ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

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 ミハイルは父と一緒に、事業に関する会議に出席していた。

「それでは……こうで……」
「うん、そこをもう少し詳しく……」
「あ、はい。そうですね……」
「本当に上手くいく確証はあるのかね」
「それは大丈夫です」

 慌ただしく繰り広げられる論議にミハイルは参加出来ずにいた。
 資料を眺める振りをしながら、懐中時計で時刻を確認する。

 ーー14時ーー

 傍からは冷静に見えるようでも、内心気が気ではなかった。

 ナターシャ夫人がレイラの元を訪ねる時刻は14時だと聞いている。
 そろそろアパートへ着いた頃だろうか。
 挨拶は済ませただろうか。
 間違ってもレイラをいじめたりはしていないだろうな。
 あぁもし嫌な思いをさせていたらどうしよう。
 本当は同席したかったが、仕事がある上に、女性同士の学びに男性が入ることはマナー違反だ。
 そこら辺の常識はミハイルもわきまえているつもりだった。
「はぁ」
 思わず深い溜息と共に、手のひらで額を抑える。

 そんな時、ふと息子の様子に疑念を抱いたミハイルの父が、ミハイルに意見を求める。
「ミハイル、お前はどう思う?」
「あ、はい! そうですね……」
 不意に話し掛けられたミハイルは慌てて資料に目を通す。
「えーっと……そうですね。この件においては賛成ですが、いくつか確認……したい事項が、あり……」
「詳しく聞かせてほしい」
「あ、はい……」
 僅かに残しておいた理性を振り絞り、会議に集中したが、ミハイルはその日一日は生きた心地がしなかった。




「こんにちは。レイラさんね」
 玄関扉を開けた先には、黄色いドレスを纏った気品溢れる女性が気丈に立っていた。
 緊張をしていたレイラは肩を強ばらせながら「こ、こんにちは」とぎこちなく頭を下げる。

「そんなに怖がらないで。よろしくお願いしますね」
 ナターシャ夫人は柔く微笑んだ後レイラに手を差し出す。
「はい。よろしく、お願いします」
 その微笑みを恐る恐る見上げながら、レイラはゆっくりと手を握った。

「あ、こちらへ……どうぞ」
 上品な仕草、美しい言葉遣い、ゆったりとした表情、まるで物語から出てきた貴婦人かのようなナターシャを前に、レイラは彼女の目を真っ直ぐ見ることさえ出来なかった。
 初めから朗らかに話しかけてくれたミハイルとは違う。
 ミハイルにも気品はあったし、彼も上流階級の人だと言うのは分かっていたが、こんな息が詰まるような緊張感は抱かなかった。
 それに……何かミハイルには、良い意味での上流階級らしさを感じなかったのだ。

 ナターシャは「ここ、素敵ね~」と巷で人気のアパートを見物しているかのような気持ちで、部屋を見回している。
 レイラだけが張り詰めた空気をかもし出し、ナターシャはこの人気の部屋を借りる事ができたミハイルに関心していた。
「まったくどんな手を使ったのかしら……」
 ナターシャの呟きはミハイルがどうしてこの部屋を借りられたのだろうか、という意味だったが、レイラは勘違いをした。

 こんな小娘がどうしてミハイルのような人に見つけてもらえたのかーーきっと怪訝に感じているに違いない。
 レイラの手は人知れず震えていく。

 レイラはナターシャをリビングに案内をし、二人してソファーに腰掛けた。
 そして嫌な沈黙が二人の間を漂う。
 レイラは表情を強ばらせながら、ただひたすらに今日が終わる事を願っていた。

 ナターシャは水色のドレスをまとうレイラを回し見ては、その体型や顔立ち、まとう雰囲気を吟味していた。
 光に照らされると透き通るように美しい金髪、細い指に白い肌、栗色の瞳は丸く大きく、緊張した面差しも何だか小動物のようで可愛らしい。
 ーー確かに田舎においておくには勿体ないくらいの美人ではある。
 だが、ただそれだけの理由でミハイルが彼女を引き取るわけが無いことをナターシャは知っていた。

