ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

文字の大きさ
22 / 29
ピーテルに消えた雨 Ⅰ

過ぎ去る春と近づく夏

しおりを挟む



 そんな中、レイラはひとり悩んでいた。
 ふとした時にミハイルに心を許しそうになる自分がいることに気づき始めたのだ。
 表情では微笑みながらも、いつも疑いの心は忘れていなかった……はずだった。
 ただ単純に、二人で過ごした時間とミハイルのレイラに対する誠実さが積み重なり、レイラの疑う心が少しずつ溶けていた。

 ミハイルから哀れみを向けられていることは知っているし、ミハイルとレイラの関係が浅いものである事もレイラは理解している。
 これ以上踏み込んではいけない。本来ならば出会うことのない二人なのだから、とーー。
 しかし考えずにはいられないのだ。
 もし、出会い方が違っていたらどのような二人で生きたのだろうかと。


 この優しさが、特別であることを望み始めていた。




 街もすっかり暖かくなり、ミハイルと出会ってから初めての春が訪れた。
 レイラはナターシャ夫人とのレッスンの後、二人でお茶を飲んでいる時に、ふと手を止めて、ややぎこちなくこう聞いてみた。

「ナターシャ夫人」
「なに?」
「ミハイルは……一体どんな人なのでしょうか」
 その笑顔は柔いが、唇は僅かに震えている。
 ナターシャは少し考えた素振りを見せると苦笑いを浮かべた。
「うーん、それは……とても難しいわね。本人に聞いて、と言いたいところだけど、あの子言わなそうだし」
「そう、ですか」
「皆が思っているよりもずっと、努力をしてきた人だと思う。悪い人じゃないことは確かね」
 ナターシャは何かを探るようにレイラに視線をやる。
 そのどこか重暗い様子に、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「ただ……皆が思っているよりもずっと、臆病な子だとも思うわ。行動力もあるし、危なっかしいほどの強い意思もあるけど……ほらあの子、盲目的な正教徒でしょう? ちょっと周りが引いちゃうくらいの。でも、そうしないと生きていけないのよ。……きっと不安で」
 ナターシャはそこで言葉を止め、口を噤んだ。
 どこまでレイラに伝えるか迷ったが、ミハイルが彼女に話していない事は真実ではないと思い、彼の誇りを守る為にも、それ以上は言うことが出来なかった。
 レイラは、気を逸らすように自分が焼いたクッキーに伸ばし「なんだか、私の知ってるミハイルではないみたいですね」と無理やり微笑む。
 含みを持たせる話し方に、自分が聞いてはいけない話だと察したのだ。

「ふふちょっと言い過ぎちゃった。ミハイルには内緒ね。でも私に見せる姿よりも、あなたに見せる姿の方が本当のミハイルかもしれないわ」
「……ふふ、どうでしょうか。私はまだ何も知りませんから」

 一瞬の静けさの間に、ミハイルが用意したドレスの衣擦れの音が部屋に響く。
 拳を握り小さく笑いながら俯くレイラを見て、胸に微かな切なさが灯るナターシャ。
 彼に惹かれてはいけないと、そう言いたいのに、その切なさが何故かレイラを応援したくなった。
「どうかしら。あなたはミハイルしか知らないわ」
「まぁ……そうですね」
「それにしても、あなたが容れた紅茶はとても美味しいわ。もちろんクッキーもね!」
 ミハイルの話から話題を切り替えるナターシャに、もっと聞いていたかったと胸が少し疼くレイラがいた。
 笑い合う間にも少しでもミハイルの事が知れたらとーーそう思わずにはいられなかった。



 そうしてレイラは少しずつミハイルに心を許していくのに、ミハイルは少しずつレイラから遠ざかっていた。
 ミハイルはどんなに忙しくとも週に一度は必ずレイラの元を訪ねてはいたが、約束を交わしていた日に来ないことも増えていった。

