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第1章 最初の買収 ― 村を傘下に入れる
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「……安心しろ。この異世界は、俺が全部買い取ってやる」
その言葉は、誓いというより――宣告だった。
死んだはずの俺を迎えに来たのは、天使でも、魔王でもない。
企業の秘書のような者だった。
黒を基調とした端正なスーツ。感情を測るような無機質な微笑。
彼女は淡々と、まるで契約更新の案内でもするかのように、
こう告げたのだ。
――ここは戦場ではない。
――だが、故郷の日本でもない。
血と硝煙に満ちた戦場を抜けた、その瞬間。
世界は、嘘のように静まり返っていた。
肺いっぱいに流れ込む、青い草の香り。頬を撫でる、やわらかな風。
耳に届くのは、爆音ではなく――人の営みの音。
目を開けた二階堂漣司の視界に映ったのは、
石造りの質素な家々が点在する、高原の小さな村だった。
老人は無言で鍬を振るい、子供たちは笑いながら羊を追い、
遥かな空には、翼竜が悠然と円を描いている。
さっきまでいた地獄との落差が、
ここが異世界なのだという事実を、容赦なく突きつけてくる。
漣司は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「交渉開始だ。世界ってやつを――いくらで売ってくれる?」
次の瞬間、脳裏に直接、機械的な声が響いた。
――《スキル発動条件:対象組織を評価中》
――《対象:レンドル村》
――《人口:82人》
――《主要生産資源:小麦、羊、井戸水》
――《現状分析:盗賊団の脅威により自立困難》
――《買収可能性:高》
数字。評価。可能性。
それらは、かつて日本で――
企業買収という名の戦場を生き抜いてきた彼にとって、
あまりにも馴染み深い言語だった。
漣司は、思わず口元を歪める。
「……初仕事ってわけか」
小さな村。だが、ここから始まる。
◇
村の広場へ一歩踏み込んだ、その瞬間だった。
ひどく痩せた老人が、まるで壁になるかのように漣司の前へ立ちはだかる。
背は曲がり、白髪は風に乱れ、握りしめた杖は小刻みに震えていた。
だが何より――その瞳だ。
深く刻まれた皺の奥で揺れる怯えが、
この村が抱え込んできた恐怖の年輪を、雄弁に物語っている。
「旅のお方……ここは危険です……。今は、お引き取りを……」
懇願に近い声。その言葉が最後まで届くことはなかった。
――キィン、と空気を引き裂くような甲高い叫び。
漣司が視線を上げた瞬間、
村を囲む木柵の向こうで、土煙がはぜるように舞い上がった。
現れたのは――盗賊。
粗末な鎧を寄せ集めただけの装備。錆びた剣、欠けた斧、歪んだ槍。
だが数は三十を超え、隊列は無秩序ながらも慣れきっている。
村人が逆らえないことを知り尽くした者の目。
奪うことを前提に世界を見ている、捕食者の眼光。
先頭に立つ大柄な男が、木柵越しに唇を釣り上げた。
「女と食料を差し出せば、命だけは助けてやる!」
その一言は、村にとっては何度も突き付けられてきた絶望の宣告だった。
老人がうめき、村人たちが俯く。
――だが。
漣司は、わずかに口角を上げた。
(なるほど……)
恐怖。圧倒的な武力差。交渉余地ゼロの現場。
――企業買収で、何度も見てきたような展開だ。
脳裏に、見慣れた企業ロゴが一瞬浮かぶ。
反射的にポケットへ手を伸ばすが、
そこにあるはずの携帯端末も、名刺ケースもない。
代わりに、思考の奥で、紙の擦れるような感覚とともに、
契約書のイメージが展開された。
――《オプション発動》
――《臨時子会社化:対象組織を戦闘契約下に編入》
――《報酬:戦果の分配》
漣司は静かに息を吐く。
「……来たな」
次の瞬間。彼の背後で夜そのものが揺らいだ。
影が滲み、空間が裂けるようにして、一人の女が音もなく姿を現す。
