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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
心の豊かさ
しおりを挟む帰りも馬車を用意しようかとのミハイルの提案をレイラは断った。
「夜空を見ながら帰りたい! 余韻に浸りたいわ」
と笑って。
月暈が淡く光っている。
今夜の空は雲ひとつなく、星も月も余すことなくその美しさを発揮した。
涼しい夜風がレイラの微かな後れ毛を揺らし、ミハイルは夜空を見上げ、赤い星をぼんやりと眺める。
しかしレイラはふと立ち止まった。
「ね、待ってミハイル」
「ん?」
互いの視線は交わることなく、レイラは冷静につぶやく。
「ちょっと、あそこの屋台でパンを買ってきてほしいんです。お金は私のでいいから」
「え? どういうこと? レイラはーー」
「私は、あそこの路地にいるから」
レイラが指を差したのは薄暗い路地の一角だった。
驚きのあまり、「なんで? だめだ。一人ではいさせられない」と声をうわずらせるミハイル。
「大丈夫。絶対に。お願いだから」
しかしあまりにも懇願するレイラの表情にミハイルは一瞬うろたえた。
「……絶対にそこから離れないで。何かあったら大声あげて。理由は、後でちゃんと聞くから」
「ありがとう」
眉をひそめながら微笑むレイラ。
寒空の下、ミハイルは不安げにレイラに背中を向けた。
レイラは薄暗い路地の一角へと恐る恐る入っていき、ボロ着をまとった少年に近づいた。
少年は肩をすくめながら、真っ白い毛皮を首に巻いた淑女に怯えた様子を見せる。
レイラは苦笑いを浮かべながら、ドレスが汚れることもいとわずしゃがみこんだ。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「今日はいい天気だったみたいね」
「何か……頼みごとですか」
「え?」
「売れる情報なら僕じゃなくてーー」
「何を言ってるの? 違うわ。情報ってなんのこと?」
「それじゃあなんで僕なんかにーー」
少年は眉をひそめ、レイラを睨みつける。
そしてパンを買ってきたミハイルはレイラを見つけるや否や急いで彼女の傍へと駆け寄った。
「レイラ……!」
「ありがとうミハイル」
レイラはパンを受け取り、ミハイルの方を見ようともせず、少年にそれを差し出す。
「どうぞ、これ食べて」
「どうせ僕のこと可哀想とか思ってるんでしょ。金持ちの道楽だ」
「可哀想なんて思ってない。絶対に。私もあなたと同じみたいなものだったから」
少年はレイラの想いなど知らないから、奪い取るようにそのパンを手にした。
レイラはそんな姿の少年に悲しくも、優しく微笑む。
「心までは貧しくならないで」
レイラとミハイルはそのまま少年に別れを告げ、ピーテルの街を歩いた。
ミハイルは「心までは貧しくならないで」とそう言葉にしたレイラの表情が忘れられなかった。
裕福な者が貧しい者に分け与える優しさとは違う、自分の傷を癒すために誰かを助けようとする自分自身とも違う、ミハイルにとって、とても新鮮であり羨むほどの美しさをレイラに感じたのだ。
それはミハイルに希望を運んできた。
「レイラはなにか信仰を?」
「え? あ、しんこう?」
「カトリックやプロテスタントでもない?」
「ん? はい」
「……正教徒では?」
「んーないですよ?」
一体何を言っているのかとレイラは首を傾げる。
「えっと、私がしたいと思ったからそうしただけで……。あんまり神様とかよく分からなくて」
「そっか。なんか強い、な」
そう口にしながら、苦笑いを浮かべながら、心の光が途絶えていく気がした。
分かっている。有り得ない未来だと分かっていても、正教徒の結婚相手は正教徒しか許されない。
同じ信仰を持っていた所でなにが叶う訳でもないが、ミハイル自身、レイラが他人に見せた慈悲を目の前に、正教徒かもしれないと舞い上がりそうになったのは事実だった。
「え? ミハイルは弱いの?」
「レイラが思う何倍も弱いと思う」
「じゃあ私が見ているミハイルは偽物なの? 今日のミハイルはとても頼もしかったわ」
「ありがとう」
「何か分からないけど、どういたしまして」
「……正教徒になるつもりは、無い?」
「ふふ、ないです」
「そっか」
思わずミハイルは夜空を見上げ、無理やり口角を上げた。
星でも見ていないと気分が落ち込みそうだった。
「ミハイルはどうして……信仰を?」
「うーん、家庭教師が正教徒だったんだ。その繋がりでね」
「そうなんですね」
「今もそうなんだけど、当時の自分からみたイエスの存在と教えが、本当に自分の人生を救ったんだ。縋るものがあるだけで、生きていけそうな気がして」
「……縋るもの」
「レイラには少し遠い話かな」
ふっと息をつくように笑ったミハイルはふと隣にいるレイラに視線を移す。
レイラはじっとミハイルを見つめていて、その視線は絡み合う。
「そのお陰で今のミハイルがいるのならば、私も神様に感謝しないとね」
レイラは満面の笑みをミハイルに向けた。
胸の内にあった数多の不安が静まり返るのと同時に、どうしようも無い切なさがミハイルを襲う。
幸せと不幸せが同時に注がれるようなこの感覚は、癖になるような愛おしさだった。
「神様がいるとしたら、レイラは思いっきり好かれそうだな」
「えーそんなことはないと思うわ」
「どうだろうか」
いつの間にか到着していたアパートの前。
別れの時間が迫っていた。
次会えるのはいつになるだろうかーーそんなことを考えていると、美しく着飾った少女がふと振り返りミハイルに笑いかける。
「今日はありがとう。あ違う!」
「ん?」
「今日もありがとうミハイル」
あぁ目を閉じたくなった。
この場から逃げ出したかった。
この狂おしい感情が心に追いつく前に、全ての縁を切ってしまいたくなる衝動に駆られた。
それでもミハイルは平然を装って笑う。
「こちらこそありがとう」
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