118 / 236
第7章「温室栽培」
114話
しおりを挟むユリウスがシャワールームを出た後も、私は床にへたりこんだまま、シャワーを浴び続けていた。だが、身体の震えは一向に収まらない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
何処から間違っていたのかと問われれば、答えはきっと最初からだ。
私は勘違いをしていたのだ。
この1週間、ビアンカやエーミール達と穏やかな日々を過ごし、以前の私よりも前向きになれた。だから、彼を前にしても以前のように取り乱すことはないだろう、と。
思い上がりも甚だしい。
現実は、彼を前にした途端、恐怖で身がすくみ、何も言えなかった。
結局、私は何も変わっていなかったのだ。人間はそう簡単に変われるものではない。それなのに、自惚れた私は自分の都合がいいように、勝手に希望を見出して、話し合えば何とかなるかもだなんて……。
我ながら浅はかな考えに、激しい自己嫌悪に苛まれる。
そもそも、話し合いで何とかなる相手なら、300年前の私は処刑されていないはずだ。
圧倒的な力を持つ彼にとって、無力な私の言葉など虫けらも同然。
身体中に、恐怖に近い悔恨が駆け巡る。
神と虫が分かり合えるはずがないのだ。
「姉上、大丈夫ですか?」
「―ひっ、」
突然、シャワールーム内に響いた控えめなノックに、私は情けない悲鳴を上げた。
「先程からシャワーの音だけですが……倒れているとかではないですよね?」
扉を隔てた向こう側から、私を案じるような声が聞こえてきた。
先程の高圧的な彼とは打って変わって、その声は姉を心配する弟の声そのもの。それが、私の心を掻き乱す。
「姉上?……開けますよ。」
その声と同時にドアノブが回る。ぎょっとした私は慌てて声を上げた。
「た、倒れていないわ!少し長めにシャワーを浴びていただけなの…!」
「あぁ、そうだったんですね。安心しました。」
納得してくれたのか、ドアノブの位置が平行に戻る。それを見て、ほっと胸をなでおろした。
「姉上。ここに着替えとバスタオルを置いておきますので、上がったら使ってください。濡れてしまった服は、カゴの中に入れて頂けたら僕が後で洗っておきます。」
「わ、わかったわ。」
「あと、着替えが終わりましたらベルを鳴らしてください。迎えに行きますから。」
「……えぇ。」
「では、入浴中すみませんでした。ごゆっくり。」
ユリウスの気配が消えたと途端、張り詰めていた糸が緩み、私は小さく息を吐いた。
このまま蹲っていたら、また彼が様子を見に来るかもしれない。今回は見逃してくれたが、次は…。
彼に無理やり身体を洗われることを想像し、身体の芯が震え上がった。そんな屈辱は耐えられない。
のそのそと立ち上がった私は、ずっと出しっぱなしだったシャワーを止める。そして、震える手で服を脱ぎ始めた。ぐっしょりと濡れたワンピースや下着が肌に張り付き、とても脱ぎにくい。
いつもより時間をかけながら全て脱ぎ終えた私は、ビアンカが選んでくれたワンピースが無事かを確かめた。ワンピースは背中のボタンが外されているだけで、裂かれてはいなかった。これなら乾かせば、また着ることができるだろう。
「あぁ、良かった…。」と、喜んだのもつかの間、裂けているコルセットを見て心が一瞬にして冷えあがった。
腕の中には、可哀想なぐらいに濡れてしまったワンピースと、無惨な姿に成り果てたコルセット。
―――これは、彼から受けた加虐の残骸だ。
それに気づいた途端に、目から止めどない涙が溢れてきた。
「…っ、あ…」
何とか涙を止めようとするが、心の底から湧き上がる様々な感情が、それを邪魔する。
悔しくて、悲しくて、許せなくて…。
だが、1番許せないのは、泣くことしかできない無力な己自身だ。
私はワンピースに顔を埋め、必死に嗚咽を押し押し殺す。
泣いても何も変わらない。それは300年前に、身を持って思い知ったこと。
ぐっと奥歯を噛み締めた私は、煩わしいもの全てを洗い流すかのように、荒々しく身体を洗い始めた。
特に首筋は重点的に。何度も、何度も、何度も。それこそ、肌が真っ赤に染るまで。彼の『魚臭い』という一言が、私に強迫観念めいたものを植え付けていたのだ。
身体を洗い終えた私は、バスタブの中にお湯が張っていることに気が付いた。
それが魔法なのか、それとも私が気付いていなかっただけで最初からあったのかは分からないが、心が酷く憔悴していた私は吸い込まれるかのようにバスタブの中に身を沈めた。
湯の中に入ると、身体に溜まった疲れが滲み出てくるような気がする。
心地よいお湯に包まれて、暴風雨のように荒れていた気持ちが少しだけ落ち着いてきた。人間がお風呂に安らぎを感じるのは、母親のお腹の中で羊水に包まれていた頃の記憶があるからなのだろうか?