 一体彼女の何がミハイルを動かしたのか、ナターシャは湧き上がる好奇心を隠しながら真顔で静かに口を開く。
「それではレイラさん」
「はい!」
「はじめましょうか」
 ナターシャは微笑み、レイラは肩をふるわせた。


 まずナターシャはレイラに立ち方から教えた。
「姿勢はいいのね。それじゃあ立って」
 レイラがソファーから普通に立とうとすれば「違う違う、そうじゃないわ。それではドレスに足が引っかかってしまうでしょう?」とすかさず指導が入る。

 ナターシャはレイラの前で手本を見せながら、根気強くレイラと向き合った。
 レイラもまた、ミハイルの力になりたい一心で真剣に取り組んだ。

「私をミハイルだと思って」
 ナターシャはレイラに腕を差し出す。
「え、ミハイル……?」
「そうよ、ほら」
 戸惑うレイラの手を取って自らの腕に絡ませるナターシャ。
「このまま歩くわよ」
「は、はい」
「レディは紳士のエスコートの元行動するの。男性に恥をかかせないようにするのが私達の役目よ。限りなく相手を尊重し、与えられる親切は全てありがたく頂戴すること」
「は、い」
 足元を見ないよう拙く歩くレイラはただ必死だった。
 しかしそんな様子に気付かないナターシャはふと立ち止まり、驚いたレイラ躓きそうになりながらもナターシャを見た。

「ただし、これは私の持論だけれど。女性だからといって軽んじる男性がいたら、その人は紳士でもなんでもないわ。ただのくそ野郎だから、そういう人は立てなくて結構。ミハイルに告げ口してコテンパンにしてやりなさい」
 レイラは目をぱちくりさせながら言葉をなくしていた。
 まさかナターシャのような貴婦人から「くそ野郎」だなんて言葉を聞くとは思いもしなかったのだ。
「は、はい……! 覚えておきます」
 思い出したように元気に返事をするレイラに、ナターシャも拍子抜けする。
 単に彼女の緊張をほぐし、笑わせてあげたかっただけなのだが。
「ふふ」
 ナターシャは込み上げる笑いを隠すこともせず「絶対よ」と人差し指でレイラの鼻に触れた。

 多少ぎこちなさは残るものの、レイラのひたむきさを見て、近いうちに立派な淑女になるとナターシャが確信をした時だった。


 そうして気付けば夕方になり、レイラはナターシャへのお礼代わりに、手作りのクッキーと共に紅茶を容れた。
「お茶を容れるのは上手なのね。とても美味しいわ」
「ありがとうございます」
 ナターシャから微笑まれたレイラは照れたように俯く。

 こうして見ると、無邪気などこかのお嬢様にしか見えないとナターシャは首を傾げた。
 レイラの生い立ちはミハイルからそれとなく聞いてはいたが、レイラ自身の口から聞きたいと、ふとそう思った。
 手に持っていた紅茶をテーブルに置き、レイラ越しにオレンジ色の窓の外を眺めた後に
「小さい頃は何をしていたの? どんな暮らしを?」
 とナターシャはレイラに聞いた。

「え? ……あの」
 突然の質問に焦るレイラ。
 これもレッスンに含まれているのだろうか、変な事を口にしてしまったらどうしようかと、ことを複雑に考えていたら、ナターシャはそれを察したように口を開く。
「ここではありのままを語ってちょうだい。もし社交の場に出ることがあったら、それをどう言い換えるか私が助けてあげるから。決して卑下しないで。あなたがしてきた経験は、どこの貴族にも出来ないことよ」
「は、はい」

