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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
赦し Ⅰ
しおりを挟む氷の張った川もまだ溶けぬ寒い日が続く。
しかし窓の外は明るく、凍った川の上に出店が並び始め、街の人々はマースレニツァの準備に明け暮れていた。
そして、レイラの心も嬉々として浮き足立ち、暖かで広いリビングの中、ソファーにも座らず暖炉の前で座り込み、隠しきれぬにやけ顔と共に、家族への手紙を綴っていた。
ママ元気ですか?
私はとても元気です。
ミハイルから文字を教えてもらって、難しい文章も書けるようになったの。
ところで、再来週ピーテルでマースレニツァがあるのだけど、ママとパパ、妹と弟を連れてぜひピーテルに遊びに来て。
一緒に首都のお祭りを楽しみたいわ。
みんなの交通費は私のお小遣いから出すし、お部屋も広いからみんな泊まれるし、とっても楽しみにしてる。
待ってる。
レイラより
「あ~楽しみだわ!」
手紙を胸に抱えながら立ち上がり、瞳を輝かせ声を上げて笑ったレイラ。
そしてそのまま走り出す勢いでアパートを飛び出し、郵便局に手紙を出しにいった。
その日まとっていたのは、いつかミハイルに用意してもらったオーダーメイドの白いドレスだった。
ふんだんにフリルが使われ、艶のある生地は最高級のものであったが、"なにか凄い"ということは分かっても、その本当の価値は知らない。
なにせ生まれて初めて手にしたオーダーメイドのドレスがこれなのだから。
初めて飴玉を口にした子供にも負けず劣らずのこの胸の高鳴り。
本当は今にもスキップでもしたい勢いだったが、それを見たナターシャ夫人に「淑女の振る舞いではありませんよ。凛と歩きなさい」と叱られてしまいそうだったから、せめてもの早歩きで街を抜ける。
その日は、手袋をしていても指先は凍るように寒い日だったが、そんな細かいことは気にならなかった。
夢見た景色の一部に自分も入れるのだ。
例えば今なら、凍った地面の上で滑って転んだとしても平然と立ち上がることが出来るだろう。
上機嫌に微笑みながら街を抜ける美しい少女に、街の紳士淑女の視線は釘付けだった。
白いドレスに映える、その珍しいまでに透き通った黄金色の髪は寒空の陽に照らされ、神々しいとえ感じる。
ーーどこの令嬢だろうか。
とレイラに視線を向ける人達は考えたが、街でも有数の富豪が暮らしていると有名なアパートのエントランスに入っていくのを見ると納得した。
きっとどこかの家門の令嬢が、実家の援助を得て一人暮らしでもしているのだろう。
まさかレイラがピーテルから遠く離れた田舎のルーガで育った娘だとは誰も考えもしなかった。
そして、その1週間後。
待ちに待った返事がルーガに住まうレイラの母、マリーアから届いたーー。
「郵便でーー」
「こんにちは!」
勢いよく扉を開けられた配達員は驚きながらも一通の手紙を差し出す。
「あ、これ、お手紙です」
「どうもありがとう!」
「あ、はい……では」
配達員は僅かに頬を赤らめながら玄関扉を閉めた。
そんな様子にも気が付かないレイラは、すぐに手紙の封を開ける。
「いつかしら。あー、もしかしてもう発っていたりして」
沸き立つ胸を抑えつつ、玄関からリビングに続く廊下をいそいそと歩きながら、便箋を開いた。
「レイラーーい、そが……。ーーえ?」
そして、その足は意図せず止まる。
「……来な、い?」
母は文章を書く事が出来ないため、いつも近所に住む文字を書ける人が代筆をしてくれる。
見知った筆跡で書かれたその返事はーー
レイラ、忙しいから行けません。
寒いから気をつけなさい。
と二言だけだった。
「来ない……。なんで」
いつもなら4.5行は綴ってくれているはずの手紙。
あまりにも素っ気なく、そしてその予想に反した内容に、レイラは立ち尽くしてしまった。
いつもは手紙と共に仕送りをしているけれど、今回はお金を送らなかったからだろうかーー?
いいえ、でも母はそんな人ではない。
ならなぜ……。
本当に忙しかったということだろうか。
思考はぐるぐるとまわり続ける。
まさに、崖から突き落とされたような気分だった。
手紙を持っていた腕をそっと下ろし、とぼとぼと重い足取りで廊下を歩き、リビングまで向かう。
そしてそのままソファーに腰を下ろし、しばらくそこから動くことが出来なかった。
家族に会えない、素っ気ない返事だった、マースレニツァを見られない、そのどれもがレイラの心を落とすものだった。
たったこれだけだと思うかもしれない。
でも、たったこれだけがレイラの確かな幸せであり未来だった。
母が一体どういう気持ちで返事を送ったのか、レイラはとても気にしたが、それを確かめるすべはないことが、更に心に淀みを与える。
どうしようもない。
抗いようもない。
無理だっただけ。
また窓の外から、見ていればいいだけの話ーー。
そう言い聞かせても、それが余計に自分を惨めにさせた。
この傷付いていく思いをどう昇華させればいいのか分からず、レイラの頬からは静かな涙が伝っていく。
そしてそれはやがて、静かな嗚咽へと変わっていった。
1年前とは想像もつかないほど恵まれた環境に身を置いているのに、なぜだか1年前よりもずっと孤独であるような気がした。
高級生地を使ったクッションを胸元に寄せ、広い、広すぎる部屋でレイラはひとり泣いた。
そうして泣き疲れた頃、ふと気付き、顔を上げる。
「あぁーーそう言えば」
今日はミハイルが訪ねてくる日だった。
ミハイルにこの気持ちを打ち明けてみようかーーきっとミハイルなら何とかしてくれるはずーー。
とふと思ったが、それはすぐに心の中で却下された。
「ううん、だめね」
身分が低い者が高い者に弱音を打ちあける時、それは何かを要求することを意味する。
これ以上何をミハイルから与えてもらうというのだろう。
こんなに良くしてもらっているのに、これ以上の弱音や我儘を彼にぶつけることが出来るレイラではなかった。
「あ、顔……何とかしなきゃ。ミハイルが来ちゃう」
レイラは苦笑いを浮かべながら、重い腰を上げ、顔を洗った。
そして机と向き合い、ミハイルが来てくれるのを待った。
きっと彼が来れば楽しい時間を過ごせるから、忘れられるはずーー。
滲んでいく景色を拭いながら、ひたすらに勉強をした。
しかし、その日ミハイルがレイラを訪ねてくることは無かった。
泣き疲れたせいか、勉強に集中していたせいか、いつの間にか机に伏せって眠りに落ちていたレイラ。
ミハイルが来なかった事を知るのは、ふと目覚めた真夜中の事だった。
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