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終章 予言の精霊の祝福(下)
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扉が開くと同時に、そこから賑やかな声が聞こえて来て、ティーゼは目を丸くした。
初めて見る王宮の舞踏会はどこもかしこも眩しくて、着飾った多くの男女や、高い天井のシャンデリア、オーケストラの生演奏にも驚かされた。ティーゼは、それをよく見ようとしたのだが、目の前に立ち塞がった人物を見て目を瞠った。
「待っていたよ、ティーゼ」
そこに現れたのは、クリストファーだった。見事な装飾が施された正装服に身を包んだ彼は、英雄というよりは、まるで物語の王子様のよう美しさがあって、ティーゼはドキリとしてしまった。
戸惑う間にも、彼が美麗な顔で優しく微笑んだ。その胸元には、大きなエメラルド色のブローチが輝いていた。
「ティーゼ、とても綺麗だ」
「えっと、その、ありがとう……? クリスも、何だかいつもと違うね」
動揺もあって、ティーゼは、彼の事を自然と愛称のまま呼んだ。
「ふふふ、ありがとう。首周りが寂しいかなと思って、ネックレスを用意してあるんだ」
「えぇッ、いや、わざわざそんな――」
いつの間にかメイドの姿はいなくなっており、彼女に助けを求めようとしたティーゼは慌てた。
ひとまず、ティーゼは「高い物は受け取れないからッ」と幼馴染に答えたのだが、その間にもクリストファーがポケットからネックレスを取り出して、「身構えなくて大丈夫だよ」と言いながら見せて来た。
「ほら、大きなものじゃないし、ティーゼはこういう小振りなアクセサリーが好きでしょう?」
「確かに、物凄く可愛いけど……」
花の形に細工された銀の中に、小さな青い宝石が一つあるシンプルなネックレスだった。
ティーゼは、いつも町中で可愛らしい装飾品を見掛けるたび、男の子の恰好では隠れて見えなくなってしまうし、そこにお金を掛けるのは勿体ないとも感じて、購入には踏み切れないでいた。
それにしても、どうして彼がその事を知っているのだろうか。
物凄く好みのネックレスではあるので、安い物であるのなら欲しいとも思う。貯金で足りるのなら、後でクリストファーにお金を渡せばどうにかなる、のか……?
「気に入ってもらえて良かったよ」
ティーゼが悩ましげに考えている間にも、クリストファーが正面から腕を回し、ティーゼの細い首にネックレスをかけて、慣れたように首の後ろでとめた。
彼は満足そうに目を細めると、何がなんだか分からない、というように首を傾げたティーゼの手を取り、会場の中へと促した。
「ティーゼ、踊ろう。僕はずっと、君と踊りたくて仕方がなかったんだ」
この瞬間をどれほど待ち続けたか――そう続いた呟きが、彼の口の中に消える。
ティーゼは、昔、ダンスを習っていると彼から告げられて、いつか踊りたいと聞かされていた事を思い出した。貴族の息子であるせいか、クリストファーは町の祭り事には参加が出来ないでいたから、恐らく、楽しむ仲間達が羨ましくて、寂しく感じていたのだろう。
まさか、庶民の自分が、こんな煌びやかな舞踏会に参加する事になろうとは思ってもいなかったが、と考えたところで、ティーゼは貴族の形式ばった踊りを知らない事に気付いた。
「あの、私、踊れないんだけど――」
「大丈夫、僕がリードするから、ね?」
慣れない場所で緊張するだろうから、僕だけを見ているといいよ、と彼が優しく告げた。思考が上手く回らないのは、きっと緊張のせいだと気付かされて、ティーゼは「うん」と答えて、彼の手を強く握り返した。
クリストファーが一歩踏み出したタイミングで、オーケストラの演奏が、ひどくゆっくりとしたテンポの曲に変わった。これならどうにかいけるかもしれない、とティーゼは思った。
※※※
腰に腕を回されて、互いの手を取りあった時にはひどく緊張したが、踊り始めると次第に身体の強張りも解けた。多分、クリストファーのリードが上手いせいだろう。簡単なステップだけで、ふわふわと揺れるドレスの感じも楽しくなって来た。
それでも、近くから見降ろされる気恥しさには慣れなかった。彼はティーゼをずっと見ていて、会話が途切れると、どこか熱のこもった眼差しで愛情深く微笑んで来るのだ。
知らず体温も上がって来て、ティーゼは、ぐるぐると考えて困ってしまった。
どうしてか分からないが、見慣れているはずのクリストファーの顔を直視出来ない。幼馴染のはずなのに、近くから見ていると、とても美しく凛々しい知らない男性にも見える。
そういえば、クリストファーは先に成人しているのだ。
ティーゼは、彼がすっかり大人になったのだと実感が遅れて込み上げ、落ち着かなくなった。気付くと演奏曲は二曲目に入っていたが、こちらもゆったりとした曲だったので、ティーゼは、ステップだけに気を取られる心配はなかった。
ずっと密着して踊っているせいで、こんなにも恥ずかしいのだろうか。
そう思って視線を逃がしたティーゼは、ふと、ペアで踊る男女の中に、ルイとマーガリー嬢がいる事に気付いた。マーガリー嬢の雰囲気は険悪ではなく、可愛らしく頬を染め、どこか恥ずかしそうにルイを見つめている。
ルイは、マーガリー嬢にプロポーズはしたのだろうか。プロポーズ後だとすると、二人は上手くいっているという事だろうか?
