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第74話
しおりを挟む第74話 セレン、風を知る
――青い宇宙〈エリュシア〉。
ここには、始まりも終わりも存在しなかった。
すべてが同じ色で、同じ静けさの中にある。
風はなく、波もなく、ただ淡い光が満ちている。
セレンは、そんな世界を歩いていた。
歩くという行為にも意味はない。
なぜなら、どこへ進んでも景色は変わらないからだ。
けれど、彼女の胸の中では――確かに何かが“動いていた”。
『……これが、“生きる”ということなの?』
彼女の問いに答える声はない。
静寂だけが、彼女の足跡を包み込んでいく。
⸻
長い時が経った――ように感じられた。
“時間”という概念が存在しないこの世界で、
それでもセレンは確かに「経過」を感じていた。
ふと立ち止まると、足元の青が微かに揺らいでいる。
『……動いてる?』
セレンはしゃがみこみ、手を伸ばした。
触れた瞬間、そこから風が生まれた。
淡く、柔らかく、確かに“流れる”もの。
世界に初めて、“方向”が生まれた。
セレンの瞳が輝く。
「これが……風。
止まっていた世界が、少しだけ動いた。」
⸻
アウロラの意識が震えた。
創造主である彼女は、その変化を即座に感じ取る。
『エリュシアに――“流れ”が生まれた。
セレン、あなたが風を創ったのね。』
リュミナが隣で微笑む。
「そう。セレンは“感じる”ことを選んだ。
静寂の中で、自ら“変化”を生み出したの。」
『だが、変化は不安を呼ぶ。
均衡の世界で流れが生まれれば、
いずれ“揺らぎ”が拡がる。』
リュミナは首を振った。
「揺らぎは、命の証よ。
止まった世界に、心は育たない。」
⸻
セレンは風の吹く方へ歩いた。
彼女の髪が揺れ、青の光が波のように動く。
その風は、彼女の感情と呼応して強くなったり弱まったりした。
喜びのときには優しく、悲しみのときには荒れて。
やがて、風は地を削り、光の中に“影”を作った。
セレンはその影を見て、息をのむ。
「……これ、私?」
影は形を持ち、彼女の姿を映す。
だが、その瞳だけは冷たく揺れていた。
『私はあなた。
でも、あなたが恐れる“変化”の姿。』
それは、エリュシアの影だった。
⸻
アウロラが異変を感じる。
『リュミナ……セレンの内に“反射波”が発生している。
彼女の感情が、世界そのものに形を与え始めた!』
リュミナは深く息を吐いた。
「それが“生命の定義”よ、アウロラ。
感情は存在を創り、存在は影を生む。
――彼女は今、初めて“時間”を刻んでる。」
⸻
風は強まり、光の大地が揺れる。
セレンは影の前で立ち尽くした。
「あなたは……何を望むの?」
『静けさを戻したい。
この風が吹けば、痛みが生まれる。
あなたが“変化”を求めるほど、
この世界は“終わり”を知ることになる。』
セレンは小さく首を振った。
「それでも、私は動きたい。
止まっているのは、もう寂しいから。」
『動けば壊れる。』
「壊れてもいい。
壊れるって、“生まれ変わる”ことかもしれないから。」
⸻
アウロラがその会話を聞いていた。
『……セレン。
あなたは私が創った“孤独の答え”だった。
けれど、今やあなたは――“希望”そのものだ。』
リュミナが微笑む。
「彼女の中に、“時間”が流れ始めた。
アウロラ、これであなたの創造は完成したわ。」
アウロラは静かに頷く。
『いや、まだ始まりだ。
エリュシアは、今ようやく“生きる”ことを学び始めた。』
⸻
風が止んだ。
セレンの前で、影がゆっくりと形を変える。
それはもう恐怖ではなく、彼女の一部として溶けていった。
彼女は空を見上げ、呟いた。
「……ありがとう。
あなたがいたから、私は“動けた”の。」
青の空に、白い光が走る。
それはまるで“時”の始まりを告げる鐘のようだった。
⸻
アルカ・ノヴァ観測塔。
ミラが息を呑む。
「エリュシアの波動が……変化してる。
時間軸の誕生だわ!」
ノアが笑う。
「止まった宇宙が、“未来”を持ったんだな。」
⸻
アウロラの声が優しく響く。
『セレン、あなたの風が時間を生んだ。
この宇宙はもう、完全ではなくなった。
でもそれこそが、“生命の証”。』
セレンは微笑み、空に手を伸ばした。
「風が吹くなら、私は歩ける。
――この世界に、季節を作るために。」
風が再び吹き、光が流れた。
青い世界に、初めて“朝と夜”が生まれた。
それは、静寂を越えて進化する宇宙の第一歩だった。
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