黒衣の魔術師。
長く艶やかなダークシルバーの髪が、夜の帳のように背中へと流れ落ちる。
切れ長の瞳は氷の刃のように冷たく、感情の波を一切映さない。
その佇まいだけで空気の温度が一段下がった。
――リュシア・アークライト。
二階堂漣司がこの世界に転生した瞬間に自動的に契約・配置された存在。
最高財務責任者《CFO》
数字、資産、戦力、リスク。
すべてを冷静に算定し、最適解だけを導き出す、最適化された参謀。
リュシアは周囲を一瞥し、淡々と告げた。
「社長。状況を確認しました」
盗賊。村人。地形。距離。
彼女の視線が走るたび、見えない帳簿が更新されていくようだった。
「対象はレンドル村。現在、盗賊団の侵入を受けていますが――
適切な介入により、損害は最小限に抑えられます」
その声には、恐怖も焦りもない。ただ事実と結果だけが並べられている。
リュシアは静かに漣司を振り返った。
「どうなさいますか?」
盗賊の嘲笑。村人の怯え。
すべてを背に受けながら、漣司は一歩、前に出た。
視線は真っ直ぐ、略奪者たちへ。
「決まってる」
低く、しかし迷いのない声。
「最初の買収は、この村だ」
その瞬間、この小さな村は、ただの被害者であることをやめた。
◇
リュシアの瞳が、わずかに細められる。そこに宿るのは興奮でも、畏怖でもない。
――ただ、膨大な計算が起動した合図。
目に見えぬ帳簿が空間に展開され、
戦力、距離、時間、損耗率が無音で走り始める。
その気配だけで、周囲の空気は一段引き締まった。
漣司は、盗賊団の正面へと歩み出た。
木柵越しに並ぶ粗暴な男たちの視線が、一斉に集まる。
剣も鎧も纏わない、異世界ではあまりに場違いなスーツ姿。
嘲りと困惑が入り混じった視線が、漣司を測る。
――だが。
次の瞬間、その空気を粉砕する声が放たれた。
「レンドル村は、二階堂商会の傘下となる!」
漣司の声は、澄んで、低く、よく通った。
戦場に残る怒号や怯えを、真正面から押し流すほどの強度。
「手を出すなら、我が社の利益を侵す行為とみなす!」
「今後、この村に手を出す行為は――
我が社の利益を侵す敵対行為とみなす」
空気が、ひび割れたように震える。
村人たちは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。
盗賊たちは一拍、反応を忘れたまま固まった。
そして数拍遅れて、先頭の盗賊が口を開く。
ぽかんと開いた口元が、やがて歪み、下品な笑みへと変わる。
「……商会? はっ、商会だと?」
嘲笑が広がる。
「ふざけやがって! 一人で何ができる!」
その瞬間、漣司は頭の中で契約を結んだ。
漣司は、ゆっくりと手を掲げる。
現実ではなく――思考の奥で、明確な意思をもって“署名”する。
――《戦闘ユニット起動》
――《子会社:獣人傭兵団『牙の旗』》
――《契約条件:戦果報酬制》
大地が微かに震え、土煙が巻き上がる。
そこに現れたのは、筋骨たくましい獣人戦士たち十余名。
大斧を振りかざし、漣司の背後に整然と並ぶその姿は、
圧倒的な戦闘力と威圧感を放っていた。
盗賊たちの目が見開かれ、息を呑む。
しかし、漣司の背後にはもう一つの静かな恐怖が立ち上がろうとしていた。
リュシアが動く――微動だにせずに、両手をゆっくりと掲げる。
その指先から白く輝く魔力が流れ出し、空気を震わせながら周囲を凍らせる。
冷気が肌を刺すように迫り、呼吸が一瞬、凍りつく。
地面に触れた瞬間、霜が盛り上がり、氷の瘤が瞬時に形成される。
砂塵が氷の光に反射し、細かい粒子が空中で煌めき、戦場全体が白銀に染まる。
盗賊たちは慌てて身をかわす間もなく、
凍てつく地面に足を取られ、表情が凍りつく。
その冷徹な静寂の中で、獣人傭兵たちは息をひそめ、次の瞬間を待ち構えていた
――まるで死神の一団が息を潜めて獲物を狙うかのように。
「――制圧魔法:氷牢《フロストセル》」
