30 / 92
第参話──九十九ノ段
【拾参】天空
しおりを挟む
「……ねぇ、どうしたのよ一体」
襖に押し付けられた桜子が不満げに声を出した。
早まる呼吸を抑えるように、ハルアキは低い声で命じる。
「絶対に振り向いてはならぬ」
その声色にただならぬものを感じたのだろう、桜子は口を閉ざした。
ふたつの繭は、畳の上でゆらゆらとしばらく揺れた後、ピタリと動きを止めた。
そして、ミシミシと何かを破る音――。
繭の裂け目から現れたのは、黒く細長い脚。
産毛が生えたその脚は、鋭い爪を器用に使い、繭の裂け目を拡げていく。
そこから、ぬるりと現れた頭は既に、人間のものではなかった。
八つの目を怒りに光らせ、牙をガチガチと鳴らしながら、八本の脚で畳に立つ。
縞模様の腹がおぞましいその姿は、巨大な女郎蜘蛛である。
それだけではない。ゾワゾワと迫る嫌な気配に天井を仰げば、和紙の張られた照明部分にびっしりと、黒い影が蠢いていた。
「ヒッ……!」
さすがのハルアキでさえ、鳥肌を禁じ得ない。
その上、天井の隙間から、小蜘蛛がポトン、ポトンと落ちてきて、ゆっくりとこちらに迫ってくるのだ。二匹の大蜘蛛の合図で、飛び掛ってくる気だろう。
……つまり、朱雀で焼き払ったのには、全く意味がなかったのである。
ハルアキは歯軋りした。
――不本意ではあるが、こうなれば、致し方ない。
ハルアキは桜子に小声で囁く。
「――逃げるぞ」
「どうやって?」
桜子の疑問は至極当然だ。襖が開けられない以上、この座敷からは出られない。
――と、突然、襖が勝手に動いた。
部屋中の襖が同時に、バタンと音を立てて敷居を滑る。
だが、出口が現れた訳ではなかった。
そこにあったのは、絵葉書の写真にあった、あの襖絵。
珊瑚にゆるりと腰を掛けた乙姫が、白い肌を露わに艶かしい目を向ける。
そして他の襖にも、子供の姿で見るのは憚られる姿の美女たちが描かれていた。
男女が情を交わすための部屋。
それに相応しい絵柄である。
……だがその艶美な図柄は、無惨に血飛沫で汚されていた。べっとりと生々しく濡れた赤黒い跡が、四面の襖全てを染めている。
ある場所は助けを求めるように手形を引き摺り、ある場所は叩き付けられたような激しい傷を穿ち……。
「…………」
それは、ハルアキの心臓を締め付けた。
これだけの出血がひとりの人間のものだとするならば、命は助からないだろう。
――鯉若という花魁の身に起きた、末路の痕跡なのかもしれない。
ふと部屋に目を戻すと、二匹の大蜘蛛がこちらを見ていた。
……いや、今の顔は、可愛らしい禿である。巨大な女郎蜘蛛の頭の部分だけ、少女のものになっているのだ。
彼女らは口を動かした。
「姐さまを解き放ってくんなまし」
「この蜘蛛の巣の呪いから」
その言葉は弱々しく、泣くように震えていた。
――ハルアキは察した。
この禿たちが彼の前へ姿を現した理由。それは、鯉若に起きた悲劇を伝えるため。
絵に描かれた存在である彼女たちには、助け請う事しかできなかったのだろう。
だがすぐに禿の顔は醜く崩れた。目、鼻、口、耳。穴という穴から黒い脚がざわざわと現れ、紙で作った面を破るように、白い肌を引き裂いていく。
禿の顔から生まれ出た小蜘蛛の群れは、大蜘蛛の脚を伝い畳へ下りると、一目散にハルアキの方へ奔ってきた。
ハルアキは式札を構える。
そして低い声で桜子に言った。
「そなたに頼みがある」
「な、何よ一体?」
「念じよ」
「……何を?」
「この座敷で命を落とした花魁を知る者のところへ行くようにと」
「どういう意味?」
――式神・天空。
晴明の扱う十二天将のうち、姿を持たない特殊な式神である。
その能力は、瞬間移動。
術者の存在を、別の場所へと瞬時に移動させる。
白虎の張った五芒星の結界はまだ生きている。これだけの蜘蛛――呪いの存在がある以上、結界は保っておいた方が良い。
それを壊さず結界外へ出るには、瞬間移動しかないのだ。
……だが、ハルアキはあまりこれを使いたくなかった。精度に難があるためだ。どこへ飛ばされるか分からない。
本来は、術者の望む目的地へと運ぶ能力を持つはずなのだが、どうもうまくいかず、痛い目を見た事が何度もある。
これは彼が安倍晴明であった頃からの事で、霊力がどうこうとは関係ない。単に、相性が悪いのだろう。
特に今宵の彼は、勘が殊更冴えない。
ならば、悪運が強い桜子にその行先を託した方がマシだ。そう彼は考えたのだ。
ハルアキは鋭く命じる。
「余計な事はどうでもいい。とにかく念じよ!」
「わ、分かったわ……」
ハルアキの言葉に気圧されて、桜子はもごもごと念じ始めた。……言葉にする必要はないのだが、まあ良い。
ハルアキは桜子のワンピースをギュッと掴み、迫り来る蜘蛛の群れを睨んだ。
そして、式札に命じる。
「――天空よ、飛ばせ!」
式札が黄金の焔を発した。それは二人の姿をすっぽりと覆う。
蜘蛛たちが動きを止めた。その前で、ハルアキと桜子の体は霧と化す。
――その霧が、風に靡くように霧散すると、後には血塗られた襖だけが残されていた。
襖に押し付けられた桜子が不満げに声を出した。
早まる呼吸を抑えるように、ハルアキは低い声で命じる。
「絶対に振り向いてはならぬ」
その声色にただならぬものを感じたのだろう、桜子は口を閉ざした。
ふたつの繭は、畳の上でゆらゆらとしばらく揺れた後、ピタリと動きを止めた。
そして、ミシミシと何かを破る音――。
繭の裂け目から現れたのは、黒く細長い脚。
産毛が生えたその脚は、鋭い爪を器用に使い、繭の裂け目を拡げていく。
そこから、ぬるりと現れた頭は既に、人間のものではなかった。
八つの目を怒りに光らせ、牙をガチガチと鳴らしながら、八本の脚で畳に立つ。
縞模様の腹がおぞましいその姿は、巨大な女郎蜘蛛である。
それだけではない。ゾワゾワと迫る嫌な気配に天井を仰げば、和紙の張られた照明部分にびっしりと、黒い影が蠢いていた。
「ヒッ……!」
さすがのハルアキでさえ、鳥肌を禁じ得ない。
その上、天井の隙間から、小蜘蛛がポトン、ポトンと落ちてきて、ゆっくりとこちらに迫ってくるのだ。二匹の大蜘蛛の合図で、飛び掛ってくる気だろう。
……つまり、朱雀で焼き払ったのには、全く意味がなかったのである。
ハルアキは歯軋りした。
――不本意ではあるが、こうなれば、致し方ない。
ハルアキは桜子に小声で囁く。
「――逃げるぞ」
「どうやって?」
桜子の疑問は至極当然だ。襖が開けられない以上、この座敷からは出られない。
――と、突然、襖が勝手に動いた。
部屋中の襖が同時に、バタンと音を立てて敷居を滑る。
だが、出口が現れた訳ではなかった。
そこにあったのは、絵葉書の写真にあった、あの襖絵。
珊瑚にゆるりと腰を掛けた乙姫が、白い肌を露わに艶かしい目を向ける。
そして他の襖にも、子供の姿で見るのは憚られる姿の美女たちが描かれていた。
男女が情を交わすための部屋。
それに相応しい絵柄である。
……だがその艶美な図柄は、無惨に血飛沫で汚されていた。べっとりと生々しく濡れた赤黒い跡が、四面の襖全てを染めている。
ある場所は助けを求めるように手形を引き摺り、ある場所は叩き付けられたような激しい傷を穿ち……。
「…………」
それは、ハルアキの心臓を締め付けた。
これだけの出血がひとりの人間のものだとするならば、命は助からないだろう。
――鯉若という花魁の身に起きた、末路の痕跡なのかもしれない。
ふと部屋に目を戻すと、二匹の大蜘蛛がこちらを見ていた。
……いや、今の顔は、可愛らしい禿である。巨大な女郎蜘蛛の頭の部分だけ、少女のものになっているのだ。
彼女らは口を動かした。
「姐さまを解き放ってくんなまし」
「この蜘蛛の巣の呪いから」
その言葉は弱々しく、泣くように震えていた。
――ハルアキは察した。
この禿たちが彼の前へ姿を現した理由。それは、鯉若に起きた悲劇を伝えるため。
絵に描かれた存在である彼女たちには、助け請う事しかできなかったのだろう。
だがすぐに禿の顔は醜く崩れた。目、鼻、口、耳。穴という穴から黒い脚がざわざわと現れ、紙で作った面を破るように、白い肌を引き裂いていく。
禿の顔から生まれ出た小蜘蛛の群れは、大蜘蛛の脚を伝い畳へ下りると、一目散にハルアキの方へ奔ってきた。
ハルアキは式札を構える。
そして低い声で桜子に言った。
「そなたに頼みがある」
「な、何よ一体?」
「念じよ」
「……何を?」
「この座敷で命を落とした花魁を知る者のところへ行くようにと」
「どういう意味?」
――式神・天空。
晴明の扱う十二天将のうち、姿を持たない特殊な式神である。
その能力は、瞬間移動。
術者の存在を、別の場所へと瞬時に移動させる。
白虎の張った五芒星の結界はまだ生きている。これだけの蜘蛛――呪いの存在がある以上、結界は保っておいた方が良い。
それを壊さず結界外へ出るには、瞬間移動しかないのだ。
……だが、ハルアキはあまりこれを使いたくなかった。精度に難があるためだ。どこへ飛ばされるか分からない。
本来は、術者の望む目的地へと運ぶ能力を持つはずなのだが、どうもうまくいかず、痛い目を見た事が何度もある。
これは彼が安倍晴明であった頃からの事で、霊力がどうこうとは関係ない。単に、相性が悪いのだろう。
特に今宵の彼は、勘が殊更冴えない。
ならば、悪運が強い桜子にその行先を託した方がマシだ。そう彼は考えたのだ。
ハルアキは鋭く命じる。
「余計な事はどうでもいい。とにかく念じよ!」
「わ、分かったわ……」
ハルアキの言葉に気圧されて、桜子はもごもごと念じ始めた。……言葉にする必要はないのだが、まあ良い。
ハルアキは桜子のワンピースをギュッと掴み、迫り来る蜘蛛の群れを睨んだ。
そして、式札に命じる。
「――天空よ、飛ばせ!」
式札が黄金の焔を発した。それは二人の姿をすっぽりと覆う。
蜘蛛たちが動きを止めた。その前で、ハルアキと桜子の体は霧と化す。
――その霧が、風に靡くように霧散すると、後には血塗られた襖だけが残されていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。