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第10章「奈落の告白」
180話
しおりを挟む「お目覚めになられたのですね!」
鈴の音のような明瞭な声と共に、こちらに駆け寄ってきたのは、神に愛された乙女。聖女ベティだ。
人懐っこい笑みを浮かべる彼女は、あろうことか椅子に腰かけたままの私の足元に躊躇することなく膝をつけ、そのまま流れるように私の右手を両手で包み込んできた。
その白魚のような手は、冷え切った私の手よりもゾッとするほど冷たい。
「ご気分は如何ですか?何処か痛いところはありませんか?」
そう言いながら聖女は私の顔を覗き込む。
心底こちらの身を案ずるような視線を送られるが、私の恐怖心は増すばかり。
だってそうじゃないか。
聖女ベティは、私を階段から突き落とした。事故ではなく、明確な意思を持って。
それなのにどうして、そんな言葉を投げかけてくるのか。
まるで理解ができない。理解できない存在が、堪らなく、怖い。
恐怖に飲まれ黙り込む私に、聖女は優しく微笑みかける。
「安心してください。ここには貴女を傷つける人はいません。」
その言葉に、私は目を剥く。
この人は一体何を言っているのだろうか。私を殺そうとしたくせに。
彼女は何の疑いもなく絶対的な善意のもとで”死ぬことが救いになる”といった危険思想の持ち主だ。
現に、瞬きひとつせずこちらを凝視する瞳には妖しい光が帯びており、まるで”目的の為ならば人を殺めることも厭わない”と語っているかのよう。
そして恐らく、そんな聖女の思想に感化され集まったのが、ここに居る大勢の人間たちなのだろう。辻馬車に乗っていたトミー=キッシンジャーもその中の一人だったと思えば、連れ去られた先に聖女が居たことの辻褄が合う。
やはり彼女は危険だ。あの聖女マリーなんかよりもずっと。
目の前の聖女に対する警戒心を更に高めるのと同時に、私は心臓がざわつくような嫌な既視感を覚えていた。
まるで自分の運命が得体の知れない力によって、無理やり捻じ曲げられてゆくような…
そこまで思って、私は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
同じ…同じなのだ。
訳も分からずに断罪された300年前と。
既視感の正体が脳天を貫き、目の前が真っ暗になった。
どんどん俯く頭の中には、項目掛けて断頭台の刃が落ちてくる感覚が繰り返し蘇る。
私はまた同じ末路を辿ってしまうのだろうか。
呼吸が乱れ、意識が果てしない底へ堕ちていく。
だがその寸前、ヒヤリと。
私の意識は現世に引き上げられた。ぎゅっと力強く握られた聖女の冷たい手によって。
「可哀そうに…。こんなにも世界に怯えて。」
何処かで聞いたことのあるセリフが、私の耳にするりと流れ込む。
…違う。私は世界に怯えているんじゃない。私は…
逃げ出した理性がにじり寄る。
深く俯いていた頭をゆっくり上げると、そこには慈悲深き声音とは裏腹に、爛爛と不穏気な光を放つやや垂れ目の瞳が二つ。
とても嫌な瞳だ。
だがその瞳に、ここで終われない理由を見出した。
今の私にはやるべきことがある。
それに、ここは自由を奪われ、ただ刃が落ちてくるのを待つだけの断頭台の上ではない。きっと希望は何処かにあるはずだ。
なんとかこの窮地を脱する方法がないものかと、恐怖に麻痺している頭で必死に考えを巡らせる。
…あぁ、そうだ。これだけの人数が一度に大聖堂に集まるとなると、とても目立っていたはずだ。いくら聖女主催だとはいえ、こんな夜更け集まるなんてことはまずあり得ない。きっと異変を感じた警備隊らが取り締まりにやってくるだろう。私ができることといえば、それまでの時間稼ぎぐらいだ。
しかし、何が聖女の逆鱗に触れるのかわからない今、一言発するだけでも命とりになりかねない。聖女を刺激しないよう慎重に言葉を選ばなければ。どんなに聖女が私に対して好意的であったとしても、彼女は私を殺したくて殺したくて堪らないのだから。
どう話を切り出そうかと考えあぐねていると、聖女の方が先に口を開いた。
「大丈夫です。私がずっと貴女をお守りしますから。」
「…。」
私を安心させるかのように、にっこりと微笑みかけてくる聖女。
嘘を言っているようには見えない。見えないのだが…
「…どうしてそんなにも、私を気に掛けてくださるのです?」
皆に平等にお優しい聖女様だったとしても、やはり度が過ぎている。私が聖女にしたことといえば、殿下から庇ったことだけ。それもたった一度きり。もし、その程度のことで恩義を感じているのであれば、祭壇前には私のほかにあと100人ぐらいは並んでいてもおかしくはないはずだ。国の宝でもある聖女には、誰もが優しく接していたはずなのだから。
聖女は私の問いかけに、パチパチと数回瞬きをしたのち、目を伏せた。ようやく彼女の視線から解放されたが、私の緊張が解けることはない。寧ろ長い睫毛が瞳に影を落としたことによって、彼女の得体の知れない不気味さが際立っているように見える。
衣擦れの音ひとつ聞こえない完璧な沈黙の中、固唾をのんで返事を待っていると、聖女はゆっくりと顔を上げた。
その表情を見て、私は思わずギクリと顔を強張らせた。
きゅっと閉じた唇に、何か揺るぎない決心を宿した瞳。そして白い頬や目尻に滲む艶やかな朱色。
私はまさか…と思った。だがすぐに、そんなはずはないと思った。自意識過剰にもほどがある。そう思うのに、急に心臓がせわしなく脈打ち始め、聖女の朱色が私の頬まで伝染する。
私は何だかこの場から逃げ出したいような気持ちになった。それが聖女にも伝わってしまったのか、繋がれた手に更に力が込められる。
『逃げないで、私を見て。』そう訴えかける瞳を前に、私の身体は指一本すら動かない。
聖女は桜桃色の小さな唇を静かに開く。
「好きです。」
少し震えた少女の可愛らしい声は
「ずっと昔から、貴女をお慕いしておりました。」
私の耳にしっかり届いた。
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