凍てつく光の柱が一瞬にして盗賊たちを取り囲む。
悲鳴を上げる暇すら与えず、巨体の頭領格は白銀の氷に絡め取られ、
身動きひとつできなくなる。
残る者たちは恐怖で震え、獣人戦士の斧の一振りと、
リュシアの氷の壁に挟まれ、絶望の叫びを上げながら散り散りに逃げ惑った。
一瞬の静寂が戦場を包む。
風が運ぶ冷気に、残った砂塵が光を反射して、戦場全体が銀白に輝く。
◇
村人たちは息を飲み、膝をついて漣司にひれ伏す。
長老の声は震え、かろうじて言葉が絞り出される。
「……あなたは、我らを救ってくださった」
ひどく痩せた老人が、震える声で問いかける。
恐怖と感謝、そして未来への不安が入り混じった瞳が、漣司を映していた。
「いったい……何者なのですか?」
漣司は、ゆっくりと背筋を伸ばした。血と硝煙の戦場で培われた姿勢。
だが今は、剣を握る将ではなく――契約を司る者として。
胸を張り、低く、静かに、しかし全身に力を宿した声で告げる。
「俺は二階堂漣司。二階堂商会の代表取締役だ。
この村を買収し、守り、育てる。お前たちは今日から社員……
いや、パートナーだ」
その言葉が、世界に落ちた瞬間だった。
――漣司の掌が、淡く、しかし確かな金色に輝き始める。
熱ではない。眩しさでもない。
それは「成立」を告げる、冷静で絶対的な光。
光は脈打つように揺れ、村の空気そのものを張り詰めさせた。
まるで世界が、最後の確認を行っているかのように。
老人――村の代表が、唇を噛みしめ、そして深く頷く。
「……我らは……二階堂商会の庇護を受け入れる……」
その一言が、鍵だった。
金色の光が、弾ける。
風となり、波となり、村の上空へと広がっていく。
畑、家屋、井戸、家畜小屋――
見えない帳簿が次々と浮かび上がり、ページが自動的にめくられていく。
虚偽も誇張もない。
ただ実数だけが、金の数値として再構築されていく。
『――条件確認完了――』
『対象:レンドル村』
『承認:村代表』
重厚な声が、漣司の脳裏――いや、世界そのものから響いた。
『――スキル発動:「企業買収(M&A)」――』
村の中央に掲げられていた古い木札が、軋む音を立ててひび割れ、
その上に、剣と天秤を交差させた二階堂商会の紋章が刻まれていく。
村人たちは誰一人、声を発せない。
ただ、自分たちの立場が、確かに書き換えられた瞬間を見つめていた。
そして、最後に。
――《買収完了。レンドル村を二階堂商会の子会社として登録》
――《資産評価:小麦畑+20、家畜+15、人的資源+82》
――《役員配分:リュシア=CFO、牙の旗=戦闘部門》
光が静かに収束する。
そこに残ったのは、奪われた村ではない。
切り捨てられた弱者でもない。
企業として再定義された共同体だった。
漣司は、まだ呆然とする村人たちを見渡し、静かに言った。
「安心しろ。俺は――価値あるものは、必ず守る」
漣司の胸に、かつて株式市場で味わったあの高揚感が再び流れ込む。
数字が現実に変わり、土地と人、戦力がすべて掌握下にある感覚。――
異世界であっても、それは変わらない、紛れもない支配の実感だった。。
唇がゆっくりと笑みを描く。
市場を飲み込み、企業を次々と子会社化してきたあの時と同じように、
今度は小さな村が、手の中で一つの企業体となった。
漣司は広場に立つ村人に向かって、契約書のように頭の中で条件を提示する。
「まずは役割を決める」
漣司は広場を見渡し、一人ひとりの顔を確かめるように指を走らせた。
「畑を管理する者。家畜を世話する者。――そして、村を守る者」
言葉が置かれるたび、空気が整理されていく。
混乱ではなく、配置図が描かれていく感覚だった。
「全員が、この村の価値を高める社員だ」
その横で、リュシアが静かに一歩前へ出る。
彼女が指先を払うと、淡い光を帯びた帳簿が宙に浮かび、
無数の数式と区分線が流れるように走った。
「人的配置と資源配分を算出しました」
視線は帳簿から離れないまま、淡々と告げる。
