ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

文字の大きさ
14 / 29
ピーテルに消えた雨 Ⅰ

心待ち

しおりを挟む



 そしてレイラが心待ちにしていた明明後日がやってきた。

 その日は明け方に目を覚まし、ミハイルが用意してくれた衣服を試行錯誤しながら1時間もかけてまとい、茶を沸かし、菓子も用意し、今か今かと浮き足立っていたが、それも陽が傾いていくのと同時に落ち着いていった。

 ーーレイラがこの部屋で一人で過ごしている間、ミハイルには仕事がある。

 ミハイルはレイラに対しとても気さくに接してはくれるが、二人の身分の差を決して忘れてはならない。
 レイラに長い時間構っていられるほど彼は暇ではない。

 寂しい気持ちも感じる反面、これくらいの距離感でいた方が自身にとっても気楽なのかもしれないとも安堵した。

 暇を持て余している間に陽は完全に落ち、窓から見える夜空には満月が浮かんでいる。
 その月暈の瞬きが少しだけレイラの寂しさを和らげた。

 レイラはカーテンを閉じたあと、目を伏せながら暖炉に薪を足す。
「忘れているのかしら」
 ささやかな絶望と共にレイラは軽く微笑み、そして反省した。
 ミハイルに過度な期待はしないーー。
 そう思っていたのに縋りそうになる自分が悪いのだ。

 団扇で軽く炎をおこしたあとゆっくりと立ち上がり、リビングのテーブルにそっと団扇を置く。
 実家から持ってきたガウンを羽織り、溜息をつきながらソファーに腰掛けた。

 暖かい紅茶を手にふぅと息を吐き、目を閉じる。
 窓の向こう側から聞こえてくる街の音がレイラを落ち着かせた。

「ん?」

 しかしふと、その街の雑踏に紛れて扉が叩かれる音が聞こえたーー。
「は……もしかして!」
 レイラは紅茶をテーブルに置き、駆け足で玄関まで向かう。
 息を切らすその呼吸音が、ドアの向こう側から聞こえてくる。
「あ、あの……」
「ミハイルだ。レイラごめん、遅くなって」

 レイラははやる胸を抑えながら、恐る恐るその扉を開けた。

 ーー心待ちにしていたその姿ーー

 ああ良かったと膝から崩れ落ちそうになるほど、お互いに安堵していた。

 何と言葉をかけていいのか分からないレイラに、ミハイルはただひたすらに謝った。
「本当にごめん。仕事が中々片付かなくて……。待ったよね」
「あ、いえ、そんな! 大丈夫です」

 心底申し訳なさそうにするミハイルが玄関から動こうとしないものだから、レイラは無理やりその腕を取って部屋の中に引き入れる。
「本当に、気にしないでください。大丈夫ですから」
 長い時間待っていたのは事実だ。
 だが、レイラにはミハイルを責める権利などない。
 住まいも衣服も生活費も渡されて、どうしてミハイルを責めることが出来ようかーー。

 謝るミハイルにレイラは驚いたものの、決して嫌な顔を見せることはしなかった。

 一方のミハイルも、今日に限って取引先とのトラブルが起こり、仕事が中々片付いてはくれなかった。
 夜遅い時間に訪ねるのもどうかと迷ったが、レイラを引き取って初めての約束は何としてでも守りたいミハイルがいた。

「ごめん、勉強は少し休んでからはじめよう」
 呼吸を整えながらミハイルはレイラに笑いかける。
「はい」

 ミハイルはコートを脱いでソファーの背もたれに投げ置くのと同時に、思い切りそれに腰掛け、しばらくの間目を閉じた。

 レイラはその間、リビングの端に小さく佇む勉強机の上にノートやペンなどを用意し、ミハイルの為に紅茶もいれなおした。
 しかしいつの間にかミハイルは寝息を立てている事に気づく。
「ミハイル……?」
 小さく声を掛けるが、起きる気配はない。

 どうしたらいいのか分からず、あたふたし始めるレイラ。
 声をかけるべきか否か。
 しかしこんな場所で寝られては身体にも悪いーーと思ったレイラは思い切ってミハイルの肩を叩いた。
「ミハイル」
「ん? あぁごめん!」
 飛び起きたミハイルにレイラまで肩を震わせる。
 その疲れた顔色がミハイルの身体を蝕んでいくようにも見えて、レイラは不安に駆られた。
「あの、お疲れでしたら今日じゃなくても……」
「いや、大丈夫。今日やろう」
 ミハイルは即答だった。
 そしてレイラが反論する意思さえ抱く間もなく「この前買った本持ってる?」と、何事も無かったかのように微笑んむ。
 そんなミハイルの微笑みにつられてレイラは「あ」と声を上げ、彼に背を向けては棚から3冊の本を取りだし、ミハイルの前に差し出した。

