私は貴方を許さない

白湯子

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第10章「奈落の告白」

184話

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ナイフのずっしりとした重さに、ハッとする。
咄嗟に手放そうとするが、上から押さえつけてくる聖女の手がそれを許さない。


「しっかりと握っていないと駄目じゃないですか。」


にこにこと笑みを浮かべる聖女は、ナイフを握った私の両手を持ち上げ、その矛先を躊躇なく己の胸へと向けた。
まるで私が聖女を刺し殺そうとするかのような光景に、ひゅっと喉が鳴る。
あと少し力を込めれば、この刃は聖女の薄い身体を貫いてしまうかもしれない。
訳も分からず自分が人を殺そうとしている今の状況があまりにも恐ろしすぎて、手がカタカタと震え始めた。


「互いの心臓を同時にナイフで貫かないと、新しい世界には旅立つことができないんです。」


旅立つだなんて聞こえはいいが、聖女がさせようとしていることは、ただの殺し合いだ。もしくは、相手の手を使っての集団自殺か。どちらにせよ、互いの心臓を刺し合うだなんて、正気の沙汰とは思えない。
泣きながら首を振る私に、聖女はまるで駄々をこねる子供でも宥めるかのような口調で優しく語りかけてきた。


「大丈夫ですよ。エリザベータ様ならきっとできますって!それに、ほら。みんな一緒なので怖くないですよ。」


一体何が大丈夫なのだろうか。全く共感できない集団心理を押し付けないで欲しい。
そもそも何故ここに居る大勢の人達は、命の奪い合いに対して何の恐怖を抱かずに平然と居られるのだろうか。
“新しい世界”などといった不確かなものの為に、みな一様に相手の心臓に矛先を定め、聖女の一声を今か今かと待っている。
集団心理が働き、合理的な思考力や判断力が抑制されているとはいえ、こんなのはまともな人間がすることではない。

もしや、これが聖女の力というものなのだろうか。
その力を使い、ここに居る全員の迷い恐怖心などの感情を取り除いたと思えば、この異様な空間が出来上がったのも納得できる。そして恐らく…いや、きっと。300年前のマリーも同じ力を使っていたのだろう。
だが、聖女はこう言っていた。聖女の力は心の浄化。人々の心から悪を取り除くことができる、と。…果たして、迷いや恐怖心などの感情は”悪”なのだろうか。だってそれらの感情は、私たち人間とって、危険を察知したり回避したりする為だけでなく、善悪の判断にも必要な大切な感情のひとつだ。決して取り除いていいものではない。

もし、それを”悪”と呼び、人々の心から取り除こうとする者が居るのであれば、例え神様であっても、その神を信じることはできない。


「…できないわ。」
「エリザベータ様…」
「私に人を殺すことはできない。」


私の言葉が聖女に響かないことは分かっている。けれどこれだけは譲れない。
私が涙ながらに訴えると、聖女は驚いたように目を丸くした。


「人を殺すなんて!!そんな罪を犯すような真似は聖女の名において絶対にしませんよ!!!私たちはお互いを新しい世界に導いてあげるだけなんです!」


その言葉に、今度は私が目を丸くした。


「何を言っているの?貴女は殿下をこ、殺したじゃない。」
「え??別に害虫を殺しても人殺しにはなりませんよね?」


何でもないような事のように答え、可愛らしく小首を傾げる聖女に、私は絶句した。
人を殺した自覚さえないどころか、聖女にとっては害虫を一匹駆除しただけの感覚だったなんて。
言葉を失い、ただただ唖然としていると、聖女は「あ、でも」と続けた。


「殿下を殺したのは私じゃなくて、ユリウス様ですよ。」
「ーーーえっ、」


一瞬、聖女が何を言っているのか分からなかった。
だが少しづつ、じわじわと、聖女の言葉が私の頭に浸透する。
最初に思ったことは「そんなバカな」
次に「いや、彼ならやりかねない」
そして。


「今、あの人は何処に居るの?」


思わず口から零れ落ちた言葉に、聖女はにっこりと微笑んだ。


「この世にはもう居ません。」
「ーーー」


その瞬間。
私は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


「用済みになったので、私が駆除しておきました。」


そう言って「今頃、雪の中で冷たくなっているんじゃないですかねぇ」とクスクスと笑う聖女の声が、どんどん遠ざかる。
ーー彼が、もう、居ない?
そう心の中で呟いてみても、まるで実感が湧かない。実感どころか何も感情が湧かない。頭の中が真っ白になって、ただ手に持ったナイフを呆然と眺めることしかできない。


「エリザベータ様。そんなにショックを受けなくていいんですよ。」


ショック?
聖女に言われて気付く。
自分でも気が付かないぐらいに、私は極めて大きなショックを受けていた。


「本来、アレはエリザベータ様の視界に入ることさえ許されない、人間と呼ぶのもおこがましいゴキブリ以下の存在なんです。」


そう吐き捨てた聖女は、持っていたもう一本のナイフの矛先を私の胸に向けた。突然、視界に飛び込んできた命の危機に、真っ白だった頭の中が急速に形作られる。また訳も分からず死にたくない!その想いだけが、今の私を突き動かした。


「待ってベティ!」
「あぁ…!エリザベータ様が私の名前を呼んでくださった!!しかも親愛の証である呼び捨てで!!ずっとユリウス様に接するように…いえ、それ以上に親しげな口調で話して欲しかったんですよ!!」