「現状比、村の生産効率は五割増を目標に設定。
戦力・食料・労働力――バランスは最適化済みです」
数値が確定した瞬間、帳簿の光が収束する。
村人たちはまだ完全には理解できていない。
だが、漣司の揺るがぬ指示と、リュシアの冷静すぎるほどの論理。
それを目の当たりにし――
ざわめきの底にあった不安が、少しずつ形を変えていく。
恐れは秩序へ。疑念は、静かな信頼へと。
興奮が冷めたその瞬間――
ここで生まれたのは、単なる恐怖や威圧ではなく、
計算された秩序と経済的支配だった。
異世界の村が、一つの企業体として静かに動き始める。
血と魔法と契約書が交錯する世界――
戦いの後に残るのは、経営の論理と戦略だけ。
そして、二階堂商会の異世界経済戦争は、静かに、しかし確実に加速していく。
◇
「……よし。最初の案件は、上々だな」
漣司の独白に応えるように、夜風が旗を打った。
二階堂商会の紋章が、焚き火の火を受けて揺らめく。
リュシアはその横顔を一瞥し、冷ややかな瞳の奥に、わずかな光を宿す。
口元には、計算を終えた者だけが浮かべる微笑。
「社長。次は、どちらへ?」
漣司は村を――いや、この世界を見渡すように視線を上げた。
静かで、揺るぎのない声が、夜に沈む。
「決まってる。
この世界には、村があり、町があり、国家がある」
そして、笑う。
「全部まとめて――俺が、買い叩く」
その瞬間、二階堂商会の旗が大きく翻った。
理解しきれぬまま、それでも何かが始まったと悟った村人たちは、
戸惑いと期待を入り混ぜた歓声を上げる。
小さな村の買収。
それは異世界の地図に刻まれた、ほんの小さな印に過ぎない。
――だが、この一点が、やがて線となり、網となり、
既存の国家秩序を締め上げる巨大企業グループの骨格となる。
戦闘と契約、血と数字、恐怖と期待。
すべてが等価で取引される戦場において、
漣司の瞳だけが、異様なほど冷静だった。
「異世界、か……」
吐息のような呟き。
「なら、話は早い。ここでは――」
一歩、前へ。
「武装法人で行く」
こうして、二階堂漣司による異世界経済戦争は――
まだ序章に過ぎぬこの時、確かに幕を開けた。
その言葉は、誓いというより――宣告だった。
死んだはずの俺を迎えに来たのは、天使でも、魔王でもない。
企業の秘書のような者だった。
黒を基調とした端正なスーツ。感情を測るような無機質な微笑。
彼女は淡々と、まるで契約更新の案内でもするかのように、
こう告げたのだ。
――ここは戦場ではない。
――だが、故郷の日本でもない。
血と硝煙に満ちた戦場を抜けた、その瞬間。
世界は、嘘のように静まり返っていた。
肺いっぱいに流れ込む、青い草の香り。頬を撫でる、やわらかな風。
耳に届くのは、爆音ではなく――人の営みの音。
目を開けた二階堂漣司の視界に映ったのは、
石造りの質素な家々が点在する、高原の小さな村だった。
老人は無言で鍬を振るい、子供たちは笑いながら羊を追い、
遥かな空には、翼竜が悠然と円を描いている。
さっきまでいた地獄との落差が、
ここが異世界なのだという事実を、容赦なく突きつけてくる。
漣司は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「交渉開始だ。世界ってやつを――いくらで売ってくれる?」
次の瞬間、脳裏に直接、機械的な声が響いた。
――《スキル発動条件:対象組織を評価中》
――《対象:レンドル村》
――《人口:82人》
――《主要生産資源:小麦、羊、井戸水》
――《現状分析:盗賊団の脅威により自立困難》
――《買収可能性:高》
数字。評価。可能性。
それらは、かつて日本で――
企業買収という名の戦場を生き抜いてきた彼にとって、
あまりにも馴染み深い言語だった。
漣司は、思わず口元を歪める。
「……初仕事ってわけか」
小さな村。だが、ここから始まる。
◇
村の広場へ一歩踏み込んだ、その瞬間だった。
ひどく痩せた老人が、まるで壁になるかのように漣司の前へ立ちはだかる。
背は曲がり、白髪は風に乱れ、握りしめた杖は小刻みに震えていた。
だが何より――その瞳だ。
深く刻まれた皺の奥で揺れる怯えが、
この村が抱え込んできた恐怖の年輪を、雄弁に物語っている。
「旅のお方……ここは危険です……。今は、お引き取りを……」
懇願に近い声。その言葉が最後まで届くことはなかった。
――キィン、と空気を引き裂くような甲高い叫び。
漣司が視線を上げた瞬間、
村を囲む木柵の向こうで、土煙がはぜるように舞い上がった。
現れたのは――盗賊。
粗末な鎧を寄せ集めただけの装備。錆びた剣、欠けた斧、歪んだ槍。
だが数は三十を超え、隊列は無秩序ながらも慣れきっている。
村人が逆らえないことを知り尽くした者の目。
奪うことを前提に世界を見ている、捕食者の眼光。
先頭に立つ大柄な男が、木柵越しに唇を釣り上げた。
「女と食料を差し出せば、命だけは助けてやる!」
その一言は、村にとっては何度も突き付けられてきた絶望の宣告だった。
老人がうめき、村人たちが俯く。
――だが。
漣司は、わずかに口角を上げた。
(なるほど……)
恐怖。圧倒的な武力差。交渉余地ゼロの現場。
――企業買収で、何度も見てきたような展開だ。
脳裏に、見慣れた企業ロゴが一瞬浮かぶ。
反射的にポケットへ手を伸ばすが、
そこにあるはずの携帯端末も、名刺ケースもない。
代わりに、思考の奥で、紙の擦れるような感覚とともに、
契約書のイメージが展開された。
――《オプション発動》
――《臨時子会社化:対象組織を戦闘契約下に編入》
――《報酬:戦果の分配》
漣司は静かに息を吐く。
「……来たな」
次の瞬間。彼の背後で夜そのものが揺らいだ。
影が滲み、空間が裂けるようにして、一人の女が音もなく姿を現す。
黒衣の魔術師。
長く艶やかなダークシルバーの髪が、夜の帳のように背中へと流れ落ちる。
切れ長の瞳は氷の刃のように冷たく、感情の波を一切映さない。
その佇まいだけで空気の温度が一段下がった。
――リュシア・アークライト。
二階堂漣司がこの世界に転生した瞬間に自動的に契約・配置された存在。
最高財務責任者《CFO》
数字、資産、戦力、リスク。
すべてを冷静に算定し、最適解だけを導き出す、最適化された参謀。
リュシアは周囲を一瞥し、淡々と告げた。
「社長。状況を確認しました」
盗賊。村人。地形。距離。
彼女の視線が走るたび、見えない帳簿が更新されていくようだった。
「対象はレンドル村。現在、盗賊団の侵入を受けていますが――
適切な介入により、損害は最小限に抑えられます」
その声には、恐怖も焦りもない。ただ事実と結果だけが並べられている。
リュシアは静かに漣司を振り返った。
「どうなさいますか?」
盗賊の嘲笑。村人の怯え。
すべてを背に受けながら、漣司は一歩、前に出た。
視線は真っ直ぐ、略奪者たちへ。
「決まってる」
低く、しかし迷いのない声。
「最初の買収は、この村だ」
その瞬間、この小さな村は、ただの被害者であることをやめた。
◇
リュシアの瞳が、わずかに細められる。そこに宿るのは興奮でも、畏怖でもない。
――ただ、膨大な計算が起動した合図。
目に見えぬ帳簿が空間に展開され、
戦力、距離、時間、損耗率が無音で走り始める。
その気配だけで、周囲の空気は一段引き締まった。
漣司は、盗賊団の正面へと歩み出た。
木柵越しに並ぶ粗暴な男たちの視線が、一斉に集まる。
剣も鎧も纏わない、異世界ではあまりに場違いなスーツ姿。
嘲りと困惑が入り混じった視線が、漣司を測る。
――だが。
次の瞬間、その空気を粉砕する声が放たれた。
「レンドル村は、二階堂商会の傘下となる!」
漣司の声は、澄んで、低く、よく通った。
戦場に残る怒号や怯えを、真正面から押し流すほどの強度。
「手を出すなら、我が社の利益を侵す行為とみなす!」
「今後、この村に手を出す行為は――
我が社の利益を侵す敵対行為とみなす」
空気が、ひび割れたように震える。
村人たちは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。
盗賊たちは一拍、反応を忘れたまま固まった。
そして数拍遅れて、先頭の盗賊が口を開く。
ぽかんと開いた口元が、やがて歪み、下品な笑みへと変わる。
「……商会? はっ、商会だと?」
嘲笑が広がる。
「ふざけやがって! 一人で何ができる!」
その瞬間、漣司は頭の中で契約を結んだ。
漣司は、ゆっくりと手を掲げる。
現実ではなく――思考の奥で、明確な意思をもって“署名”する。
――《戦闘ユニット起動》
――《子会社:獣人傭兵団『牙の旗』》
――《契約条件:戦果報酬制》
大地が微かに震え、土煙が巻き上がる。
そこに現れたのは、筋骨たくましい獣人戦士たち十余名。
大斧を振りかざし、漣司の背後に整然と並ぶその姿は、
圧倒的な戦闘力と威圧感を放っていた。
盗賊たちの目が見開かれ、息を呑む。
しかし、漣司の背後にはもう一つの静かな恐怖が立ち上がろうとしていた。
リュシアが動く――微動だにせずに、両手をゆっくりと掲げる。
その指先から白く輝く魔力が流れ出し、空気を震わせながら周囲を凍らせる。
冷気が肌を刺すように迫り、呼吸が一瞬、凍りつく。
地面に触れた瞬間、霜が盛り上がり、氷の瘤が瞬時に形成される。
砂塵が氷の光に反射し、細かい粒子が空中で煌めき、戦場全体が白銀に染まる。
盗賊たちは慌てて身をかわす間もなく、
凍てつく地面に足を取られ、表情が凍りつく。
その冷徹な静寂の中で、獣人傭兵たちは息をひそめ、次の瞬間を待ち構えていた
――まるで死神の一団が息を潜めて獲物を狙うかのように。
「――制圧魔法:氷牢《フロストセル》」
凍てつく光の柱が一瞬にして盗賊たちを取り囲む。
悲鳴を上げる暇すら与えず、巨体の頭領格は白銀の氷に絡め取られ、
身動きひとつできなくなる。
残る者たちは恐怖で震え、獣人戦士の斧の一振りと、
リュシアの氷の壁に挟まれ、絶望の叫びを上げながら散り散りに逃げ惑った。
一瞬の静寂が戦場を包む。
風が運ぶ冷気に、残った砂塵が光を反射して、戦場全体が銀白に輝く。
◇
村人たちは息を飲み、膝をついて漣司にひれ伏す。
長老の声は震え、かろうじて言葉が絞り出される。
「……あなたは、我らを救ってくださった」
ひどく痩せた老人が、震える声で問いかける。
恐怖と感謝、そして未来への不安が入り混じった瞳が、漣司を映していた。
「いったい……何者なのですか?」
漣司は、ゆっくりと背筋を伸ばした。血と硝煙の戦場で培われた姿勢。
だが今は、剣を握る将ではなく――契約を司る者として。
胸を張り、低く、静かに、しかし全身に力を宿した声で告げる。
「俺は二階堂漣司。二階堂商会の代表取締役だ。
この村を買収し、守り、育てる。お前たちは今日から社員……
いや、パートナーだ」
その言葉が、世界に落ちた瞬間だった。
――漣司の掌が、淡く、しかし確かな金色に輝き始める。
熱ではない。眩しさでもない。
それは「成立」を告げる、冷静で絶対的な光。
光は脈打つように揺れ、村の空気そのものを張り詰めさせた。
まるで世界が、最後の確認を行っているかのように。
老人――村の代表が、唇を噛みしめ、そして深く頷く。
「……我らは……二階堂商会の庇護を受け入れる……」
その一言が、鍵だった。
金色の光が、弾ける。
風となり、波となり、村の上空へと広がっていく。
畑、家屋、井戸、家畜小屋――
見えない帳簿が次々と浮かび上がり、ページが自動的にめくられていく。
虚偽も誇張もない。
ただ実数だけが、金の数値として再構築されていく。
『――条件確認完了――』
『対象:レンドル村』
『承認:村代表』
重厚な声が、漣司の脳裏――いや、世界そのものから響いた。
『――スキル発動:「企業買収(M&A)」――』
村の中央に掲げられていた古い木札が、軋む音を立ててひび割れ、
