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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
過ぎ去る春と近づく夏
しおりを挟むそんな中、レイラはひとり悩んでいた。
ふとした時にミハイルに心を許しそうになる自分がいることに気づき始めたのだ。
表情では微笑みながらも、いつも疑いの心は忘れていなかった……はずだった。
ただ単純に、二人で過ごした時間とミハイルのレイラに対する誠実さが積み重なり、レイラの疑う心が少しずつ溶けていた。
ミハイルから哀れみを向けられていることは知っているし、ミハイルとレイラの関係が浅いものである事もレイラは理解している。
これ以上踏み込んではいけない。本来ならば出会うことのない二人なのだから、とーー。
しかし考えずにはいられないのだ。
もし、出会い方が違っていたらどのような二人で生きたのだろうかと。
この優しさが、特別であることを望み始めていた。
街もすっかり暖かくなり、ミハイルと出会ってから初めての春が訪れた。
レイラはナターシャ夫人とのレッスンの後、二人でお茶を飲んでいる時に、ふと手を止めて、ややぎこちなくこう聞いてみた。
「ナターシャ夫人」
「なに?」
「ミハイルは……一体どんな人なのでしょうか」
その笑顔は柔いが、唇は僅かに震えている。
ナターシャは少し考えた素振りを見せると苦笑いを浮かべた。
「うーん、それは……とても難しいわね。本人に聞いて、と言いたいところだけど、あの子言わなそうだし」
「そう、ですか」
「皆が思っているよりもずっと、努力をしてきた人だと思う。悪い人じゃないことは確かね」
ナターシャは何かを探るようにレイラに視線をやる。
そのどこか重暗い様子に、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「ただ……皆が思っているよりもずっと、臆病な子だとも思うわ。行動力もあるし、危なっかしいほどの強い意思もあるけど……ほらあの子、盲目的な正教徒でしょう? ちょっと周りが引いちゃうくらいの。でも、そうしないと生きていけないのよ。……きっと不安で」
ナターシャはそこで言葉を止め、口を噤んだ。
どこまでレイラに伝えるか迷ったが、ミハイルが彼女に話していない事は真実ではないと思い、彼の誇りを守る為にも、それ以上は言うことが出来なかった。
レイラは、気を逸らすように自分が焼いたクッキーに伸ばし「なんだか、私の知ってるミハイルではないみたいですね」と無理やり微笑む。
含みを持たせる話し方に、自分が聞いてはいけない話だと察したのだ。
「ふふちょっと言い過ぎちゃった。ミハイルには内緒ね。でも私に見せる姿よりも、あなたに見せる姿の方が本当のミハイルかもしれないわ」
「……ふふ、どうでしょうか。私はまだ何も知りませんから」
一瞬の静けさの間に、ミハイルが用意したドレスの衣擦れの音が部屋に響く。
拳を握り小さく笑いながら俯くレイラを見て、胸に微かな切なさが灯るナターシャ。
彼に惹かれてはいけないと、そう言いたいのに、その切なさが何故かレイラを応援したくなった。
「どうかしら。あなたはミハイルしか知らないわ」
「まぁ……そうですね」
「それにしても、あなたが容れた紅茶はとても美味しいわ。もちろんクッキーもね!」
ミハイルの話から話題を切り替えるナターシャに、もっと聞いていたかったと胸が少し疼くレイラがいた。
笑い合う間にも少しでもミハイルの事が知れたらとーーそう思わずにはいられなかった。
そうしてレイラは少しずつミハイルに心を許していくのに、ミハイルは少しずつレイラから遠ざかっていた。
ミハイルはどんなに忙しくとも週に一度は必ずレイラの元を訪ねてはいたが、約束を交わしていた日に来ないことも増えていった。
それは、不確かな感情に支配されそうになる自らへの戒めのつもり故の行動だったが、レイラの心に小さな穴を空けている事にミハイルは気付ていない。
「宿題よくやっているね。偉い」
「ありがとうございます。とても楽しくて……ミハイル、次はいつ来ますか?」
「……ちょっと分からないかも。仕事が忙しくて。でも一週間以内には必ず来るよ」
自分を求めるような、少し不安気なレイラの表情にミハイルの頬は自然と緩む。
それが感情の変化とも気付かず、ミハイルは薄手のコートを羽織り、レイラはふと暗くなった小窓の外に視線を向ける。
「まだ肌寒いので気を付けて帰ってくださいね」
「うん、ありがとう。レイラも戸締りには気を付けて。変な人は家の中に入れないように」
「はい、では。……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ミハイルは軽く手を振りながらレイラに背を向けた。
その時、一瞬だけ足が動かなくなり、何故か胸がズキンと痛んだ。
ひと時の懐かしい感覚。モヤが視界を、現実を見えなくさせるような感覚に苛まれる。
しかしその後すぐ、戸惑いげに足は動き、ゆっくりと階段を下っていった。
その姿を見送ったレイラは静かに扉を閉め、ため息をつき、扉に額を当てた。
ここへ来てひとつの季節が過ぎ去っていた。
居酒屋で働いていた頃とは想像もつかないほど、豪華な調度品に囲まれ、金銭的にも不自由のない、充実した生活を送っているはずなのに、何故か孤独を感じていた。
ひとりを選ぶことと、ひとりである事は違う。
レイラは、今の自分は後者である気がしていた。
ミハイルは出会った当初と何も変わらずレイラに優しく接している。
心の冷たさなど微塵も見せず、常に笑っていて、常にその手は暖かい。
それなのに、レイラは寂しかった。
ミハイルから微かに感じる洗いたての石鹸の香りのせいか、この広いアパートから、賑わう街に出るミハイルを幾度も見送っているせいかーー。
そうやってレイラの思考はミハイルで埋め尽くされようとしていく。
家族のこと、居酒屋で働いていた時の同僚や、とても広く、夢のようだと思っていたこのピーテルの街のこと。
それらがひとつずつ削ぎ落とされていくような感覚があった。
その感覚を埋めるようにレイラは机と向き合った。
ミハイルが出した宿題は完璧にこなし、ミハイルが出すどんな問題にも一生懸命に食らいついた。
最初は文字や単語だけだったその授業も、簡単な政治や数学、文学、天文学、科学的な事まで学ぶようになった。
ミハイルはそんなレイラを見て、柔軟性があり、とても好奇心旺盛な子なのだと、そう関心していた。
いつでも笑って、真剣に聞いて、自分の間違いは素直に認め、そして機嫌を崩す事なく、また新しい問いと向き合う。
それは確かに好奇心もあった。
新しい世界を知る喜びも確かに存在した。
しかし、少しでも彼を知りたいという欲もあったから、レイラはここまで素直に学びたいと思えたのだ。
好きな色が同じ青だと知った日は嬉しくて、青いものを買いに街に出た。
好きな食べ物が蜂蜜パンだと知った時は、街に蜂蜜を買いに出かけ、蜂蜜入りの料理を沢山作った。
そうやって寂しかった日常を埋めていた。
たまに母が田舎から出て、ピーテルのアパートを訪ねる時は、嬉々としてミハイルの話を聞かせた。
その時は決まって機嫌の悪くなる母がいたが、そんなことは気にしなかった。
春は過ぎ去り、来たる夏の日に向けてミハイルは忙しくなり、レイラはまた寂しさに胸が覆い尽くされる。
それでもいつでも笑って出迎えたのは、いつでもミハイルが笑って訪ねてきてくれたからだった。
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