初心なマーガリー嬢から察するのは難しくて、ティーゼは、近くに待機しているであろう意地悪な宰相を思い浮かべた。普段から無表情なルチアーノが、妙な表情をしていなければ、事が上手く運べたと受け取っていいのかもしれない。
視線を巡らせようとしたティーゼは、次の瞬間、耳元で囁く声を聞いた。
「ティーゼ、僕だけを見て」
握る手と腰を引き寄せながら、クリストファーがステップを踏んだ。
くるりと視界が回ってすぐ、鼻先が触れそうな距離から顔を覗きこまれて、ティーゼは硬直した。クリストファーの深い青の瞳に、吸い込まれて落ちて行きそうな錯覚に陥り、訳も分からず逃げ出したいような恥ずかしさを覚えて顔が熱くなった。
「ク、クリス、近い……ッ」
「そう?」
それは気付かなかったな、とクリストファーが頭を起こしながら、のんびりと言った。流れている曲がまた変わり、ステップは、先程よりもゆったりとしたリズムになった。
「ねぇ、ティーゼ。僕には、ずっと欲しいものがあるんだ」
「欲しい物?」
唐突に話を振られ、ティーゼは首を傾げた。記憶を辿ってみても、彼が何かを欲しいと口にするのは初めてのような気がする。クリストファーは常に両親から欲しい物を与えられていたし、ティーゼや仲間達が、誕生日プレゼントの要望を聞くたび、困ったように微笑んでもいた。
今では自身で稼いでおり、少し高い買い物も容易に出来てしまう彼が、欲しいとする物については想像が付かなかった。ティーゼは、しばし考えたが何も浮かばず「なんだろう」と心底不思議でならないと表情に出した。
すると、クリストファーが、言葉遊びを楽しむように目を細めた。
「欲しい物のためだけに、僕は旅に出て、こうして戻って来た」
「じゃあ、王様しか用意出来ないような高価な物なの?」
ティーゼは、気になって尋ねてみた。彼は回答をはぐらかすように、ふわりと微笑んで、曲に合わせて大きくステップを踏んだ。
「僕にはね、夢があるんだよ。本当に好きな人と結婚する事。僕の帰りを待ってくれて、時間が許す限り二人はそばにいて、何でも話せる仲なんだ」
彼の言葉に思い起こされたのは、仲睦まじかった両親の姿だった。ティーゼの父と母は、二人でハーブのクッキー店を経営し、時間が許す限り一緒にいた覚えがある。
ティーゼは、それを考えながら「つまり」と推測を口にした。
「クリスの夢は、家庭を持つ事なの……?」
「そうだよ。――ねぇ、ティーゼ。結婚というのは、二人が愛し合って一つの家庭を作る事なんだと思わない? 身分にとらわれず、君の父と母のように、心から愛する人と一緒に過ごす事だと」
三曲目が終わると同時に、ゆっくりと足が止まり、ティーゼとクリストファーは向かい合った。
「僕は、いつでもその人のそばにいたいよ。誰よりも愛して、一人になんてしない。妻がいて、子供がいて、そんな家庭に僕は帰りたい」
語る彼の穏やかな微笑みは、すっかり大人の男性のもので、不思議と父と重なるような深い愛情さえ感じた。想像を促されて、ティーゼは、毎日が幸福そうだった両親の姿を思い起こし、将来彼の隣に立てる女性を羨ましく思った。
ああ、何だかいいなぁ、と夢想した。
彼に愛される人は、きっと世界で一番幸せになれるに違いない。こんなに愛情深い人を、ティーゼは他に知らなかった。そういう人に愛されたら、どんなに素敵だろうかと、羨ましさと同時に一抹の寂しさを覚えた。
こんなに素敵な彼が想う相手が――その眼差しを向ける相手が、もし、私であったのなら――……