 それは、不確かな感情に支配されそうになる自らへの戒めのつもり故の行動だったが、レイラの心に小さな穴を空けている事にミハイルは気付ていない。

「宿題よくやっているね。偉い」
「ありがとうございます。とても楽しくて……ミハイル、次はいつ来ますか?」
「……ちょっと分からないかも。仕事が忙しくて。でも一週間以内には必ず来るよ」
 自分を求めるような、少し不安気なレイラの表情にミハイルの頬は自然と緩む。
 それが感情の変化とも気付かず、ミハイルは薄手のコートを羽織り、レイラはふと暗くなった小窓の外に視線を向ける。

「まだ肌寒いので気を付けて帰ってくださいね」
「うん、ありがとう。レイラも戸締りには気を付けて。変な人は家の中に入れないように」
「はい、では。……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

 ミハイルは軽く手を振りながらレイラに背を向けた。
 その時、一瞬だけ足が動かなくなり、何故か胸がズキンと痛んだ。
 ひと時の懐かしい感覚。モヤが視界を、現実を見えなくさせるような感覚に苛まれる。
 しかしその後すぐ、戸惑いげに足は動き、ゆっくりと階段を下っていった。

 その姿を見送ったレイラは静かに扉を閉め、ため息をつき、扉に額を当てた。


 ここへ来てひとつの季節が過ぎ去っていた。
 居酒屋で働いていた頃とは想像もつかないほど、豪華な調度品に囲まれ、金銭的にも不自由のない、充実した生活を送っているはずなのに、何故か孤独を感じていた。

 ひとりを選ぶことと、ひとりである事は違う。
 レイラは、今の自分は後者である気がしていた。

 ミハイルは出会った当初と何も変わらずレイラに優しく接している。
 心の冷たさなど微塵も見せず、常に笑っていて、常にその手は暖かい。
 それなのに、レイラは寂しかった。

 ミハイルから微かに感じる洗いたての石鹸の香りのせいか、この広いアパートから、賑わう街に出るミハイルを幾度も見送っているせいかーー。
 そうやってレイラの思考はミハイルで埋め尽くされようとしていく。

 家族のこと、居酒屋で働いていた時の同僚や、とても広く、夢のようだと思っていたこのピーテルの街のこと。
 それらがひとつずつ削ぎ落とされていくような感覚があった。

 その感覚を埋めるようにレイラは机と向き合った。
 ミハイルが出した宿題は完璧にこなし、ミハイルが出すどんな問題にも一生懸命に食らいついた。
 最初は文字や単語だけだったその授業も、簡単な政治や数学、文学、天文学、科学的な事まで学ぶようになった。

 ミハイルはそんなレイラを見て、柔軟性があり、とても好奇心旺盛な子なのだと、そう関心していた。
 いつでも笑って、真剣に聞いて、自分の間違いは素直に認め、そして機嫌を崩す事なく、また新しい問いと向き合う。

 それは確かに好奇心もあった。
 新しい世界を知る喜びも確かに存在した。
 しかし、少しでも彼を知りたいという欲もあったから、レイラはここまで素直に学びたいと思えたのだ。


 好きな色が同じ青だと知った日は嬉しくて、青いものを買いに街に出た。
 好きな食べ物が蜂蜜パンだと知った時は、街に蜂蜜を買いに出かけ、蜂蜜入りの料理を沢山作った。

 そうやって寂しかった日常を埋めていた。
 たまに母が田舎から出て、ピーテルのアパートを訪ねる時は、嬉々としてミハイルの話を聞かせた。
 その時は決まって機嫌の悪くなる母がいたが、そんなことは気にしなかった。

 春は過ぎ去り、来たる夏の日に向けてミハイルは忙しくなり、レイラはまた寂しさに胸が覆い尽くされる。
 それでもいつでも笑って出迎えたのは、いつでもミハイルが笑って訪ねてきてくれたからだった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

処理中です...