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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
心待ち
しおりを挟むそしてレイラが心待ちにしていた明明後日がやってきた。
その日は明け方に目を覚まし、ミハイルが用意してくれた衣服を試行錯誤しながら1時間もかけてまとい、茶を沸かし、菓子も用意し、今か今かと浮き足立っていたが、それも陽が傾いていくのと同時に落ち着いていった。
ーーレイラがこの部屋で一人で過ごしている間、ミハイルには仕事がある。
ミハイルはレイラに対しとても気さくに接してはくれるが、二人の身分の差を決して忘れてはならない。
レイラに長い時間構っていられるほど彼は暇ではない。
寂しい気持ちも感じる反面、これくらいの距離感でいた方が自身にとっても気楽なのかもしれないとも安堵した。
暇を持て余している間に陽は完全に落ち、窓から見える夜空には満月が浮かんでいる。
その月暈の瞬きが少しだけレイラの寂しさを和らげた。
レイラはカーテンを閉じたあと、目を伏せながら暖炉に薪を足す。
「忘れているのかしら」
ささやかな絶望と共にレイラは軽く微笑み、そして反省した。
ミハイルに過度な期待はしないーー。
そう思っていたのに縋りそうになる自分が悪いのだ。
団扇で軽く炎をおこしたあとゆっくりと立ち上がり、リビングのテーブルにそっと団扇を置く。
実家から持ってきたガウンを羽織り、溜息をつきながらソファーに腰掛けた。
暖かい紅茶を手にふぅと息を吐き、目を閉じる。
窓の向こう側から聞こえてくる街の音がレイラを落ち着かせた。
「ん?」
しかしふと、その街の雑踏に紛れて扉が叩かれる音が聞こえたーー。
「は……もしかして!」
レイラは紅茶をテーブルに置き、駆け足で玄関まで向かう。
息を切らすその呼吸音が、ドアの向こう側から聞こえてくる。
「あ、あの……」
「ミハイルだ。レイラごめん、遅くなって」
レイラははやる胸を抑えながら、恐る恐るその扉を開けた。
ーー心待ちにしていたその姿ーー
ああ良かったと膝から崩れ落ちそうになるほど、お互いに安堵していた。
何と言葉をかけていいのか分からないレイラに、ミハイルはただひたすらに謝った。
「本当にごめん。仕事が中々片付かなくて……。待ったよね」
「あ、いえ、そんな! 大丈夫です」
心底申し訳なさそうにするミハイルが玄関から動こうとしないものだから、レイラは無理やりその腕を取って部屋の中に引き入れる。
「本当に、気にしないでください。大丈夫ですから」
長い時間待っていたのは事実だ。
だが、レイラにはミハイルを責める権利などない。
住まいも衣服も生活費も渡されて、どうしてミハイルを責めることが出来ようかーー。
謝るミハイルにレイラは驚いたものの、決して嫌な顔を見せることはしなかった。
一方のミハイルも、今日に限って取引先とのトラブルが起こり、仕事が中々片付いてはくれなかった。
夜遅い時間に訪ねるのもどうかと迷ったが、レイラを引き取って初めての約束は何としてでも守りたいミハイルがいた。
「ごめん、勉強は少し休んでからはじめよう」
呼吸を整えながらミハイルはレイラに笑いかける。
「はい」
ミハイルはコートを脱いでソファーの背もたれに投げ置くのと同時に、思い切りそれに腰掛け、しばらくの間目を閉じた。
レイラはその間、リビングの端に小さく佇む勉強机の上にノートやペンなどを用意し、ミハイルの為に紅茶もいれなおした。
しかしいつの間にかミハイルは寝息を立てている事に気づく。
「ミハイル……?」
小さく声を掛けるが、起きる気配はない。
どうしたらいいのか分からず、あたふたし始めるレイラ。
声をかけるべきか否か。
しかしこんな場所で寝られては身体にも悪いーーと思ったレイラは思い切ってミハイルの肩を叩いた。
「ミハイル」
「ん? あぁごめん!」
飛び起きたミハイルにレイラまで肩を震わせる。
その疲れた顔色がミハイルの身体を蝕んでいくようにも見えて、レイラは不安に駆られた。
「あの、お疲れでしたら今日じゃなくても……」
「いや、大丈夫。今日やろう」
ミハイルは即答だった。
そしてレイラが反論する意思さえ抱く間もなく「この前買った本持ってる?」と、何事も無かったかのように微笑んむ。
そんなミハイルの微笑みにつられてレイラは「あ」と声を上げ、彼に背を向けては棚から3冊の本を取りだし、ミハイルの前に差し出した。