想いに耽るティーゼの深緑の瞳が、淡く揺らいだ。外から流れ込んで来た涼しげな風が、意思を持ったように会場に集まり始めて、そよぐ彼女のくすんだ栗色の髪の先が明るく染まり出すのを見て、クリストファーが、彼女に悟られないよう満足げにそっと目を細めた。
気付いた人々がダンスをやめ、それは波のように周囲に広がり演奏もピタリと止まった。そのタイミングを待って、クリストファーがティーゼの手を恭しく取り、片膝をついた。
「君が好きだよ、ティーゼ。どうか、僕と結婚して下さい」
静まり返った空間で、ティーゼは、その言葉を聞いて我に返った。目を丸くして見つめれば、いつもより目線が下になったクリストファーが、蕩けるような笑みを浮かべた。
本当に、好きで好きで堪らないのだと彼の眼差しは語っていて、――ティーゼは、疑いようもないその想いに気付いて、首まで真っ赤に染めた。
瞬間、ティーゼの深緑の瞳が鮮やかなエメラルドに変わった。髪が蜂蜜色に染まり、彼女の足元を中心に発生した涼しげな風が、会場内に走り抜けて清浄な空気が満ち、視界が一際明るくなった。
巻き起こった風がピタリと止むと同時に、頭上から、キラキラと細かな輝きが降り始めた。ほぅっとこぼされる溜息が場に広がり、「ああ、精霊の祝福だ」と、誰かがうっとりと口にした。
自らの変化に気付く余裕もないティーゼは、目の前のクリストファーをすっかり意識してしまい、何と答えていいのか分からず、口を開いたり閉じたりしていた。
こんなに好きだと全身で語られたら、もうただの幼馴染として見られるはずがない。
クリストファーが誰よりも優しくて、格好いい事なんて、ティーゼが一番よく知っているのだ。乙女なんて自分には合わないと言い聞かせて距離を置かないと、彼の好意を勘違いして、好きになってしまったらどうすると、早い思春期の時代に封印したのだ。
本当に? 本当に私でいいの? この傷のせいでもなくて……?
訊きたい事は沢山あるのに、顔に集まった熱のせいで涙腺が緩み、ティーゼは声も出なかった。自覚した乙女心に頭は沸騰しそうだし、クリストファーと恋人同士になったら、という恥ずかしい妄想が次々と想像されて、余計に羞恥心も止まらない。
どうしよう、クリスが世界で一番素敵な男性にしか見えない。この人のそばに、ずっと居ても良いなんて贅沢過ぎる。
ティーゼは言葉が出て来なくて、それでも自分の気持ちをきちんと伝えなくてはと思い、彼のプロポーズに応えるべく、どうにか頷いて見せた。
「ああ、ティーゼ。なんて可愛いんだ。傷跡にキスをさせて欲しい」
「かッ、かわ……!?」
反論する時間も与えられないまま、クリストファーの腕が腰に回って抱き上げられてしまった。
ティーゼは、自分の胸の位置にある彼の顔を、茫然と見下ろした。
その時、周りから祝福するような拍手が上がって、ティーゼはビクリとした。ここが舞踏会で、多くの人々がいるのだと遅れて思い出した途端、こちらに向けられる大勢の人々の視線へ目を向けて、これまで以上の羞恥に襲われて震えた。
この中に、ルイやマーガリー嬢、ルチアーノもいると思うと、もう逃げ出したいぐらいに恥ずかしくて仕方がなかった。抱き上げている彼の腕の熱よりも、顔が熱い。
「ティーゼ、僕だけを見て」
嫉妬してしまうよ――
そう笑うような声が聞こえた時、傷跡にキスをされた。ちゅっと肌を吸われて、ティーゼは「ふぎゃっ」と彼の腕の中で飛び上がった。
