ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

ひとりの紳士

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 レイラは一人、首都の中心地にあるとある居酒屋で働ける推薦状を握りしめ、僅かな荷物を抱え、汽車に乗っていた。
 15歳の誕生日を迎えて半年が経った頃の事だった。


 レイラの生まれは首都から汽車で2時間ほど離れた農村地帯だった。
 レイラの育った地域は一般的に貧しいと言われている場所で、それは彼女の家も例外ではなかった。
 妹が2人と、まだ産まれたばかりの弟が1人いるレイラは10歳の頃から家業を手伝っていたが、それでも生活はずっと貧しいままで、雪が降りしきる冬になると食料さえ底をつくことも珍しいことではなく、まさにレイラの家は貧困に喘いでいた。
 まだ幼い弟が1人いて、妹たちは食べ盛り。父は酒ばかり飲むし、母は寝る間も惜しんで働き詰めている。レイラ自身も学びたいという夢を諦め、身を削って家業を手伝った。
 しかし働いても働いてもそれでも家が貧しい事には変わりがない。
 そんな日常に未来を感じられず絶望を感じていた時、数年前に首都に出た同じ農家である近所の知り合いのお姉さんが、とても煌びやかな服装で田舎に里帰りしてきた。しかも見た事のないほどの高級品の手土産と金銀を大量に抱えて。
 レイラはすぐにそのお姉さんに会いに行き、なぜそんな格好をしていて、なぜ急にこの家は裕福になったのかを聞いた。
「首都のとあるお店で働いていたら親切にしてくださる方と知り合って。その方が服もお金も全てプレゼントしてくれたの」

 見違えたように綺麗になったお姉さんにレイラは憧れを覚えた。
 と同時に自分もそうなれば家族の生活が楽になるかもしれないーーとも。
 レイラは家族にまともな相談もせずに、そのお姉さんが働いていたお店で働く事のできる推薦状と女子寮の一室を用意してもらった。

 そしてもう首都へ出ると決まった時にレイラは母に相談をした。
 もちろん母は今まで見た事もない程の強い剣幕で反対をした。まだ15歳の娘を首都になんて送り出せるわけがなかった。
 しかしレイラはもう心に決めていた。貧しいままでは未来も描けない。レイラ自身はもう諦めた事でも妹や弟達には諦めて欲しくなかった。
 母に貧乏である家の現状をこれでもかと並べ立て、このままじゃ誰も幸せになれないと、だから私が首都へ行くのだと、そう強い言葉で言い放った。

 最終的には母も折れてくれた。そして首都への交通費も何とか捻出してもらい、家族は泣きながら駅まで見送ってくれた。

 そうしてレイラは、夢の首都へ向かう汽車の中にいる訳だ。





 しかし、お姉さんから紹介してもらった古い居酒屋で働き始めてから半年が経ち、レイラももう16歳を迎えた頃、気付いたことがある。
 居酒屋には頻繁に政治家や富豪が集う。彼らは一見親切そうに見えて、親切という仮面を被っているにすぎなかった。
 レイラの同僚は何人か親切な人が見つかり、上手い話に乗せられるがまま、愛人にされ半ば娼婦のような扱いをされた。
 その見返りが高価な衣服やお金だったーー。
 女性は本気で相手を好きでも、その相手は飽きたらまるで物のようにその女性を捨てる。そして女性は泣きながら故郷に帰るのだ。
 そしてそれは、ここピーテルでは決して珍しい話ではなかった。

 レイラは家族を助けたかったが、このような惨めな結末を迎えるくらいなら、親切な人を見つけるよりも自分が働いて家族に仕送りをし続ける方がマシだと思っていた。
 しかし精一杯働いても家族に仕送りをすればレイラの手元に残るお金は少なく、あのお姉さんが纏っていたような美しい衣服をまとう夢見た暮らしは程遠い。
 寮の一室。レイラの部屋は5畳ほどで、それが彼女の全てだった。
 ーーこんなはずじゃなかったと思う度に、レイラは悩んだ。

 レイラ自身、艶のある金髪に長いまつ毛、栗色の瞳、はたから見たら整った顔立ちだった為、興味本位で声を掛けられる事も少なくはなかった。
 しかし、レイラはそういった人達にはわざと冷たく振舞った。
 だから親切な人などレイラの前に現れなかったのだ。
 レイラが愛想良く振舞っていればもしかしたら上手くいく事もあったかもしれないーー。

 家族にも母にも会いたい。故郷に帰りたい思いが日を増す事に強くなっていったが、そこで仕送りが途絶えたら困る家族がいるという現実を考えれば、帰るという選択肢はレイラにはなかった。
 かといって、色眼鏡で見てくる中年達に愛想良く振る舞うことも出来ない。
 そして何よりレイラは貧困から抜け出したいだけで、居酒屋に来る富豪や政治家のように贅沢をしたい訳でも偉ぶりたい訳でもなかった。
 その欲のなさが、首都の富豪たちには非魅力的に映り、更にレイラは孤独を深めていく。
 どうする事も出来ないーー八方塞がりのこの状況の中、レイラはそれでも誰にも頼ることなく家族のために働き続けた。



 しかし雪の降りしきる日、レイラについに転機が訪れた。


「ちょっと……そこの君!」
 この居酒屋には似合わない柔い声がレイラを呼ぶ。
「はい」
 気だるく振り向いた際に目に映ったのは、すっきりとした顔立ちの身なりの良い若い紳士だった。
 ここへ来るのは大抵中年以上の老紳士が多いのに、この人はまだ20代後半位に見える。
 レイラは疲れきった愛想笑いを浮かべながら「なんでしょうか」とその立ち尽くしている紳士の元へと向かった。

「君、名前は?」
 紳士はレイラの瞳を見つめひと時も逸らさない。
 漂う雰囲気に嫌な予感がして、レイラはわざと眉をひそめ不愉快を演出した。
「レイラ、ですが」
 しかしその若い紳士はレイラのその態度を気にすることも無く「レイラね」と微笑むと、
「店長! レイラの勤務時間分と利益文の金払うから、この子と一緒に飲んでもいい?」
 と店長に叫んだ。
「ああ、どうぞどうぞ」
 珍しいことでもない出来事に店長は気軽に返事をしてしまう。

 愛想の悪い奴だと、途端に興味を無くすものだと思い込んでいたレイラは身構え警戒をあらわにした。
 しかし紳士はそんな雰囲気を感じ取ったのか、少し寂しい表情を浮かべた。

「もちろん、君が嫌だったら無理にとは言わない。でも神に誓って嫌な思いはさせない。ーー信じて欲しい」
 他の人とは違う、欲を感じられない微笑みにレイラは目を見開いた。
 そして、この人だけは違うのではないかーーという一縷の希望をレイラの胸に宿した。
 しかし、それが間違いだった場合きっと身も心もボロボロになってしまうと分かっているレイラは俯いた。
 心臓がうるさくうねり、それが恐怖なのか緊張なのか、はたまたもっと別のものなのか、幼いレイラにはまだ分からなかった。

 そんなレイラを紳士は優しい眼差しで待ち続けた。
 苛立つ様子も見せず、ただその言葉を待つ紳士に心は遂に折れた。
 ただの感だ。
 ーー信じてもいいかもしれない。騙されたら自業自得だと、そう思えた。


「少しだけなら……」とレイラは頷き、紳士はホッとしたように胸を撫で下ろしたのだった。


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