恍惚たる喜悦でより一層輝きを増している聖女を無視し、私は必死に言葉を続けた。


「これ以上罪を重ねるのはやめなさい!」
「え?罪?エリザベータ様ったら何を言っているんですか?」
「貴女が皇族を人間として見ていなくても、世間の見方は違うのよ。いくら貴女が聖女だったとしても、罪を犯せば法の下で等しく裁かれるわ。」


私の言葉に聖女は少しきょとんとしていたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。


「私のこと、心配してくれているんですね…!」


そうじゃない。と、唇を噛む。
やはり何を言っても、聖女は都合よく解釈してしまう。私の胸の中には不快な”噛み合わない感覚”だけが色濃く広がった。


「大丈夫ですよ。この世界に私を裁ける人なんて何処にも居ません。…まぁ、正確に言えば、居ないではなく、そんな余裕はないだろうなぁという感じですけど。」
「…どういう意味?」


嫌な予感しかしない。だが尋ねずにはいられない。
膨らみ続ける恐怖心を抑え込もうと聖女を睨み付ける私に、聖女は内緒話でもするかのようにそっと囁いた。


「今、この世界では戦争が起きているんです。」
「ーーーー」


絶句する私に、聖女はにこりと微笑みかける。


「西のヴェステン国と東のオステン国が、皇宮と有力貴族の御屋敷を襲撃してくれているので、この儀式を邪魔する人は誰も居ません。」


次から次へと聖女の口から爆弾が投下され、理解が追い付かない。
戦争?襲撃?皇宮と有力貴族の屋敷が?なんで、まって。違う。嘘だ。だって、今のノルデンは平和で、国交も回復していてーーー


「あ、因みに。この聖堂は安全です。あらかじめ両国には襲撃しないようにって言ってあるので、安心してくださいね。念には念を入れて、皇宮の結界をこっちに張ってもらいましたし、ゴキブリ一匹すら入り込めないようになっていますよ。」
「さ、さっきから何を言って…待って。待って頂戴。」
「はい、待ちます。でもこうみえて私、気が短い方なので長くは待てないですからね?ふふふっ、いっぱいいっぱいになっているエリザベータ様も、食べちゃいたいぐらいに可愛いらしいです。」


既に許容範囲を超えている頭では、まともに思考が働かない。何一つ理解できない単語が頭の中をぐるぐる駆け回り、呼吸を乱す。戦争、襲撃、皇宮、有力貴族ーーーその時。
邸に居るであろう父とベル達の顔が脳裏を過り、血の気が引いた。まって、待って!


「私の家は?お父様は?みんなは無事、なの?」
「んー…シューンベルグ公爵家は両国でも有名ですからねぇ。真っ先に標的になるんじゃないでしょうか。当主の首を取った人は間違いなく大出世ですしーーー」
「いや!!!やめて!!!」


邸の皆の首が跳ねられていくのを想像し、身体が震えあがった。
顔面蒼白になる私をよそに、聖女は呑気な口調のまま話を続けた。


「あ、でも。真っ先に狙われるのは皇宮かもしれません。皇宮に配属されている警備隊は漏れなく全員、儀式に参加しているので。今、まともに国防できるのは陛下だけなんですよ。そのことは両国にもちゃんと伝えてあるので、このチャンスを逃すはずはないと思います。もしかしたら今頃は、陛下しかいない空っぽの皇宮に全精力をぶつけているのかもしれませんね。」


へらりと笑いながら、まるで他人事のように淡々と話す聖女に、私は激しい眩暈を覚えた。
話が、規模が、大きすぎる。まさかこんな虫も殺せなさそうな可憐な少女が、世界中を巻き込んで国家転覆を謀ろうとしているなんて。こんなものは救済でも浄化でもない。皇政に対するクーデターだ。


「…どうしてここまでするの…?」


聖女の目的は新しい世界に旅立つこと。この国を崩落させる必要なんてないはず。
私の問いに聖女は静かに視線を落とした。


「どうしてここまで…ですか…。確かに状況を把握しきれていないエリザベータから見たら、そう思いますよね。…でもね、エリザベータ様。」


そこで言葉を切った聖女は視線を上げ、再び私を見据えた。その表情からは笑みが引っ込み、真剣な色だけが現れていた。


「悪が蔓延るこの世界は、ここまでしないと綺麗にならないんです。」
「…。」


その真摯な態度から紡ぎ出された言葉にーーー私は妙な引っ掛かりを覚えた。

神様は、この世界から完全に悪を取り除くことは難しいと考え、新しい世界をつくった。だがそれは、言い方を変えればこの世界を捨てたということ。果たして、その捨てた世界を聖女曰く綺麗にしていく必要などあるのだろうか。

神様に対する不信感が積み重なる。世界を浄化する話といい新しい世界に旅立つ話といい、どうも腑に落ちない。何だか、神様の目的はもっと別のところにあるような気がしてならなーーー


「時間切れです。」


唐突に聖女が残酷なことを言った。


「気が短い私にしては、長く待った方じゃないでしょうか。ふふふっ。きっと、エリザベータ様が私にとって特別だからですよね。」
「待って、まだ…」


馬鹿の一つ覚えのように、それしか言えない私に、聖女は安心させるような柔らかな笑みを浮かべた。


「初めてのことって怖いですよね。でも大丈夫です!その不安な気持ち、私が取ってあげますから。」
「な、」
「さぁ、エリザベータ様。私の目を見て?」
「ーっ、」


咄嗟にまずい、と思った。
けれど、宝石のように煌めくピンクダイアモンドの瞳からは目が離せなかった。




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