 そしてレイラはミハイルに話した時よりもずっと、ありのままを、ありのままの表情で語った。
 家の状況、家族の性格。兄弟を助けたかったことや、自分のような思いはさせたくなかったこと。
 家が苦しくて、夢や未来という概念さえなくて、ミハイルに会って初めてその気持ちを知ったこと。
 本当に興味を持っている事から、ミハイルに遠慮して言えないこと。
 彼に出会えて感謝はしているけれど、まだこんなに親切な人が果たしてこの世の中にいるのかと疑っていること。

 ナターシャはその全てに耳を傾け、いつの間にか陽は落ちているのに、決してレイラの話を遮らなかった。

 そしてナターシャは腑に落ちるのだ。
 何故ミハイルがレイラを見つけ、そして引き取ったのか。
 幼い頃のミハイルとどこか似ている影を、レイラからは感じた。
 しかし似ているようでミハイルとは違う。
 彼よりももっと強く、そして柔らかく、悲壮感のない意思。
 ーー彼は心の奥底でレイラに憧れているのだろうか。
 彼の理想とする芯がレイラには備わっている気がした。

 そしてナターシャは思うのだ。
 もしこの子が私の元に産まれてきてくれたら、どんな子に育ったのだろうかと。
 ミハイルよりもずっと可愛らしく愛らしいわ。
 不覚にもそんなもしもを想像しては、涙がこみ上げてきそうだった。


 ナターシャは子を宿す事が出来ない身体だった。
 それでも結婚できたのは、ナターシャ自身が高貴な生まれであったことや、容姿が麗しかったことから貰い手が見つかった。
 夫はナターシャの家柄もあって爵位を授かり、心身美しいナターシャの事も愛したが、跡継ぎは別で作った。
 妾に感謝はしているが、心に傷を負っていないといえば嘘になる。

 ーーああ、このような娘が欲しかった。
 ナターシャの表情は哀切に崩れていく。

「よく、頑張りましたね」
「えっ……あ」
 レイラは慌てた。
 気付けばナターシャ夫人の瞳は潤んでいて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 レイラは自分が恵まれていない者だという自覚はあった。
 がしかし、こんな哀れまれるほど可哀想だとも思っていなかったのだ。
 この国でレイラのような人はごまんといる。
 むしろ、ミハイルに見つけてもらえたレイラはとても幸運なのだ。
 ナターシャの心を痛めさせるほど、私は何も頑張ってなどいない。
 うわずる声で、ナターシャを慰めるつもりでこう言った。

「私は頑張ってなどいません。これしか道が用意されていなかっただけで……」
「いいえ、あなたは頑張ったわ……」
 ナターシャは不意に立ち上がるとレイラの前まで歩き泣きそうに微笑んだ後、両手を広げてレイラを優しく抱きしめた。
「……ナターシャ夫人?」
「私に、あなたを支援させてちょうだい」
「えっ」

「何か困ったことがあって、ミハイルにも言えないようなことがあったら、ぜひ私を頼って。何でもするわ。ミハイル、ああ見えて忙しくて仕事人間で、気が利かない所もあるから」
「そ、そうなんですか?」
「そうなのよ。子どもの頃世話したのに、この間訪ねてきたのだって数年ぶりだったんだから。……だから、何かあったら私に言って。いつでも力になる」

 これも裕福な人の道楽のひとつなのだろうか。
 そんな穿った見方をしてしまう自分をレイラは少しだけ恨んだ。
「……ありがとうございます」

 レイラはその時初めてナターシャの目を真っ直ぐ見つめられたような気がした。
 ーー何故こんなにも優しい人たちに囲まれるのだろうか。
 身分も生まれも生きてきた環境も違うのに、何故こんなにも分かり合おうとしてくれるのか。
 もし仮にこの時が全て消え去り、全てが元通りになる日や失望する日が来たとしても、この場でもらった温もりは生涯忘れないと、レイラはそっと誓った。


「次は3日後来るわね。ミハイル早くあなたを観劇に連れて行きたそうだったから」
 ナターシャはレイラの手作りのクッキーを手に、軽い足取りでピーテルのアパートを背にした。
 もう空には星が散らばっていた。






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