ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

赦しの日曜日

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 その日は、正教徒であるミハイルにとっては誰かと共に過ごすべき日であった。
 大切な人と罪を明かし合い、赦し合う、春の訪れを祝う最後の日。

 しかし、毎年のこの日、贔屓にしている教会に通っていたはずのミハイルは、静まり返った自宅内の祭壇の前で跪き、そこから動こうとしなかった。
 イネッサが入ろうとすれば、あと少しだけ一人にさせて欲しいと懇願をした。

 最も信仰を大切にするミハイルが、正教会の決まりを破ってまで一人でいる。
 確かに絶対に守らなければならないほど重要な決まりでもないが、信仰深いミハイルに限って、そのような行いをするなんてイネッサは信じられなかった。

 一体彼が何を考えているのか。
 イネッサの視線は、疑いと焦りへと変わる。

 少しずつ揺れ動くミハイルの心を何とか繋ぎ止めておきたいと思うのは、妻として彼を愛しているからなのだろうか。
 それとも、同じ神を信じている同志だからだろうか。

 一体ミハイルはどんな罪を誰に明かしたのだろう。
 イネッサは爪を噛みながら、扉の前でミハイルを待つ。

 すると、その数分後ガチャと開く扉の音にイネッサは肩を震わせ、噛んでいた爪を隠すように手を下ろし、静かに声を掛けた。
「大丈夫……ですか?」
「あぁ、少し疲れたし、明日も早いから先に休むよ」
 その声は少しやつれていたが、イネッサへの気遣いが込められていた。
 しかしイネッサは焦りから眉を顰める。
「神への信仰は忘れていませんよね? 今日がどんな日か分かっての今日の行動ですよね? どんなに疲れていても、明日が早くても、まっとうな正教徒なら赦しの日曜日は家族と共に過ごすのでは? お義父さまもこの後訪ねてくる予定です」
「父さんが来る時は顔を見せるよ。とにかく……仕事が溜まってるんだ」
「仕事は溜まってるのに、マースレニツァの前半、あの卑しい子と出掛けてましたよね?」
 そう言いきった時、ミハイルの表情は途端に歪みはじめる。

「……レイラは家族と過ごす時間がなかった。マースレニツァの期間、家族とも会えず、窓の外から賑やかな街を眺め続ける日々を送れるか? 俺たちは顔を合わせようと思えば合わせられるだろ」
「ええそうですね。私はあなたの妻ですから」
「なぜそんなに怒ってるんだ。たった一日休みたいだけだ」
「あなたの信仰心が足りないからです! 仕事が忙しいのも、今悩んでいることも全て信仰心や神への感謝の気持ちが足りないからでは?」
「……君がそう思いたいならそう思ってていい。でも、信仰心を強要することは、果たして神の望むことなのか?」
「当たり前です」
「……そうか、少し考え方が違うようだ」
「そうですね、あなたみたいに卑しい子を着飾らせるような真似はしていませんから。いいですね、あの子は正教徒ではありませんから」
 イネッサが怒りに任せてそう声を荒らげた時、ミハイルの指はピクっと僅かに動き、胸が怒りでどうにかなりそうになった。
「イネッサ、それは……」

 ーーイネッサの言葉に、レイラと、亡くなった母親がふと重なるのだ。
 ミハイルの母親は農奴出身であるが故に、365日、休むことなく正妻や親戚たちから陰口を叩かれた。
 彼ら彼女ら崇高な身分を持つ者にとって、本当の母の姿などどうでもいい。
 一生懸命に上流階級のマナーや振る舞いを覚え、それを使えるようになり、懸命な笑顔と愛想を振りまいたとしても、そんな努力は彼らには関係ない。
 自分らの領域に踏み込まれるのが、ただ嫌なだけなのだから。

 ミハイルの母は愛人だったが、レイラはミハイルの愛人ではない。ミハイルが支援している娘にすぎない。
 この言葉をレイラが直接耳に通すことはない。
 しかし、似たような身分を持つレイラに対するその声掛けに、幼い頃のトラウマを刺激されたように吐き気さえ込み上げてきそうだった。

 イネッサがそんな人だとは思わない。
 本気でそう思っていても、ミハイルの声は震え、妻に向けるその瞳は好意的ではなかった。

「君も着飾りたいならそうすればいい。困らない程度の小遣いはあるはずだ。あと……二度と、彼女を卑しい子と呼ばないでくれ」
 そう吐き捨てたあと、ミハイルは心の奥底でくすぶる怒りを押し込めながら、イネッサを残し早足で自室へと向かう。

 ーーあの部屋で一体なにを、どんな心と罪を明かしたのか。それを再度自分に言い聞かせられるほどミハイルは強くなかった。
 それでもミハイルにとっての人生の主軸は神であり、その神に背き続けることはミハイルにとって耐え難い苦痛だった。
 だから、この赦しの日曜日をもって、心を改め、もう二度とそのような想いを抱かないと決めたのに。
 この怒りと胸を覆い尽くす悲しみが、自室に閉じこもるミハイルを俯かせた。


 そして、ひとり残されたイネッサは感情に任せて言ってしまったことを後悔していた。
 そして、夫の前でレイラの名を出さないことを静かに決めた。
 少しずつ小さくなっていく親指と人差し指の爪。
 彼女さえ居ないものと思えば、全て上手くいく。
 それ以外は全て順調に、望んだ未来を歩んでいる。

「私が……悪いのでしょうか。悪いのはあなたでしょう」
 嘲笑と共に、彼に聞こえぬ呟きをミハイルの背中に投げかける。

 イネッサはミハイルからレイラとマースレニツァに出かけると聞いた時、いてもたってもいられずミハイルのあとをつけていた。

 ーーまるで恋に落ちた少年のような笑み。
 それが恋にせよ愛にせよ、情にせよ、好意を持つ者の前ではこんな顔をするのかと、イネッサは驚いた。

 スケートをする事も知らなかった。
 あんなに教え方が上手だとも知らなかった。

 誰が悪いのか、誰かが悪いのか、ミハイルの笑みにも気づかず、彼を淡々とたらしこめたあの娘が悪いのか、それとも……
 そこでイネッサは考えるのをやめた。

 ミハイルが罪に染まっていくように、イネッサの心もまた闇に揺れていく。
 しかし、ふと聞こえてくるバンカのイネッサを呼ぶ声に、イネッサは途端に正気に戻る。

 ああそうだった。私にはこの子がいる――と。

 そうしてまた信仰に取り憑かれていくのだった。




 赦しの日曜日が終われば、雪解けの日が始まる。
 翌日ミハイルはイネッサに謝罪と感謝を告げ、バンカにキスをし、家を出た。
 いつもならばわざとレイラのアパートの前を通って行くのだが、その日は真っ直ぐ職場へと向かった。
 片付いていない書類の山を見ては部下と愚痴を言い合い、父が来たらいそいそと姿勢をただし、真面目を装う。
 そして知り合いを通じて政治家の動向を探り、密かに農奴の人権保護のための活動を行った。
 帰りは教会に寄り、神父の言葉を聞きながら祈りを捧げ、夜はイネッサと食事をとり、今日あった事を報告しあう。
 ――いつもと変わらぬどこか説教じみた互いの言葉。
 なんでもかんでも神と結びつける頑ななイネッサに呆れながらも、家を守ってくれるイネッサへの感謝の言葉は忘れなかった。

 いつもと変わらない日常の中、赦された罪を償おうと取り繕う二人がいた。
 






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