「これ、の事ですか?」
「そうそうそれ」
ミハイルが息を着くように笑うと、レイラは安堵した。
ーー自分の存在が負担になっていなければそれでいい。
お互いにそう思っていた。
レイラは長い髪をひとつにまとめ、ミハイルはシャツの腕を捲った。
ミハイルはレイラが安心できるように、暖炉に薪を足し、窓を僅かに開けた。
机と向き合うレイラの瞳は輝いていた。
ミハイルの発する言葉の一言一句を聞き逃さないように真剣な表情を見せたかと思えば、不意に笑いながら振り返り、ミハイルと目を合わせた。
ーーこのような表情も出来るのか。
胸の底から湧き上がる狂おしい感情が、本人も気付かぬ間にミハイルを蝕もうとしていた。
しかし、その感情を塞き止めることが出来たのは、他でもないレイラが居たからだった。
彼女を安心させたい。
彼女に学びを与えたい。
それ以上に叶うミハイルの願いは無かったからだ。
参考書を1ページずつ読み進めていく度に、レイラの瞳に光が宿っていくことがミハイルにとって、どうしようも無い幸せだった。
しかし、時間はあっという間に過ぎていく。
早く家に帰らなければ……そんな思いがミハイルの胸に過ぎった時、イネッサの顔が思い浮かんだ。
妻子が居ることはまだレイラには伝えていない。
いずれ知る事になるだろうが、何故か口に出す事が出来なかった。
ミハイルは真剣に書き進めていくレイラの手を後ろからそっと止め、「今日はここまでにしよう」と声を掛けた。
レイラは振り返り、少し名残り惜しそうな表情を浮かべながら「はい」と答える。
「分からない単語があればこれで調べて。これは宿題ね。来週までに終わらせておいて」
レイラはページの折られた参考書をミハイルから差し出され、それを宝物のように受け取った。
「はい」
ーー学ぶことがこんなに楽しいとは知らなかった。
知らない文字や単語の意味が分かっていくーー。
ただそれだけで、自分は無敵になれたような気になった。
ミハイルは満足気に笑うレイラを見て、初めて会った日の彼女が脳裏に浮かび、ここまでの笑顔を見せてくれたことに、涙さえ込み上げて来そうになっていた。
人生が変わっていくーーそれはきっとはたから見たらレイラに当てはまる事だろう。
でも心を与えられていくような日々に、ミハイルの方がその変化を大きく感じとっていた。
ミハイルはレイラの頭をひとつ撫でると「じゃあひとまず文字の方はここまでで……レイラ、立って」と声を掛ける。
レイラは振り向きつつ立ち上がると「なにか……?」と首を傾げた。
明後日にはナターシャ夫人がレイラを訪ねてくる。
彼女は愛ある人だが、厳しくもある。
なるべく辛い思いをさせたくなかったミハイルは彼女に、立ち方やお辞儀の仕方。挨拶の仕方までを丁寧に教えた。
まだ若く物覚えの良いレイラはすぐにそれを習得した。
ミハイルは感心しながら、どこか寂しげに微笑む。
「俺は女性のマナーに精通している訳じゃないから、とても信用している方にマナーの先生を頼もうと思う」
「は、はい……」
「そんな不安そうな顔しないで。大丈夫、とても素敵なマダムだから。ーーただもし、何か嫌な事を言われたり、されたりしたらすぐに教えて。ちゃんと変えるから」
「はい、分かりました」
「うん。明後日のお昼にここを訪ねてくると思うから……その日は正装でいた方がいいかもね。ドレスの着方分かりそう?」
「大丈夫、だと思います」
開けられた窓から冷たい空気が流れ込み、レイラは肩をふるわせた。
不安げに窓の方に視線をやるレイラにミハイルはふと気付く。
「あ、長居しすぎたね。そろそろ……帰るよ」
ミハイルがそう言うと、レイラは少しだけ安堵した表情を見せる。
紳士な彼を信じていなかった訳では無いが、完全に信じきれていた訳でもなかった。
窓の外から聞こえる雑踏が徐々に静まり返っていく様に、
ーーもしかしたらーー
という警戒心も存在していた。
しかし、ミハイルが察してくれたことでそれは僅かに薄れ去る。
「俺が帰ったら、必ず窓は閉めるんだよ。鍵もしめてね」
玄関でミハイルは何度もレイラにそう言い聞かせる。
「はい、分かりました」
レイラはその言葉に、こぼれる微笑みが隠しきれず俯いてしまう。
ずっと働いてきたレイラにとって、子供のように心配されることが嬉しかった。
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