「これ、の事ですか?」
「そうそうそれ」
 ミハイルが息を着くように笑うと、レイラは安堵した。

 ーー自分の存在が負担になっていなければそれでいい。

 お互いにそう思っていた。



 レイラは長い髪をひとつにまとめ、ミハイルはシャツの腕を捲った。
 ミハイルはレイラが安心できるように、暖炉に薪を足し、窓を僅かに開けた。

 机と向き合うレイラの瞳は輝いていた。
 ミハイルの発する言葉の一言一句を聞き逃さないように真剣な表情を見せたかと思えば、不意に笑いながら振り返り、ミハイルと目を合わせた。

 ーーこのような表情も出来るのか。

 胸の底から湧き上がる狂おしい感情が、本人も気付かぬ間にミハイルを蝕もうとしていた。
 しかし、その感情を塞き止めることが出来たのは、他でもないレイラが居たからだった。

 彼女を安心させたい。
 彼女に学びを与えたい。
 それ以上に叶うミハイルの願いは無かったからだ。

 参考書を1ページずつ読み進めていく度に、レイラの瞳に光が宿っていくことがミハイルにとって、どうしようも無い幸せだった。

 しかし、時間はあっという間に過ぎていく。
 早く家に帰らなければ……そんな思いがミハイルの胸に過ぎった時、イネッサの顔が思い浮かんだ。

 妻子が居ることはまだレイラには伝えていない。
 いずれ知る事になるだろうが、何故か口に出す事が出来なかった。

 ミハイルは真剣に書き進めていくレイラの手を後ろからそっと止め、「今日はここまでにしよう」と声を掛けた。
 レイラは振り返り、少し名残り惜しそうな表情を浮かべながら「はい」と答える。

「分からない単語があればこれで調べて。これは宿題ね。来週までに終わらせておいて」

 レイラはページの折られた参考書をミハイルから差し出され、それを宝物のように受け取った。
「はい」
 ーー学ぶことがこんなに楽しいとは知らなかった。
 知らない文字や単語の意味が分かっていくーー。
 ただそれだけで、自分は無敵になれたような気になった。


 ミハイルは満足気に笑うレイラを見て、初めて会った日の彼女が脳裏に浮かび、ここまでの笑顔を見せてくれたことに、涙さえ込み上げて来そうになっていた。

 人生が変わっていくーーそれはきっとはたから見たらレイラに当てはまる事だろう。
 でも心を与えられていくような日々に、ミハイルの方がその変化を大きく感じとっていた。

 ミハイルはレイラの頭をひとつ撫でると「じゃあひとまず文字の方はここまでで……レイラ、立って」と声を掛ける。
 レイラは振り向きつつ立ち上がると「なにか……?」と首を傾げた。

 明後日にはナターシャ夫人がレイラを訪ねてくる。
 彼女は愛ある人だが、厳しくもある。
 なるべく辛い思いをさせたくなかったミハイルは彼女に、立ち方やお辞儀の仕方。挨拶の仕方までを丁寧に教えた。

 まだ若く物覚えの良いレイラはすぐにそれを習得した。
 ミハイルは感心しながら、どこか寂しげに微笑む。

「俺は女性のマナーに精通している訳じゃないから、とても信用している方にマナーの先生を頼もうと思う」
「は、はい……」
「そんな不安そうな顔しないで。大丈夫、とても素敵なマダムだから。ーーただもし、何か嫌な事を言われたり、されたりしたらすぐに教えて。ちゃんと変えるから」
「はい、分かりました」
「うん。明後日のお昼にここを訪ねてくると思うから……その日は正装でいた方がいいかもね。ドレスの着方分かりそう?」
「大丈夫、だと思います」
 開けられた窓から冷たい空気が流れ込み、レイラは肩をふるわせた。
 不安げに窓の方に視線をやるレイラにミハイルはふと気付く。

「あ、長居しすぎたね。そろそろ……帰るよ」

 ミハイルがそう言うと、レイラは少しだけ安堵した表情を見せる。
 紳士な彼を信じていなかった訳では無いが、完全に信じきれていた訳でもなかった。
 窓の外から聞こえる雑踏が徐々に静まり返っていく様に、
 ーーもしかしたらーー
 という警戒心も存在していた。
 しかし、ミハイルが察してくれたことでそれは僅かに薄れ去る。


「俺が帰ったら、必ず窓は閉めるんだよ。鍵もしめてね」
 玄関でミハイルは何度もレイラにそう言い聞かせる。
「はい、分かりました」
 レイラはその言葉に、こぼれる微笑みが隠しきれず俯いてしまう。
 ずっと働いてきたレイラにとって、子供のように心配されることが嬉しかった。



















しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

処理中です...