「ああ、ティーゼ。そんな反応をされると、今すぐ全部欲しくなってしまうよ」
「ぜ、全部って……?」
恐る恐る問い掛けると、クリストファーがそっと唇を寄せて、「今度教えてあげる」とはぐらかすように良い声で囁いた。そして、そのまま、何故かもう一度傷跡にキスをされたうえ、ペロリと舐められた。
もはや理解が追い付かず、羞恥が限界を超えたティーゼは、クリストファーに抱えられたままふっと意識を失った。
※※※
二人の様子を、壁際から見守っていたクラバートとベルドレイクが、涙を呑んで「本当に良かった」「これで平和が保たれる」と呟き、ようやく緊張が解けてその後に座りこんだ。
その近くで控えていたルチアーノが、呆れたように二人の男達を見降ろした。ルチアーノは小さく息を吐くと、ティーゼ達へと視線を戻した。
「お似合いだとは思いますが、何だか惜しい気もしますね」
魔王の友人であるのなら、宰相にとっても親しい友人であっておかしくはない。口にしたらティーゼが調子に乗りそうなので、まだ伝えてはいないが。
そもそも、ルチアーノには友人がいた事はないので、よくは分からないでいた。
主人も上手くマーガリー嬢にプロポーズを成功させ、どうやら承諾ももらえたようなので、ひとまずは、この平和的な結果を喜ぶべきだろう。
さて両者の婚約祝いには何を贈ろうか、と思考を切り替えたルチアーノは、何故か主人ではなく真っ先にティーゼの笑顔を思い浮かべ、人間の少女が驚くような贈り物について考え始めたのだった。
初めて見る王宮の舞踏会はどこもかしこも眩しくて、着飾った多くの男女や、高い天井のシャンデリア、オーケストラの生演奏にも驚かされた。ティーゼは、それをよく見ようとしたのだが、目の前に立ち塞がった人物を見て目を瞠った。
「待っていたよ、ティーゼ」
そこに現れたのは、クリストファーだった。見事な装飾が施された正装服に身を包んだ彼は、英雄というよりは、まるで物語の王子様のよう美しさがあって、ティーゼはドキリとしてしまった。
戸惑う間にも、彼が美麗な顔で優しく微笑んだ。その胸元には、大きなエメラルド色のブローチが輝いていた。
「ティーゼ、とても綺麗だ」
「えっと、その、ありがとう……? クリスも、何だかいつもと違うね」
動揺もあって、ティーゼは、彼の事を自然と愛称のまま呼んだ。
「ふふふ、ありがとう。首周りが寂しいかなと思って、ネックレスを用意してあるんだ」
「えぇッ、いや、わざわざそんな――」
いつの間にかメイドの姿はいなくなっており、彼女に助けを求めようとしたティーゼは慌てた。
ひとまず、ティーゼは「高い物は受け取れないからッ」と幼馴染に答えたのだが、その間にもクリストファーがポケットからネックレスを取り出して、「身構えなくて大丈夫だよ」と言いながら見せて来た。
「ほら、大きなものじゃないし、ティーゼはこういう小振りなアクセサリーが好きでしょう?」
「確かに、物凄く可愛いけど……」
花の形に細工された銀の中に、小さな青い宝石が一つあるシンプルなネックレスだった。
ティーゼは、いつも町中で可愛らしい装飾品を見掛けるたび、男の子の恰好では隠れて見えなくなってしまうし、そこにお金を掛けるのは勿体ないとも感じて、購入には踏み切れないでいた。
それにしても、どうして彼がその事を知っているのだろうか。
物凄く好みのネックレスではあるので、安い物であるのなら欲しいとも思う。貯金で足りるのなら、後でクリストファーにお金を渡せばどうにかなる、のか……?
