない。
殿下は優しいから、私が助けてといえば、きっと助けてくれるだろう。それがわかっているから、私は彼の所に行こうとしているのだ。なんて、卑怯で浅ましい。
でも、本音は
―誰でもいいから、私を助けて。
「エリザベータ様?」
後ろの方から聞こえてきた、鈴が転がるような可憐な声音にビクリと身体を震わせた。
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