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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
春の訪れ
しおりを挟むまだ冷たい雪が石畳を殺風景に彩っている季節。
だがしかし、確実に雪解けの春は近づいていた。
レイラとミハイルが出会って初めての、春が訪れようとしていた。
この国では春の訪れを祝福する祭りがあった。
それはここピーテルも例外ではない。
東方正教会の祭りのひとつであったが、ミハイルのような熱心な正教徒以外の者も皆その祭りの期間は太陽を象った丸いパンケーキを食べ、冬の終わりを祝うと言う。
レイラは田舎から上京してきて数年は経っていたものの、その間ずっと中心街の居酒屋で働いていたため、ピーテルで行われる春の祭りを実際にまわった事がなかった。
伝統衣装をまとい、友人や家族、恋人たちと祭りを楽しむ人達を横目で見ながら、密かに羨ましく思っていたのだ。
毎週のように行われるミハイルの講義。
最近新規の仕事に追われ、忙しさに取り憑かれていたミハイルは、1時間半の講義を終えた後、30分ほどの雑談をレイラとする事が至福の時だった。
夜も更け、レイラの白く細い指が瞼に伸びると、それは2人の別れの合図となる。
レイラを引き取る時に彼女にした約束通り、ミハイルは時間を引き伸ばす事をせず、あっさりとレイラに背を向け、彼女から出来る限り不安を遠ざけた。
どんなに寒い日であろうと、二人でいる時は小窓を必ず開けたミハイル。
レイラもまたそんな真摯な対応を続けるミハイルを見て、疑っていたことさえ申し訳なくなるのだった。
そしてそんな日々を過ごしながら、その春の祭りも2週間後に迫るとある日のこと。
レイラはミハイルとの別れ際。見送る玄関の前で、思い切って彼に話を切り出した。
「ミハイル……あの、遠出ではないのだけれど」
俯きながら落ち着きが無くなるレイラに、ミハイルはコートを羽織りながら首を傾げた。
「ん? どうしたの?」
「マースレニツァがあるでしょう? 街に出たいのだけど、家族を呼んでも大丈夫ですか?」
コートを羽織るミハイルの手は一瞬止まる。
「あぁ、うん。……もちろん」
目を見開き、驚いた様子を見せるミハイルに逆に驚くレイラ。
「あの、本当に大丈夫ですか? 交通費はお小遣いから出すので……」
「あっ、いいよ。ご家族の分も来週持ってくるよ」
どこがぎこちない笑みにレイラは焦り、ミハイルの前でめいいっぱいに手を振った。
「いえ! 楽しみにしていたのは私なので! 私が貯めたお小遣いで出したいんです!」
「ふふ分かったよ。でも足りなくなったら言うんだよ」
「はい! ありがとう、ミハイル」
レイラはミハイルにチークキスをすると、そっと玄関扉を閉める。
ガチャという音が鼓膜に残り、レイラは僅かに震える手で鍵を閉めた。
そして一回だけ深呼吸をすると、途端に頬は緩み、笑みが込み上げてくるのだ。
「……やった!」
興奮を隠し切れぬ小声をあげたあと、小さくスキップをしながら寝室に入り、大きなベッドにひとり腰掛けた。
レイラにとって、春の訪れを告げるマースレニツァはずっと憧れていた祭りのひとつだった。
レイラが制服をまといピーテルの居酒屋で汗水垂らしながら働いていた時に見ていた鮮やかな祭りの風景は、まるで叶わない世界を目にしているようだった。
田舎とは違う。
都会ならではの煌びやかさ、賑やかさに魅了されていたが、確実に言えることはーー自分はあの中に入ることは出来ない。
正確には、入るために自分の心を犠牲にすることは出来ないーー。
そう思っていた。
レイラの前には一つの線が引かれていて、この先は決して足を踏み入れることは出来ないのだと、そう神様から言われているような気分だった。
誰かのために、家族のためにと生きていて、これから先もずっとその心は変わらないけれど、それでもとても嬉しかった。
ミハイルはたったこれだけでと思うだろう。
だがレイラにとってそれは、荒んだ心に聖水が注がれ、無邪気な子供の頃に帰してくれるような、そんな大きな救いと喜びだった。
叶わない世界を見せてくれた、自分と世界を隔てる線を、ひと時でも消し去ってくれるミハイルに、レイラは手を組み心から感謝をしながら眠りについた。
一方のミハイルはレイラとは違い、肩を落としながらレイラのアパートを後にした。
というのも来週ミハイルは、春の祭りーーマースレニツァを一緒に見に行こうとレイラを誘うつもりでいたのだ。
「自分とも……」と言いかけようか迷ったが、あんなにも遠慮がちに家族を呼びたいと口にされてしまえば、ミハイルには何も言えなかった。
レイラの初めてのお願いごとに自分の願いをかぶせるなど、そんな自分本位なことは出来なかった。
言いつけた宿題は熱心にこなすし、何事も好奇心をもって、知らない世界も純粋な気持ちで知ろうとする。
一生懸命に勉強に取り組むレイラに何か褒美のようなものを与えたくて、誘おうと思ったのだが、なにか別のものを考えなければーー。
しかし、レイラは金品をねだることは愚か、何かを望むことをしない。
最近の子はこんなものなのだろうかーーとも考えたが、ピーテルで暮らすレイラと同い年くらいの少女にレイラのような子はいない事を、街に出る度に思い知っていく。
「はぁ」
額に手を当てながら、ため息は止まらない。
心なしかいつもより吐く息も白い気がしてくる。
思い通りにならないもどかしさに幼少期を思い出し、懐かしささえ感じていた。
しかしそれはいつものような不快な懐かしさではない事は確かだった。
マースレニツァの話しが出る前までは、ミハイルは馬車を使って帰るつもりだったが、頭を冷やすためにも歩いて帰ることにした。
雪が止んだ後の白い通りは人もまばらだった。
ミハイルひとりだけの足跡が、レイラのアパートからガーリン家の邸宅まで続いていく。
俯いてばかりいるのも良くないと、ミハイルはふと上を見上げた。
肌を刺すような冷たい風が街を通り抜け、ミハイルのコートの裾をはためかせた。
「綺麗なんだけどな」
夜空を見上げた時の星々を何故か憎く思うミハイルがいた。
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