「気に入ってもらえて良かったよ」
ティーゼが悩ましげに考えている間にも、クリストファーが正面から腕を回し、ティーゼの細い首にネックレスをかけて、慣れたように首の後ろでとめた。
彼は満足そうに目を細めると、何がなんだか分からない、というように首を傾げたティーゼの手を取り、会場の中へと促した。
「ティーゼ、踊ろう。僕はずっと、君と踊りたくて仕方がなかったんだ」
この瞬間をどれほど待ち続けたか――そう続いた呟きが、彼の口の中に消える。
ティーゼは、昔、ダンスを習っていると彼から告げられて、いつか踊りたいと聞かされていた事を思い出した。貴族の息子であるせいか、クリストファーは町の祭り事には参加が出来ないでいたから、恐らく、楽しむ仲間達が羨ましくて、寂しく感じていたのだろう。
まさか、庶民の自分が、こんな煌びやかな舞踏会に参加する事になろうとは思ってもいなかったが、と考えたところで、ティーゼは貴族の形式ばった踊りを知らない事に気付いた。
「あの、私、踊れないんだけど――」
「大丈夫、僕がリードするから、ね?」
慣れない場所で緊張するだろうから、僕だけを見ているといいよ、と彼が優しく告げた。思考が上手く回らないのは、きっと緊張のせいだと気付かされて、ティーゼは「うん」と答えて、彼の手を強く握り返した。
クリストファーが一歩踏み出したタイミングで、オーケストラの演奏が、ひどくゆっくりとしたテンポの曲に変わった。これならどうにかいけるかもしれない、とティーゼは思った。
※※※
腰に腕を回されて、互いの手を取りあった時にはひどく緊張したが、踊り始めると次第に身体の強張りも解けた。多分、クリストファーのリードが上手いせいだろう。簡単なステップだけで、ふわふわと揺れるドレスの感じも楽しくなって来た。
それでも、近くから見降ろされる気恥しさには慣れなかった。彼はティーゼをずっと見ていて、会話が途切れると、どこか熱のこもった眼差しで愛情深く微笑んで来るのだ。
知らず体温も上がって来て、ティーゼは、ぐるぐると考えて困ってしまった。
どうしてか分からないが、見慣れているはずのクリストファーの顔を直視出来ない。幼馴染のはずなのに、近くから見ていると、とても美しく凛々しい知らない男性にも見える。
そういえば、クリストファーは先に成人しているのだ。
ティーゼは、彼がすっかり大人になったのだと実感が遅れて込み上げ、落ち着かなくなった。気付くと演奏曲は二曲目に入っていたが、こちらもゆったりとした曲だったので、ティーゼは、ステップだけに気を取られる心配はなかった。
ずっと密着して踊っているせいで、こんなにも恥ずかしいのだろうか。
そう思って視線を逃がしたティーゼは、ふと、ペアで踊る男女の中に、ルイとマーガリー嬢がいる事に気付いた。マーガリー嬢の雰囲気は険悪ではなく、可愛らしく頬を染め、どこか恥ずかしそうにルイを見つめている。
ルイは、マーガリー嬢にプロポーズはしたのだろうか。プロポーズ後だとすると、二人は上手くいっているという事だろうか?
