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第伍話──箪笥
【肆】深川ノ宵
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――翌日。
人力車を降りた二人は、歴史ある花街の賑わいを目の当たりにして足を止めた。
時は宵。最も花街が賑わいを見せる時刻である。格子窓が軒を連ねる通りには多くの男達が行き来し、黄色い声と三味線の音が夜闇を払うかのようだ。
その妖しさに気圧されたのか、桜子が零に囁いた。
「昼間でも良かったんじゃないの?」
「いや、昼間にこういう場所をウロウロしていては警戒されてしまいます――それに、今日は桜子さんではなく『梅吉』ですよ」
そう言われ、彼女は頭をふわりと覆う、ブカブカのキャスケット帽に手を当てた。
「へ、へい……若旦那」
慶司のアリバイを崩すには、証人、もしくは証人が嘘を言っていると知る者に接触するしかない。とはいえ、露骨に聞き回っても警戒されるだけだ。花街というのは、秘密が色濃く渦巻く場所。そのため、零は「若手役者」、桜子は「付き人」に扮し、客として潜り込もうというのである。
地味な縞の着物で風呂敷を抱えた桜子は、だが落ち着かない様子でキョロキョロしている。
「バレないかしら」
「大丈夫ですよ。こういう場所では、他の客の顔など見てはいません……さ、行きますよ」
格子窓から漏れる明かりに照らされた路地に、零が懐手に雪駄を踏み出すと、おっかなびっくり桜子も従った。
選り惑う客の往来を、呼び込みの若い衆、そして格子窓から流れる芸者の長唄が引き止める。薄塗りの美貌に黒の羽織の彼女らは、粋を絵に描いたような張りのある手付きで三味線を鳴らす。
深川界隈の「辰巳芸者」は、そんな気風の良さが売りだった。だが、かつての勢いを失った今、そうも言っておられないとみえ、
「ねえ、若旦那、遊んで行きなよ」
と、遊女が腕を引いてくる。だが零は無下にせず、代わりにこう尋ねた。
「この辺りで一番格式が高いのは何処です?」
「ああ……辰巳屋だね」
遊女はつまらなそうにそう答え、他の客へ声を掛けに行った。
その背を見送り、桜子は零の袖を引っ張った。
「どうしてそこに、慶司さんのお相手がいたと思うの?」
「あれだけ内向的な方です。一人で深川なぞに来るとは考えにくい。最初は誰かと一緒だったでしょう。なら誰と来たか――性格上、知人友人という線も薄そうです。お父君か、お父君に関わりのある方と考えるのが妥当でしょう。となれば、仮にもお公家様です。世間体もありますし、品川で最も信頼の置ける店を選んだだろうと」
「なるほどね……たまには探偵らしい事を言うじゃない」
桜子に小突かれ、零は咳払いをする。
「私は役者ですよ、梅吉」
「……へ、へぇ、も、申し訳ありやせん」
辰巳屋は、深川の花街の奥まった場所に位置する。丁字路の正面に垂れる暖簾を挟んだ格子窓では、年増の芸者がしっとりと長唄を鳴らし、通りのかしましさとは無縁な情緒を醸していた。
「御免ください」
零が暖簾を潜ると、だがすぐさま、老練の女将に引き留められた。
「すいませんねぇ、生憎、うちは紹介がないとお通しできないんですよ」
すると零は、「これはうっかり」と、芝居がかった所作で額をポンと叩く。
「お師匠からそう聞いておりました。芸者遊びも芸のこやしと気が逸ってしまいました」
女将は目を細め、疑り深そうな目を零に向けた。
「お師匠と申されますと?」
「俥屋幻九郎です、歌舞伎役者の」
「おや……」
女将は零の顔をまじまじと見上げる……その表情がみるみる解れていくのを、零の一歩後ろに立つ桜子は唖然と見ていた。
「言われてみれば、どこかでお見掛けしたような」
