ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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炎が尽きる頃

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 ここは北国。民衆の国家に対する反発から街は物騒だったが、暗い空から降り注ぐ雪と共にそれも落ち着きつつあった。

 暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えている。
 ロッキングチェアに揺られながら、息絶えることのない炎を見ていれば、不思議と胸の苦しさが引いていくようだった。
 今年の冬は例年よりずっと寒いと聞く。
 ーーあの人は反国家活動に参加してないわよね……? と、もうずっと前に愛した人をふと思い浮かべる。心身共に無事でいてほしかった。


「レイラ。まだ寝てなかったのかい?」
 2階から降りてきたのはレイラの年の離れた夫マキシムだった。

「ええ。リーザは寝てる?」
「あぁぐっすり眠ってるよ」
「そう良かった。私ももうすぐ寝るから。あなたは先に寝てて」
 そう言いながら、着込んでいるレイラの肩に更にガウンをかけようとするマキシムが何だか過保護でおかしくてレイラは笑ってしまった。
 しかしマキシムは笑い返してくれず、心配そうに眉をひそめるだけだった。3日前、肺の病が悪化して吐血したレイラを見ているからだ。
「……身体は大丈夫?」
「ええ。今はとても調子がいいから、逆に起きていたいのよ」
「そうか。明日の準備があるから俺は先に寝るよ。暖かくして寝るんだよ」
「分かった。ありがとう」

 レイラは、マキシムが階段を上がり寝室に戻っていくのを横目で確認すると、ロッキングチェアから立ち上がり、炎に出来るだけ近づきたいと暖炉の前に座り込んだ。
 そして手に持っていた、背表紙の割れている一冊の本を強く胸に抱えた。
 静まり返る部屋に響く暖炉の音と、不規則に空気を揺らす炎の熱さがレイラの心を溶かしていく。

 深呼吸をしながら瞳を閉じる。
 何故か瞳の裏に浮かぶのは、過去愛した人だった。
 今のレイラには愛する娘もいるし、夫もいる。
 でもきっと死ぬ間際思い出すのはきっと、あの煌めいていた一瞬のことなのかもしれない。
 手の甲で触れた背の高いあの人の頬の触れたあと、涙ながらに抱きしめられたその温もり。それだけをレイラは未だに夢に見るのだ。


 彼と別れてすぐマキシムの店で働き、そしてその1年後にマキシムとの結婚が決まった。
 自分の気持ちにケリを付けるためにも、挙式の前に一目彼に会いたくて、反対する母の目を盗んで泣きながら劇場街まで駆けたことや。
 そこで彼に会えなくて泣きながら夜道を歩いていたことも。そしてそこで再会出来たこともーー。
 改めて感じた愛おしさにその時、もう二度と彼に会いたいとも、会う希望さえも抱かないと決めたことも。
 もう二度と会えなくていいから、私を忘れて幸せになっていますように、だなんて柄にもなく神様に祈ったことも。
 ーーなぜだか今日は未練がましい子のように、鮮明にそれを思い出す。

 これではいけないーーと、燃える炎を見つめながら、レイラはありふれた幸せの在処を思い出そうとした。
 娘に本を読み聞かせる時のほのかな温もり。夫と店に立ち、常連客と交わす何気ない会話。娘の誕生日にはドレスや本を贈り、夫の誕生日にはいつもよりも良い食料を使って豪華な手料理を振舞った。
 とても穏やかで波風のない、慎ましい幸せ。
 しかし、そのひとつひとつの幸せの訳を辿れば、たった一人に行き着く事をレイラは知っていた。

 彼と過ごした日々、そして別れた悲しみがなければこんな穏やかな幸せや愛する娘とも出会えなかった。
 何もかも、全ては神様が定めた運命の通りに進んでいるようだと思った。
 少しくらい運命に逆らおうとした、そんなレイラ達の覚悟さえも決められていたかのような、そんな人生が今は少しだけ悲しくも思う。

 私はこんなに幸せなのだから、彼も同じだけ幸せであって欲しいとそう思う心は一体何を指し示しているのだろうか。
 レイラは優しく微笑んだ。
 ーーあぁ本当にもう二度と会えないのね。この身体じゃ遠くからでも見る事が叶わない。
 抱えていた本を膝に置き、冷える手を暖炉にかざした。
 じわっと熱が指先をしびれさせ、その炎の温もりがレイラを取り囲んでいった。
 懐かしさに胸が震えてはまぶたをしめらせていく。

 ーーあの別れは私よりもずっとあの人の方が傷付いていた。それはただの感に過ぎないが、何となくレイラはそんな気がしてならなかった。
 ーー私に何が出来たのだろうか。
 最後の日なんて自分の事ばかりで、守られてばかりで、突き放してばかりで、彼を気遣う言葉をあまり掛けられなかったような気がした。

 何もしない方がいい事は分かっていた。
 だが何故か今なら、彼を労る言葉が思い付くような気がした。

 ーーどうせ自己満足だ。もう二度と会えないし、言葉も伝わらない。
 そう諦めながらもレイラは、身体を気遣うようにゆっくりと暖炉の前から立ち上がってはチェストまで歩き、そこから便箋を数枚とペンを取り出した。
 そして再び暖炉の前に座り込み、背表紙の割れている一冊の本を机の代わりにして、便箋に震える文字を滑らせた。
 それは本音と少しの嘘と涙。
 なんの未練もなく神に迎えられたかったのに、このままじゃあの世でも思い出して泣いてしまいそうだと、レイラは思わず嘲笑を浮かべた。

 絶対に泣きたくはなかった。泣いてしまえばどうしても、彼の胸に縋った事を思い出してしまうから。
 数年も経てば自然と記憶から消え去っていくものだと思っていた。新しい幸せを見つければ過去に悲しさなんて見出すことはないと。
 でも違ったのだ。レイラにとってあれは悲しいだけじゃない、幸せの涙でもあった。
 だから鮮明に何度でも思い出してしまった。幸せはいつまで経っても色褪せてくれないどころか、時を経る毎に更に淡い光が装飾されていく。
 そして戻れない幸せーー決して叶うことのなかった幸せはいずれ悲しみをも呼ぶ。

 レイラは最初、書いたものは全て暖炉に投げ入れるつもりだった。文字ごと灰にするつもりで綴った。
 しかし、完成したその言葉を前にどうしても手が震えてできなかった。
 この便箋を炎で燃やしてしまったら、あの日々全てが無かった事になるような感覚に苛まれたのだ。
 煌めいて暖かくて新鮮で、切なくて、悲しくて苦しくて、そして幸せだったあの日々が、何故だか今は涙が出るほど恋しい。

 レイラは暖炉の前で延々と悩んだ結果、その便箋を封筒に入れ手紙という形にし、自室の机の引き出しにしまった。
 手紙を出すことは出来なくとも、何故かこれで彼に伝えられたような気になった。

 そして夜明けも迫る頃、幸せの欠片が散らばるこの家で、レイラは眠りにつく。
 ああどうして今日はこんなにも懐かしい感情に苛まれるのだろう。レイラは不思議で仕方なかった。

 ホロリと無意識に伝う涙に、レイラはやっと思い出した。
 その時、正直すぎる自分の心に思わず笑ってしまった。
 ーーああ今日は二人が別れた日だった。



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