初心なマーガリー嬢から察するのは難しくて、ティーゼは、近くに待機しているであろう意地悪な宰相を思い浮かべた。普段から無表情なルチアーノが、妙な表情をしていなければ、事が上手く運べたと受け取っていいのかもしれない。
視線を巡らせようとしたティーゼは、次の瞬間、耳元で囁く声を聞いた。
「ティーゼ、僕だけを見て」
握る手と腰を引き寄せながら、クリストファーがステップを踏んだ。
くるりと視界が回ってすぐ、鼻先が触れそうな距離から顔を覗きこまれて、ティーゼは硬直した。クリストファーの深い青の瞳に、吸い込まれて落ちて行きそうな錯覚に陥り、訳も分からず逃げ出したいような恥ずかしさを覚えて顔が熱くなった。
「ク、クリス、近い……ッ」
「そう?」
それは気付かなかったな、とクリストファーが頭を起こしながら、のんびりと言った。流れている曲がまた変わり、ステップは、先程よりもゆったりとしたリズムになった。
「ねぇ、ティーゼ。僕には、ずっと欲しいものがあるんだ」
「欲しい物?」
唐突に話を振られ、ティーゼは首を傾げた。記憶を辿ってみても、彼が何かを欲しいと口にするのは初めてのような気がする。クリストファーは常に両親から欲しい物を与えられていたし、ティーゼや仲間達が、誕生日プレゼントの要望を聞くたび、困ったように微笑んでもいた。
今では自身で稼いでおり、少し高い買い物も容易に出来てしまう彼が、欲しいとする物については想像が付かなかった。ティーゼは、しばし考えたが何も浮かばず「なんだろう」と心底不思議でならないと表情に出した。
すると、クリストファーが、言葉遊びを楽しむように目を細めた。
「欲しい物のためだけに、僕は旅に出て、こうして戻って来た」
「じゃあ、王様しか用意出来ないような高価な物なの?」
ティーゼは、気になって尋ねてみた。彼は回答をはぐらかすように、ふわりと微笑んで、曲に合わせて大きくステップを踏んだ。
「僕にはね、夢があるんだよ。本当に好きな人と結婚する事。僕の帰りを待ってくれて、時間が許す限り二人はそばにいて、何でも話せる仲なんだ」
彼の言葉に思い起こされたのは、仲睦まじかった両親の姿だった。ティーゼの父と母は、二人でハーブのクッキー店を経営し、時間が許す限り一緒にいた覚えがある。
ティーゼは、それを考えながら「つまり」と推測を口にした。
「クリスの夢は、家庭を持つ事なの……?」
「そうだよ。――ねぇ、ティーゼ。結婚というのは、二人が愛し合って一つの家庭を作る事なんだと思わない? 身分にとらわれず、君の父と母のように、心から愛する人と一緒に過ごす事だと」
三曲目が終わると同時に、ゆっくりと足が止まり、ティーゼとクリストファーは向かい合った。
「僕は、いつでもその人のそばにいたいよ。誰よりも愛して、一人になんてしない。妻がいて、子供がいて、そんな家庭に僕は帰りたい」
語る彼の穏やかな微笑みは、すっかり大人の男性のもので、不思議と父と重なるような深い愛情さえ感じた。想像を促されて、ティーゼは、毎日が幸福そうだった両親の姿を思い起こし、将来彼の隣に立てる女性を羨ましく思った。
ああ、何だかいいなぁ、と夢想した。
彼に愛される人は、きっと世界で一番幸せになれるに違いない。こんなに愛情深い人を、ティーゼは他に知らなかった。そういう人に愛されたら、どんなに素敵だろうかと、羨ましさと同時に一抹の寂しさを覚えた。
こんなに素敵な彼が想う相手が――その眼差しを向ける相手が、もし、私であったのなら――……
想いに耽るティーゼの深緑の瞳が、淡く揺らいだ。外から流れ込んで来た涼しげな風が、意思を持ったように会場に集まり始めて、そよぐ彼女のくすんだ栗色の髪の先が明るく染まり出すのを見て、クリストファーが、彼女に悟られないよう満足げにそっと目を細めた。
気付いた人々がダンスをやめ、それは波のように周囲に広がり演奏もピタリと止まった。そのタイミングを待って、クリストファーがティーゼの手を恭しく取り、片膝をついた。
「君が好きだよ、ティーゼ。どうか、僕と結婚して下さい」
静まり返った空間で、ティーゼは、その言葉を聞いて我に返った。目を丸くして見つめれば、いつもより目線が下になったクリストファーが、蕩けるような笑みを浮かべた。
本当に、好きで好きで堪らないのだと彼の眼差しは語っていて、――ティーゼは、疑いようもないその想いに気付いて、首まで真っ赤に染めた。
瞬間、ティーゼの深緑の瞳が鮮やかなエメラルドに変わった。髪が蜂蜜色に染まり、彼女の足元を中心に発生した涼しげな風が、会場内に走り抜けて清浄な空気が満ち、視界が一際明るくなった。
巻き起こった風がピタリと止むと同時に、頭上から、キラキラと細かな輝きが降り始めた。ほぅっとこぼされる溜息が場に広がり、「ああ、精霊の祝福だ」と、誰かがうっとりと口にした。
自らの変化に気付く余裕もないティーゼは、目の前のクリストファーをすっかり意識してしまい、何と答えていいのか分からず、口を開いたり閉じたりしていた。
こんなに好きだと全身で語られたら、もうただの幼馴染として見られるはずがない。
クリストファーが誰よりも優しくて、格好いい事なんて、ティーゼが一番よく知っているのだ。乙女なんて自分には合わないと言い聞かせて距離を置かないと、彼の好意を勘違いして、好きになってしまったらどうすると、早い思春期の時代に封印したのだ。
本当に? 本当に私でいいの? この傷のせいでもなくて……?