俥屋幻九郎といえば、当代きっての男前と人気の役者だ。女性的で柔和な優男なのだが、長身から伸びた長い手足で切る見得が美しいと評判なのだ。と同時に、人気役者にありがちな、女遊びの派手さでも有名である。ここは歌舞伎座や京橋からも遠くない。きっと贔屓にしているはず……と、零は予想したのだが、図星だったようだ。
簡単に通されないのは百も承知。だが己の美貌を利用すれば、嘘が通用しないものかという作戦だ。
零はにこやかに女将を見下ろす。
「女形の見習い中でして、役作りに一流の芸を見てこいと、お師匠に言われたものですから」
零がそう返すと、女将は察した風に頷いて、
「ようございます、お入りくださいまし」
と、彼を奥へと導いた。うまくいったようだ。
呆気に取られつつ、桜子も後に続こうとする。しかし近くの芸者に、
「坊主がどこ行くんだい」
と足止めされた。零も振り向き、
「梅吉はそこで待ってなさい」
と言うものだから、桜子は「へぇ……若旦那」と口を尖らせた。
◇
零が通された座敷は、渡り廊下で繋がった離れになっていた。
この座敷だけが特別な訳ではない。政界財界、はたまた爵位や勲位を持つような男たちの社交の場であるため、互いに顔を見られないよう、全館がそういう造りになっているのだ。
今が盛りの芍薬が活けられた床の間の前に零が腰を据えると、女将は酒膳を手についてきた芸者を紹介した。
「芸事の参考になるか分かりませんが、この駒吉は踊りが達者でございますので」
女将はそう言い、三つ指を付いて退出した。
駒吉という芸者は、この界隈では年増な方だろう。黒羽織に渋い色目の着物が落ち着きと粋さを感じさせる。
彼女は座敷に膝を付き深々と頭を下げた後、キリッとした目を零に向けた。
「よくお客とあちこち芝居は観に行くけど、見ない顔だね」
駒吉はズケズケと言う方らしい。零は首を竦めた。
「まだまだひよっこですので……とりあえず、一杯いただけませんか」
あいよ、と腰を浮かし、駒吉は零の側へ寄る。そしてお猪口に酌をして横目を向ける。
「――何が目的だい? あんたみたいな年増なひよっこがいるもんかい」
さすが一流の芸者。人を見る目に間違いはない。零は冷や汗を誤魔化すようにお猪口を空けた。
「実を言いますと……人を探しています」
「人探しは余所でやっとくれ。ここは訳アリ者の集まりなんだよ」
駒吉はそう撥ねつけたものの、零にじっと見つめられると、軽く頬を上気させて息を吐いた。
「……ッたく、芸者よりもタチが悪いね、その顔は。で、誰を探してんだい?」
「妹です。行方を断ってしまった妹を探しています」
零も一応探偵だ。手の内の探り合いは心得ている。真の目的を明かせば口を噤んでしまうに違いないと、咄嗟に出任せで誤魔化した。
かたや駒吉は、しばらく怪しむように零を見返していたが、信用したのか諦めたのか、お銚子を傾け零の手のお猪口を満たした。
「なんて名だい?」
「お春と言います。今は何と名乗っているかは知りません。容貌も変わっているでしょうし。去年の秋までは、ここ深川で芸者をしていたらしいと聞いていたのですが、それっきり……」
当然、「お春」というのはデタラメだ。芸者など水商売の女が素性を明かさないのは珍しくないため、何とでも誤魔化せる。
去年の秋というのは、久世伯爵がその芸者を追い出したのに矛盾のない時期である。来月には赤子が産まれるというのだから、逆算すれば秋頃までは深川に居り、慶司と会っていたに違いないのだ。
零は眉間を筋立て酒を呷った。
「妹は連絡を断つ少し前、結婚すると言っていました。年端も行かない小娘です、悪い客に騙されてやしないかと心配していたら、案の定……。妹はとても気の優しい奴で、病のお袋のために金がいるから芸者になる、なに、深川の姐さんたちは嫌な人がいないから心配するこたァないと言って、家を出てったのに……」
駒吉は軽く眉を釣り上げてから目を伏せた。
「客と芸者の色恋沙汰はご法度なんだよ」
その仕草は、言いたい事があると察するに十分だった。しめたとばかりに、だが内心を悟られないよう、零は身を乗り出す。
