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第9章「愚者の記憶」
146話
しおりを挟むアルベルトside
神蟲とは、この大陸が国とも呼べぬ小さな島だった頃、人々に神の使いだと言われ、崇められていた昆虫である。
残念ながら太古の大噴火によって絶滅してしまい、今ではその姿を見ることが出来ない。
僕の問いに叔父は暫く思案をしたのち、銀縁眼鏡を押し上げた。
「絶滅種だと思っていた虫を発見したわけですから、すぐさま捕獲し、然るべき場所で保護させて頂きます。」
「そういうことだよ。」
「はい?」
珍しくきょとんとする叔父に僕は笑みを深めた。
「ラルフが絶滅種に対してそう思うように、僕もエリザに対してそう思っている。」
「…つまり、殿下はエリザベータ嬢を捕獲して皇宮内で保護したい、と?」
「その品のない言い回しは嫌いだよ。」
ピシャリと言えば、叔父は口を噤んだ。
「僕はただ無垢なる蕾が花開く過程を、1番近くで見守ってあげたいだけ。」
「……。」
「ただそれだけだよ。」
叔父の言っていることは、あながち間違ってない。
本音を言えば、誰も立ち入ることができないような場所に温室を拵えて、毒虫の巣からあの子を植え替えてしまいたい。そうすれば、あの子は僕にだけにあの花が咲くような笑顔を見せてくれるのだ。
あぁ、なんという甘美…!
だらしなく弛む口元を片手で押さえる。
考えるだけで甘やかな痺れが脳天を貫き、僕を恍惚感に浸らせた。
だがしかし。
世界がそれを許さない。
流石の僕でも天使を閉じ込めたら、それ相当の天罰が下るだろう。
僕は足を組み、憂いを帯びた溜息をひとつこぼした。
この叶わぬ願いを叶える為には…。
僕は叔父に百点満点の笑顔を向けた。
「それで、ラルフにはお願いが――」
「お断りします。」
「…まだ何も言ってないんだけど。」
僕の話を遮った叔父に、ムッと眉を顰めてみせる。すると叔父は溜息混じりに口を開いた。
「みなまで言わなくても分かりますよ。大方、エリザベータ嬢の様子を定期的に報告しろとか、そんなところでしょう。」
「流石は僕の叔父様。その通りだよ。…で、どうしてダメなの?」
「こう見えて私は忙しいのです。」
「……必要のない報告書をわざわざ作成する時間はあったくせに?」
「それは私の大切な業務のひとつです。」
「…ラルフは貴重な時間をもっと有意義なことに使った方がいいよ。」
「殿下が思っている以上に、私は毎日有意義な日々を送らせて頂いていますよ。」
「……。」
珍しく反抗的な叔父に恨めしい視線をおくれば、ツンっと顔を逸らされた。
だが僕は知っている。この生真面目な叔父が僕に何だかんだ甘いことを。
「…どうしても駄目?」
「駄目です。」
「どうしても?」
「……。」
上目遣いで叔父をじっと見つめれば、終始無表情だった叔父の片眉がピクリと動いた。明らかに叔父の決心が揺らいでいる。
「お願い、叔父様。こんなこと誰よりも信頼している叔父様にしか頼めないんだ。」
「…………。」
「叔父様が僕のお願いを聞いてくれるのなら、僕も叔父様のお願いをなるべく聞くようにするよ。」
「………………。」
瞳を悲しげに潤ませれば、叔父の頬がひくりと動く。あとひと押し。
「それでも駄目…かな?」
トドメに声音を弱め、しおらしく睫毛を伏せてみせた。まだ幼い僕の顔は、庇護欲に訴えた方が効果的なのだ。
暫くの沈黙が続いたのち、叔父の長い溜息が聞こえてきた。
「……分かりました。」
「ありがとう、叔父様。」
にっこりと笑いかければ、叔父はやれやれと眼鏡を押し上げた。
ほら、林檎のコンポートのように叔父は僕に甘い。
「…最後にもう一度確認をしたいのですが」
「うん、なぁに?」
「殿下は本当にエリザベータ嬢を、妃に迎えたいとかは考えていないのですよね?」
「くどいよ、ラルフ。」
「…。」
「清純無垢な天使を、穢れが染み付いた玉座に座らせるわけがないでしょ。」
ノルデン帝国の長い歴史の中で、皇后の座を巡って多くの血が流れてきた。
全てのものを蹴落とさなければ、帝国の頂点に立つことなんてできない。例えば…そう、欲しいものの為になら手段を選ばなかった強欲の女帝のように。
要するに、皇后とエリザは遠い存在なのだ。
あの子には穢れが満ちた皇宮ではない清浄な場所で、いつまでも綺麗に笑っていて欲しい。
そう、いつまでも…
「殿下?」
気付けば、叔父が眼鏡の奥から僕を心配するような視線を向けていた。そんな叔父に僕は笑みを返した。
「なんでもないよ。」
そう言って僕は、目の前に聳え立つ用済みの書類を燃やした。白い紙は一瞬で黒い塵へと姿を変える。
椅子からおりて窓を開ければ、黒い塵はまるで黒蝶のように舞い上がりながら、外の世界へと吸い込まれていった。
「ラルフ。」
「はい。」
「あの子のこと、よろしくね。」
塵が吸い込まれていった空を見上げながら、僕は後ろに控えている叔父にそうお願いをした。
「御意のままに。」
胸に手を当てた叔父は僕の背中に向かって、恭しく頭を垂れた。
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