訊きたい事は沢山あるのに、顔に集まった熱のせいで涙腺が緩み、ティーゼは声も出なかった。自覚した乙女心に頭は沸騰しそうだし、クリストファーと恋人同士になったら、という恥ずかしい妄想が次々と想像されて、余計に羞恥心も止まらない。
どうしよう、クリスが世界で一番素敵な男性にしか見えない。この人のそばに、ずっと居ても良いなんて贅沢過ぎる。
ティーゼは言葉が出て来なくて、それでも自分の気持ちをきちんと伝えなくてはと思い、彼のプロポーズに応えるべく、どうにか頷いて見せた。
「ああ、ティーゼ。なんて可愛いんだ。傷跡にキスをさせて欲しい」
「かッ、かわ……!?」
反論する時間も与えられないまま、クリストファーの腕が腰に回って抱き上げられてしまった。
ティーゼは、自分の胸の位置にある彼の顔を、茫然と見下ろした。
その時、周りから祝福するような拍手が上がって、ティーゼはビクリとした。ここが舞踏会で、多くの人々がいるのだと遅れて思い出した途端、こちらに向けられる大勢の人々の視線へ目を向けて、これまで以上の羞恥に襲われて震えた。
この中に、ルイやマーガリー嬢、ルチアーノもいると思うと、もう逃げ出したいぐらいに恥ずかしくて仕方がなかった。抱き上げている彼の腕の熱よりも、顔が熱い。
「ティーゼ、僕だけを見て」
嫉妬してしまうよ――
そう笑うような声が聞こえた時、傷跡にキスをされた。ちゅっと肌を吸われて、ティーゼは「ふぎゃっ」と彼の腕の中で飛び上がった。
「ああ、ティーゼ。そんな反応をされると、今すぐ全部欲しくなってしまうよ」
「ぜ、全部って……?」
恐る恐る問い掛けると、クリストファーがそっと唇を寄せて、「今度教えてあげる」とはぐらかすように良い声で囁いた。そして、そのまま、何故かもう一度傷跡にキスをされたうえ、ペロリと舐められた。
もはや理解が追い付かず、羞恥が限界を超えたティーゼは、クリストファーに抱えられたままふっと意識を失った。
※※※
二人の様子を、壁際から見守っていたクラバートとベルドレイクが、涙を呑んで「本当に良かった」「これで平和が保たれる」と呟き、ようやく緊張が解けてその後に座りこんだ。
その近くで控えていたルチアーノが、呆れたように二人の男達を見降ろした。ルチアーノは小さく息を吐くと、ティーゼ達へと視線を戻した。
「お似合いだとは思いますが、何だか惜しい気もしますね」
魔王の友人であるのなら、宰相にとっても親しい友人であっておかしくはない。口にしたらティーゼが調子に乗りそうなので、まだ伝えてはいないが。
そもそも、ルチアーノには友人がいた事はないので、よくは分からないでいた。
主人も上手くマーガリー嬢にプロポーズを成功させ、どうやら承諾ももらえたようなので、ひとまずは、この平和的な結果を喜ぶべきだろう。
さて両者の婚約祝いには何を贈ろうか、と思考を切り替えたルチアーノは、何故か主人ではなく真っ先にティーゼの笑顔を思い浮かべ、人間の少女が驚くような贈り物について考え始めたのだった。
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ララ
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又、読み返してキュンキュンしております😆
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何回も読んで行くと見方が少し変わりますね!
主人公+ルチアーノさんもなかなか良さそうです!ifバージョンも読んでみたいです✨✨
面白くて 一気読み致しました。
魔王より魔王らしい英雄の、重い想いがかなって良かったです♪
ほっこりしました。
素敵な物語を有難うございました。