「妹を、お春を、ご存知なので?」
「もし、あんたの言う妹ってのが、あたしが可愛がってた後輩ならね」
彼女は言った。確かにここ辰巳屋に、去年の秋に姿を消した若い芸者がいたと。
「とある伯爵様の御曹司にぞっこんでね。夫婦になると言うから、やめときなと口を酸っぱくして言ったんだけど」
お猪口を差し出しつつ零は尋ねる。
「で、二人は夫婦に?」
「うまくいくモンかい……さっき言ったろ、客と芸者の色恋沙汰はご法度なんだよ。伯爵様がこの花街の顔役に釘を刺してね。あの子、店を辞めてそれっきり。去年の十月さ」
久世夫人の話と合致する。駒吉の後輩というのが、まず慶司の相手であるに違いないだろう。
その上、久世夫人が零に伝えるのを憚ったとみえる内情を、この駒吉は知っていた。
「その御曹司、どうにも気が弱い性質でね。家から出た事もない箱入り息子さ。世間擦れしてないって言うか、脛かじりと言うか。女も知らないようじゃ一人前にゃなれないと、父親がここに連れて来たんだよ。呆れたね、あたしは……でも、あの子は違った」
よほど仲が良かったのだろう。駒吉は遠い目をして肩を落とす。
「芸者ってンのは、男の見栄を持ち上げて、欲を満たしてやるのが仕事なんだよ。見栄と欲の化かし合い……毎日が戦みたいなモンさ。神経をすり減らして病んじまう子も多いんだよ。あの子もそうだった。そこにフラッと来た初心な御曹司の素直さに、ホッとしちまったんだろうね。コロッと落ちちまったんだ」
それから駒吉は、傾げた首を零に向けた。
「あの子、よく言ってたよ――彼は私に似てるって」
「それは、どういう事で?」
「あたしらなんかは、こんな界隈にいるモンだから、身の自由なんてありゃしない。彼の方も、常に伯爵家に相応しい振る舞いをしなきゃならないからね。お父上が厳しい方で、お家の体裁を何よりも重んじるから、自分の思い通りになったことがないみたい。あの子はそれを、『可哀想』と同情してたよ」
まぁ、あたしから見れば、甘えにしか見えないけどね……と、駒吉は辛辣だ。
「あの子、あの御曹司にゾッコンだったけど、あれは惚れてんじゃなくて、同情してるだけ。けど、若いモンにはその違いが分からなかったみたいでね……」
駒吉は軽く首を横に振った。
「心から惚れてると思い込んでたよ」
「その人は、いい人だったんですか」
「まさか。芯のある男だったら、あの子が追い出されるような事にゃならないさ」
駒吉はよほど腹に据えかねているとみえる。憤りを隠しもせずに言葉を荒げた。
「ッたく、身分のある奴ァそういうモンさ。女を犬か猫くらいにしか見ちゃいない。都合が悪くなりゃポイさ……酷いモンだったよ」
そんな例は、この界隈では珍しくないのだろう。零は不憫に思いつつも、もう少し聞き出せないかと考えた。
妹思いの兄を装い、彼女の手を握って目を合わせる。
「妹は、どこへ行くか言ってませんでしたか? 何でもいいんです。教えてください、お願いします」
すると駒吉は熟れた手付きで零の手を外し、
「あたしも貰っていいだろ」
と、お膳のお猪口に手酌した。
「どこに行くとは言ってなかったけど、親しくしている人がいるって話はしてたねぇ」
「誰ですか、それは?」
「水天宮の人形師と言ってたよ」
「人形師?」
零は眉を顰める。それを横目に、駒吉は酒をちびりと舐めた。
「実を言うと、あの子、身篭っててね……無事にいけば、そろそろ産まれておかしくない頃だよ。安産祈願に水天宮に出掛けた時に、近くで人形を作ってるって、何度か屋敷に招かれたらしいよ」
身重の芸者と水天宮と人形師……。
深川を離れた後、すぐに慶司がその身を引き取ったものと思っていたのだが、思わぬ人物の登場に、零は戸惑った。
「ここを辞めた後、子爵の御曹司でなく、その人のところに身を寄せたと」
「さあ、そこまで知らないけどね。でも、あんな別れ方をさせられたんだ。男を頼りゃしないよ」