そんなことを考える余裕が生まれてきた私の頭に、ふとエーミールの言葉が過った。
―――『戦略的撤退って知っている?』
「……。」
膝を抱えて、思案に耽る。
ユリウスを前にしただけで竦み上がってしまう今の私では、彼と話し合うだなんて到底無理な話だろう。
だからこそ、彼と対等に話し合う為には、何かしらの準備が必要だ。丸腰のままで勝てる相手ではない。
私は肺に溜まっていた空気を吐き出す。
彼と向き合う為に何が必要なのか、今はまだ分からないが、態勢を立て直すためにも、ここは1度引くべきだ。
―…よし。
ここから逃げる決意をした私は、湯船から立ち上がった。そして、先程脱いだ衣服を拾い上げながらシャワールームを出ると案の定、扉の先は脱衣場に続いていた。
その扉のすぐ横には、洗濯カゴが置いてある。きっとこれが、ユリウスが言っていたカゴだろう。
私は少し躊躇したのち、抱えていた衣服をカゴの中にいれた。本当は持ち帰りたかったが、これを抱えたまま逃げるのは難しいだろうと思ったからだ。
洗面台には、いつも使っている化粧水などのスキンケア用品が並べられていた。これは有難い。
そして、その洗面台の脇にある棚の上には、バスタオルと着替えが用意されていた。
「……。」
私は、まるで売り物のように並んでいる夜着見て、首をに捻る。
何故、夜着が3種類もあるのだろうと。
…もしや好きなものを選べ、ということなのだろうか。
ここまで至れり尽くせりだと、かえって怪しさを感じてしまう。これも何かの罠?それとも、ただ純粋に姉である私を気遣ってくれているのか。…いや、それはないか。
素早くバスタオルを身体に巻き付けた私は、夜着を調べてみることにした。
まずは右端にある夜着だ。
慎重な手つきで夜着を手に取り………思わず顔を顰めた。何故かというと夜着の下に、これまた几帳面に畳まれているドロワーズを見つけてしまったからだ。……彼は一体どんな気持ちで下着を用意したのだろう。
なんとも言えない複雑な気持ちを抱えたまま、手に取った夜着を恐る恐る広げてみると、何の変哲もないただのナイトガウンだった。
首元はデコルテが見えるぐらいゆったりとしたもので、胸下切り替えの部分にはミニフリルやギャザーを寄せてふんわりと仕上げてある。シルエットが女性らしい上品な雰囲気で、いつも好んで着ているような夜着である。
次は真ん中の夜着だ。
まるでバスローブのような形の夜着は、胸の下でリボンを結ぶものらしい。簡易的で1番着替えが楽そうだ。
そして最後。
丸襟ワンピースのような夜着は、フリルがたくさんついており、とても愛らしく、やや幼げなものだった。
どの角度から見ても、3着に怪しいところはない。
だが、果たして短時間でここまで揃えることが出来るものなのだろうか。
―…まさか、よく女性をここに泊まらせているとか……
最悪な憶測に、激しい嫌悪感が胸の中に込み上げてきた。もしそうだとしたら、彼は紳士の風上にも置けない卑劣な人だ。
思いつく限りの罵声を心の中で吐き散らしながら、私は最後に見た丸襟ワンピースのような夜着に腕を通した。
選んだ理由は単純。これが一番防御力が高そうだったからだ。…まぁ、どれも薄っぺらい布なので大して変わりはないが、気持ちの問題である。
私は荒々しい気持ちのまま化粧水を顔に叩きつけ、髪の毛も充分に乾いていないまま、扉に耳を当て外の様子を伺った。
……人の気配はない。
音を立てないよう慎重に扉を押し開け、恐る恐る隙間を覗くと、外は見たことの無い廊下が続いていた。
やはりここは、私の知らない何処かの屋敷のようだ。
知らない場所ではあるが、出口は必ず何処かにはあるはず。
怯みそうになる心を奮い立たせ、私は廊下に足を踏み入れた―――その時、
「何処に行かれるのですか?」
ちょうど扉の死角になっている位置から、青年の穏やかな声が聞こえてきた。
それが誰の声なのか、見なくてもわかる。それなのに私は反射的に、そちらを見てしまった。
やけにゆっくりと閉まる扉の向こう側には、壁にもたれかかった青年が腕くみをして、口元に笑みを浮かべながら、こちらをじっと見据えていた。
前髪の隙間から覗く黄水晶の瞳は、ゾッとするほどに冷たかった。
《おまけ》
お題「異性の好みのタイプを教えてください。」
テオ様「…口が悪くて、気の強い女。…あ?物好きぃ?うるせばーか。」
聖女様「タイプですか…。すみません。私にはよくわかりません。みんな、愛すべき家族ですから。…ですが……異性とか、そういうつまらないものに囚われていたら、いつか大切なものを見落としてしまいますよ?」
ユーリ「ご想像にお任せします。」
エリザ「話す必要性を感じられないわ。…え?それだと上に怒られる?……仕方がないわね。そうね…(思案中)…強いて言えば、エーミールみたいな人かしら。」
――ガタッ×3
50
あなたにおすすめの小説
あの子を好きな旦那様
はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」
目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。
※小説家になろうサイト様に掲載してあります。
【完結】どうか私を思い出さないで
miniko
恋愛
コーデリアとアルバートは相思相愛の婚約者同士だった。
一年後には学園を卒業し、正式に婚姻を結ぶはずだったのだが……。
ある事件が原因で、二人を取り巻く状況が大きく変化してしまう。
コーデリアはアルバートの足手まといになりたくなくて、身を切る思いで別れを決意した。
「貴方に触れるのは、きっとこれが最後になるのね」
それなのに、運命は二人を再び引き寄せる。
「たとえ記憶を失ったとしても、きっと僕は、何度でも君に恋をする」
【完結】あなたを忘れたい
やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。
そんな時、不幸が訪れる。
■□■
【毎日更新】毎日8時と18時更新です。
【完結保証】最終話まで書き終えています。
最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!
翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。
「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。
そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。
死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。
どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。
その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
※他サイトより転載した作品です。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる