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第11章
213話
しおりを挟む「傍観者だと…?ふざけるな…!」
僕は声を荒げた。
何一つ説明になっていないじゃないか。
それに、僕のことを「虫の子」と呼ぶのも気に食わない。
男を睨みつけるが、当の本人は笑みを深めるばかり。
高い枝の上から僕を見下ろすその笑みが、全てを見透かしているようで、ひどく苛立った。
「ーっ、ここはどこだ!どうして僕はこんな場所に居る…!?お前の仕業か!?」
叫び続ける僕に、男は煩わしげに眉を寄せてみせた。
「大声を出すのはやめてくれ。人の子が起きてしまうじゃないか。」
「人の子…?」
訝しく問い返す僕に、男は何も答えない。代わりに意味深な微笑みを残して、男は奥の枝へと飛び移ってしまった。
「―なっ、待て!」
叫んだ瞬間、「じゃらり」と金属音が耳を打った。
この場に似つかわしくないその音を追いかけると、重々しい鉄の鎖が男の片足首に巻かれていたのが見えた。その先は泉の底、深い深淵へと沈んでいる。
何故、この男は泉に繋がれているのだろうか。
疑念が胸を過る。だが、今はそれどころではない。
「ーっ、クソっ」
舌打ちと共に、僕は水を蹴って走り出した。
バシャリ、バシャリと音を立てながら、男が消えた大樹の裏手へと急ぐ。
水位が膝ぐらいある上に、大樹の幹があまりにも太く、思いのほか時間がかかった。
そして、ようやく辿りついた先で、僕は息を吞んだ。
ーーー人だ。
白いワンピースを身に纏い、星色の長い髪を泉に揺蕩わせながら、大樹の幹に背中を預ける一人の少女。
見間違えるはずがない。
その静かに眠る姿は、ずっと求めていたエリザベータ=コーエンだった。
「エリザ!!」
僕は駆け出した。バシャリバシャリと水面を蹴りながら、彼女に手を伸ばす。
あと少し。あと一歩で、ようやく僕の手が彼女に届くーーーはずだった。
突然、身体が重力に引きずり込まれるように崩れ、バシャンと無様に泉へ倒れ込んだ。
何事かと足元に視線を遣れば、そこには鉄の鎖。
あの男と同じ、冷たく無機質な拘束具が、僕の足を絡め取っていた。
何なんだ、これは。どうしてこんなものが僕の足に。
咄嗟に外そうと試みる。けれど、鎖は嘲笑うような音を立てるばかりで、びくともしない。
引き抜こうとしても、その先は泉の底に垂れ下がり、手も視界も届かない深淵に沈んでいる。
「クッソ…エリザ…!エリザ!!」
膝をつき、水を這いながら彼女に呼びかける。
すると、彼女の瞼がピクリと動いたのが見えた。
僅かに震える星色の睫毛が瞼をゆっくり持ち上げると、ずっと見たかったエメラルドの瞳が姿を現す。その瞳は、泉の煌めきを宿しながら、僕の姿をとらえた。
やっとだ。
まるで固く閉ざした蕾が開花するような光景に、抑えきれない歓喜が込み上げる。
やっと君にーーー
僕は再び彼女の名を呼ぼうと口を開く。
だが、その瞬間。
「イヤァァァァァァアァァァァァァァァ!!!!」
絹を裂くような悲鳴が、泉に響き渡った。
「いやっ!来ないで!!やだ!!」
煌めいていた瞳を一瞬で恐怖に染め上げたエリザは、バシャンと四つん這いになり、水を掻き分けるようにして僕から逃げ出そうとする。
その怯えた子供のような姿に、僕は唖然とした。
「エリザ…どうして…」
動揺を隠しきれず、僕は震える声で彼女の名前を呼び、手を伸ばす。
だが、その手に彼女は「ヒッ」短い悲鳴を上げた。
「どうした?人の子。」
突然、僕と彼女の間に、ぱしゃりと音を立てながら男が降り立った。
あの傍観者と名乗った男だ。
男は怯えるエリザの傍に歩み寄ると、その目を優しく片手で覆った。
「今、そこに…!」
「何もいないさ。君は何も見ていない。そうだろう?」
エリザがぎこちなく頷くと、男はふっと微笑んだ。
「なら、眠りなさい。眠ってしまえば、君は虫の子に会わずにすむ。」
「…。」
男の言葉に安心したのか、肩から力が抜けたエリザは、静かに男の胸元にその身を預けた。
その光景に忌々しさが込み上がる。
「…エリザから離れろ…!!」
怒鳴る僕に、男は目もくれず、呆れたように笑った。
「まるで躾のなっていない仔犬だな、君は。」
そう言いながら、男はエリザを大樹にもたれさせると、再び僕に向き直った。
「人の子は今、諸悪の根源からようやく解放され、安息の中にいる。邪魔してやるな。」
「諸悪の、根源…?」
僕が聞き返すと、男はにやりと笑った。
「君のことさ。」
その言葉に、頭を鈍器でなぐられたような衝撃が襲った。
「僕…?」
何故、僕がエリザの諸悪の根源なのだ…?
意味が分からず、ひどく困惑する。
だって、彼女は僕のことをずっと待っていて―――
生温い泉の中、膝をついて俯く僕の前に男が立った。
「分からないか?分からないだろうな。君は哀れな虫の子だ。」
男はふっと笑みを深める。
「だが、分からないのなら、これから知っていくといい。皮肉にも、朕たちに与えられた時間はーーー永遠だ。」
そう言って男は片膝をつき、僕の顎を掬い上げた。
その手には、血のように艶やかな深紅の果実。
淡い光を帯びた青い瞳が、僕を覗き込む。
「ここは嘘も偽りも存在しない。死者の記憶が実る場所ーーー黄泉の泉なのだから。」
男は果実を口に含むと、そのまま僕の口にその口を重ねてきた。
目を見開いた僕の口内に、甘く、ほんのり酸味を含んだ果汁が流れ込む。
けれどーーーその味に反して、脳裏に流れ込んできたのは、苦々しい記憶少女の記憶。
ヒステリックに叫び、暴力を振るう母親。
それを見て見ぬふりをする父親と使用人。
出来損ない、落ちこぼれだと嘲笑いながら指を指す同年代の少女たち。
孤独な世界で、少女を抱きしめてくれるのは己のみ。
そんな世界に、僕が現れた。
闇に沈む世界に差し伸べられた僕の手。
その時から、僕は少女の―――エリザの希望だった。
けれど。
「僕は…この手で、エリザの世界を壊した。」
舌から果実の味が消え、代わりに苦みだけが残った。
それは彼女の絶望であり、僕の罪だった。
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