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第8章「優しい拷問」
134話
しおりを挟む念入りに髪と身体を洗い、それからたっぷりと湯が張った大理石の猫足バスタブに身体を沈める。
冷えていた身体が徐々に温まっていく感覚を覚えながら、私は呆然と天井を見上げた。
先程ユリウスは『姉弟水入らず、今日は一緒に寝ましょうね。』と言ってきた。その言葉の意味を理解しようとする前に脱衣所に押し込まれ、今に至るのだが…。
―…あの人は何を考えているのかしら…
肺に溜まっていた空気を長めに吐き出しながら私は膝を抱え、額を膝に乗せた。
彼を引き止めたのは間違いなく私だが、こんなことになるとは夢にも思わなかった。
普通の姉弟ならいざ知らず、私達の関係はそんな可愛いものではない。300年前、彼は間接的に私を殺した張本人であり、彼にとって私は殺したい程に憎んでいる相手だ。
そんな私達が、本物の姉弟のように仲良く一緒に寝ることに一体なんのメリットがあるのだろうか。
―…いや、ひとつあったわね。
人間が最も無防備になる瞬間。それは寝ている時だ。彼は私の寝首を搔こうとしているのでは?
せっかく温まった身体が、指先から波が引くように冷えていく。私は丸めた身体を更に小さくギュッと丸めた。
「……。」
今の私に、あの忌々しい足枷は付いていない。そう、逃げ出せるのは今しかないのだ。
今日のしおらしいユリウスになら隙をついて、私でも逃げられるかもしれない。
思い立ったが吉日。今の私に迷っている暇はな――
「姉上。」
「ヒッ!」
突然、浴室の中にユリウスの声が響き、驚いた私は魚が跳ねるかのようにバシャンッと膝から顔を上げた。
「…姉上?大丈夫ですか?」
扉の向こうから、私を安否を心配するような声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫よ…。な…にか用かしら?」
ドッドッドッと激しく脈打つ心臓を抑え、できるだけ平静を装いながら扉の向こうにいる彼に尋ねた。
「姉上の着替えを持ってきたので…その…棚の上に置いておきます。上がったら着てくださいね。」
「あ…ありがとう。」
「いえ。…入浴中、すみませんでした。ごゆっくり。」
扉の向こうにあった気配が遠ざかり、遠くからパタンと脱衣所の扉が閉まった音が聞こえた。
「……。」
彼の気配が完全に消えた瞬間、ふっと力が抜けた。そしてそのままヘナヘナとへたり込んだ私は、バスタブの縁の上で両腕を組み、その腕の中に顔を埋めた。
―なんだか…いつもこんな感じね…。
はぁ~と長い溜息をついたのち、私はその体勢のまま再び考えを巡らせた。
わざわざ面倒な手順を踏まずとも魔力保持者であるユリウスは、いつでも簡単に私を手にかけることは出来る。だが、しない。それどころか、彼は先程のように私を気にかける様子すらみせる。…まぁ、それに関しては演技かもしれないが。
考えても考えても答えは出てこない。それもそうだ。私が知りたい答えを、私は持っていない。それを持っているのはユリウスだ。だから、1人で悶々と考えていても、結局は堂々巡りになるだけで時間の無駄なのだ。時間というものは有限で、決して無限なものではない。私たちは限られた時間の中で生きている。
「……。」
ふと、脳裏に先程の温室でのユリウスの姿が過ぎった。あの時の彼は私の意見を否定しつつも、彼なりに理解をしようとしていた………ような気がする。あくまで“気がする”だが、今日の彼となら話し合うことができるかもしれない。
「……いつまでも逃げていたら…駄目よね…。」
正直、考えも纏まっていないし、自分の気持ちすらあやふやで、彼の態度に惑わされてばかりだ。
それでも、この世界で生きていきたいという気持ちだけは揺るぎない真実である。
不安や恐怖などの負の感情を無理やり押し込めるように勢いよく湯船から立ち上がった私は、お湯を抜いてから浴室を出た。
―そういえば…
脱衣所に足を踏み入れ、ふと思う。
―あの人って、お風呂はどうするのかしら?
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