その上に、剣と天秤を交差させた二階堂商会の紋章が刻まれていく。
村人たちは誰一人、声を発せない。
ただ、自分たちの立場が、確かに書き換えられた瞬間を見つめていた。
そして、最後に。
――《買収完了。レンドル村を二階堂商会の子会社として登録》
――《資産評価:小麦畑+20、家畜+15、人的資源+82》
――《役員配分:リュシア=CFO、牙の旗=戦闘部門》
光が静かに収束する。
そこに残ったのは、奪われた村ではない。
切り捨てられた弱者でもない。
企業として再定義された共同体だった。
漣司は、まだ呆然とする村人たちを見渡し、静かに言った。
「安心しろ。俺は――価値あるものは、必ず守る」
漣司の胸に、かつて株式市場で味わったあの高揚感が再び流れ込む。
数字が現実に変わり、土地と人、戦力がすべて掌握下にある感覚。――
異世界であっても、それは変わらない、紛れもない支配の実感だった。。
唇がゆっくりと笑みを描く。
市場を飲み込み、企業を次々と子会社化してきたあの時と同じように、
今度は小さな村が、手の中で一つの企業体となった。
漣司は広場に立つ村人に向かって、契約書のように頭の中で条件を提示する。
「まずは役割を決める」
漣司は広場を見渡し、一人ひとりの顔を確かめるように指を走らせた。
「畑を管理する者。家畜を世話する者。――そして、村を守る者」
言葉が置かれるたび、空気が整理されていく。
混乱ではなく、配置図が描かれていく感覚だった。
「全員が、この村の価値を高める社員だ」
その横で、リュシアが静かに一歩前へ出る。
彼女が指先を払うと、淡い光を帯びた帳簿が宙に浮かび、
無数の数式と区分線が流れるように走った。
「人的配置と資源配分を算出しました」
視線は帳簿から離れないまま、淡々と告げる。
「現状比、村の生産効率は五割増を目標に設定。
戦力・食料・労働力――バランスは最適化済みです」
数値が確定した瞬間、帳簿の光が収束する。
村人たちはまだ完全には理解できていない。
だが、漣司の揺るがぬ指示と、リュシアの冷静すぎるほどの論理。
それを目の当たりにし――
ざわめきの底にあった不安が、少しずつ形を変えていく。
恐れは秩序へ。疑念は、静かな信頼へと。
興奮が冷めたその瞬間――
ここで生まれたのは、単なる恐怖や威圧ではなく、
計算された秩序と経済的支配だった。
異世界の村が、一つの企業体として静かに動き始める。
血と魔法と契約書が交錯する世界――
戦いの後に残るのは、経営の論理と戦略だけ。
そして、二階堂商会の異世界経済戦争は、静かに、しかし確実に加速していく。
◇
「……よし。最初の案件は、上々だな」
漣司の独白に応えるように、夜風が旗を打った。
二階堂商会の紋章が、焚き火の火を受けて揺らめく。
リュシアはその横顔を一瞥し、冷ややかな瞳の奥に、わずかな光を宿す。
口元には、計算を終えた者だけが浮かべる微笑。
「社長。次は、どちらへ?」
漣司は村を――いや、この世界を見渡すように視線を上げた。
静かで、揺るぎのない声が、夜に沈む。
「決まってる。
この世界には、村があり、町があり、国家がある」
そして、笑う。
「全部まとめて――俺が、買い叩く」
その瞬間、二階堂商会の旗が大きく翻った。
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戸惑いと期待を入り混ぜた歓声を上げる。
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――だが、この一点が、やがて線となり、網となり、
既存の国家秩序を締め上げる巨大企業グループの骨格となる。
戦闘と契約、血と数字、恐怖と期待。
すべてが等価で取引される戦場において、
漣司の瞳だけが、異様なほど冷静だった。
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