ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

赦しⅢ

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「ミハイル見て! あぁ凄い!」
「うん、凄いね」
「あれは何のお祭りなんですか?」
「くつを飛ばすんだ。そうやって来年の運気を占ってる」
「とても鮮やかな花ね。冬にもこんな綺麗な花が売ってるなんて」
「マーガレットと、この木は梅だね」
「うめ?」
「そう、中国からやってきた花木」
「中国……遠いんですか?」
「ここからは遠いかな。でも隣の国だよ。行こうと思えば行ける距離」

「わぁ美味しい! ねミハイルもそう思わない?」
「うん、思うよ」


 無邪気な彼女のひとつひとつの問いかけに、ミハイルは微笑みながら答えた。
 空には天使の梯子がかかり、陽の柱が神秘的なまでに美しく、それは、白いモヤが掛かった幸せな夢の中にいると勘違いをしてしまいそうなほど、煌めいた空間だった。

 幼かったいつか、こんな夢を見ただろうかーー。
 この景色に対して酷く郷愁をそそるのに、溢れ出てくる感情は生まれて初めてのものだった。


 マースレニツァは庶民と同じ格好で楽しもうと二人で決め、ミハイルもレイラも至ってシンプルで質素な格好をしているせいか、二人はとても街に馴染んでいた。
 兄妹、もしくは恋人同士だろうと、誰もがそう思うほどに、二人は自然に言葉を交わしている。


 ピーテルの中心街にかかる川の橋を歩いている途中、レイラは不思議そうにミハイルを見上げた。
「ねぇ、ミハイル」
「ん? なに?」
「あれ……なにをしているんですか?」
「あぁ、あれは……」

 レイラが指を差したのは、凍った川でスケートを楽しむ一般庶民の子供達だった。

「スケート靴の刃で模様を付けているんだよ」
「え? 移動をする訳じゃないの? 氷に模様を描くのって、それってとても偉い人たちの嗜みじゃ」
 口に手をあてて驚くレイラ。
 スケート靴は高級品ということもあって、ルーガでそんな遊びをすれば最後「どんな貴族の真似事だ、さっさと働け」と笑われるのがおちなのだ。
 ミハイルは「……見てみる?」と優しく微笑みかける。
「え、えぇ」

 その後二人は橋の下まで降り、「俺の方が上手い!」と競い合う子供たちを眺めては談笑した。
 しかしふとレイラの子供たちを見つめる表情はどこか真剣で、切なげで、その気持ちを理解できるミハイルは一歩レイラの傍に寄った。

「ここピーテルじゃ誰でも出来るよ。笑われる事でも、特別な事でもない」

 慰めのつもりで言ったわけじゃない。
 慰めたいわけでもなかった。
 ただミハイルはレイラに、自分もその気持ちを理解できる側の人間なのだと、ふと、そうひたすらに伝えたくなった。
 そんな心を知りもしないレイラは、僅かな劣等感と共に俯き笑う。
「ふふ……今、私の事少し可哀想だと思いました?」
「いや! そんなことないよ!」
「感動しているんですよ? 知らないことは知らないままでいた方が私みたいな……人は幸せだと思ってたけど、でも、そんなことないのね。羨ましいって思うだけじゃ、きっとだめで。……何だかミハイルと居る自分が恥ずかしくなっちゃう」

 その泣きそうに微笑む瞳は自分とは似ても似つかないほど透き通っていて、しばらく掛ける言葉を探していた。
 神に置いてけぼりにされたような気持ちになるのと同時に安堵も抱いている自分に気付き、ミハイルは軽く息を吸う。
「レイラは……」

 ーー綺麗だよ。ここに居る誰よりも綺麗だから、そんなに自分を卑下しないでとそう言いたかったミハイル。
 その言葉を飲み込んだのは、下心がない、純粋なまでの本心からの言葉と分かってもらえるか不安だったから。
 苦笑いと共に吐き出す。
「大人過ぎる」
「えっ私が?」
「俺よりずっと若いのに、レイラの方が大人みたいだ」
「それ本気で言ってるんですか? どっからどう見てもミハイルの方が博識で、上品で、余裕があって、身分だってーー」
「はい! それ以上褒めても何も出てこないから、あっち行ってみよう」

 違いを次々と並べ立てられ、一線を引かれる事に堪えられなくなったミハイルはレイラの手を取り駆け出す。

 レイラのまとうシンプルな水色のワンピースの裾と、白いマフラーが冷たい風に揺れ、ミハイルはぎこちなく笑い、レイラはポカンとその手を見つめている。
 二人の心が微かに揺れ始めた時だった。


 このあとミハイルとレイラはスケート靴に履き替え、凍った川に並ぶ出店を楽しんだ。
 帰りは、子供たちが氷に模様を付けていたのをならって、ミハイルはレイラの手を取り、花の模様を共に描き、子供に帰ったかのようにはしゃいだ。

「レイラ上手くないか!?」
「私、才能あるかもしれない」
 ふざけたように目を細めてレイラは笑った。
「とても初めてとは思えないよ」
「ミハイルに褒めていただけるなんて光栄ですわ」
「俺はいつだって褒めてるけどな」




 店に出勤する途中のリーナは、ふと立ち止まる。
 なぜなら、見知った顔が見違えるほど美しい姿で紳士と二人で小さなパンケーキを口にしながら、楽しそうに言葉を交わしていたから。

 ーー生きる世界が違う人同士が純粋に会話をするって、とっても難しい事なのよーー

 レイラに忠告したあの日。
 自らの経験もあるが、本当はそうなって欲しかったから、言っただけだった。
 目を引くほど麗しい容姿の二人に、リーナは戸惑いげに眉を顰める。

 若いのに群れず、誰にも弱音ひとつ吐くことなくひたすら働き家族に仕送りを続けたレイラ。
 どんな富豪の口説き文句にも、どんな芸術家の自慢にも、愛想笑いひとつ返さなかった。
 そんな芯の強い子が富豪の息子ーーミハイルにあんな笑顔を向けるなんて。

 あれが私が得られなかった運命なのだろうか。
 それとも、あの二人も次第に強くなっていく欲に崩れ落ちてしまうのだろうか、私とあの人のようにーー。
 リーナはレイラに見つからないよう、顔を伏せてそそくさとその場を去った。



 レイラのアパートの前。陽も落ちかける頃、幸せだった一日は終わろうとしている。
「ミハイル……今日は、本当にありがとうございました」
「いいんだ。こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
「多分きっと、忘れられない思い出になりました」
 レイラは満足感から満面の笑みで言い切ったものの、それは、来年はミハイルの元にいないーーというような言い草で、ミハイルは不安を覚える。
「来年もまた、行こう」
 ざわめく街の音の中、レイラは微笑み「えぇ。ありがとうございます。それじゃあ……」と、あっさりとミハイルに別れを告げようとする。
 その背中を見せられる感覚に、底知れぬ不安を覚えたミハイルは焦って「あ、レイラ」と思わず声をかけてしまった。
「はい」
 ふと振り向いてくれた姿に言葉を詰まらせると、レイラは肩をすくめながら小さく笑う。
 その、心を隠されたような笑みを瞳に映したミハイルは、ゆっくりと1歩あとずさる。
「おやすみ」
「おやすみなさい。いい夢を」
 ニコッと笑った彼女は一人でアパートの中へと入っていった。






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