駒吉の言い分は尤もだ。零は彼女のお猪口に酌をする。
「――で、彼女の芸名は?」
すると駒吉は手を止め、遠くを見る目付きをした。
「玉奴――ここじゃ、お玉ちゃんと呼んでたよ」
人力車を降りた二人は、歴史ある花街の賑わいを目の当たりにして足を止めた。
時は宵。最も花街が賑わいを見せる時刻である。格子窓が軒を連ねる通りには多くの男達が行き来し、黄色い声と三味線の音が夜闇を払うかのようだ。
その妖しさに気圧されたのか、桜子が零に囁いた。
「昼間でも良かったんじゃないの?」
「いや、昼間にこういう場所をウロウロしていては警戒されてしまいます――それに、今日は桜子さんではなく『梅吉』ですよ」
そう言われ、彼女は頭をふわりと覆う、ブカブカのキャスケット帽に手を当てた。
「へ、へい……若旦那」
慶司のアリバイを崩すには、証人、もしくは証人が嘘を言っていると知る者に接触するしかない。とはいえ、露骨に聞き回っても警戒されるだけだ。花街というのは、秘密が色濃く渦巻く場所。そのため、零は「若手役者」、桜子は「付き人」に扮し、客として潜り込もうというのである。
地味な縞の着物で風呂敷を抱えた桜子は、だが落ち着かない様子でキョロキョロしている。
「バレないかしら」
「大丈夫ですよ。こういう場所では、他の客の顔など見てはいません……さ、行きますよ」
格子窓から漏れる明かりに照らされた路地に、零が懐手に雪駄を踏み出すと、おっかなびっくり桜子も従った。
選り惑う客の往来を、呼び込みの若い衆、そして格子窓から流れる芸者の長唄が引き止める。薄塗りの美貌に黒の羽織の彼女らは、粋を絵に描いたような張りのある手付きで三味線を鳴らす。
深川界隈の「辰巳芸者」は、そんな気風の良さが売りだった。だが、かつての勢いを失った今、そうも言っておられないとみえ、
「ねえ、若旦那、遊んで行きなよ」
と、遊女が腕を引いてくる。だが零は無下にせず、代わりにこう尋ねた。
「この辺りで一番格式が高いのは何処です?」
「ああ……辰巳屋だね」
遊女はつまらなそうにそう答え、他の客へ声を掛けに行った。
その背を見送り、桜子は零の袖を引っ張った。
「どうしてそこに、慶司さんのお相手がいたと思うの?」
「あれだけ内向的な方です。一人で深川なぞに来るとは考えにくい。最初は誰かと一緒だったでしょう。なら誰と来たか――性格上、知人友人という線も薄そうです。お父君か、お父君に関わりのある方と考えるのが妥当でしょう。となれば、仮にもお公家様です。世間体もありますし、品川で最も信頼の置ける店を選んだだろうと」
「なるほどね……たまには探偵らしい事を言うじゃない」
桜子に小突かれ、零は咳払いをする。
「私は役者ですよ、梅吉」
「……へ、へぇ、も、申し訳ありやせん」
辰巳屋は、深川の花街の奥まった場所に位置する。丁字路の正面に垂れる暖簾を挟んだ格子窓では、年増の芸者がしっとりと長唄を鳴らし、通りのかしましさとは無縁な情緒を醸していた。
「御免ください」
零が暖簾を潜ると、だがすぐさま、老練の女将に引き留められた。
「すいませんねぇ、生憎、うちは紹介がないとお通しできないんですよ」
すると零は、「これはうっかり」と、芝居がかった所作で額をポンと叩く。
「お師匠からそう聞いておりました。芸者遊びも芸のこやしと気が逸ってしまいました」
女将は目を細め、疑り深そうな目を零に向けた。
「お師匠と申されますと?」
「俥屋幻九郎です、歌舞伎役者の」
「おや……」
女将は零の顔をまじまじと見上げる……その表情がみるみる解れていくのを、零の一歩後ろに立つ桜子は唖然と見ていた。
「言われてみれば、どこかでお見掛けしたような」
俥屋幻九郎といえば、当代きっての男前と人気の役者だ。女性的で柔和な優男なのだが、長身から伸びた長い手足で切る見得が美しいと評判なのだ。と同時に、人気役者にありがちな、女遊びの派手さでも有名である。ここは歌舞伎座や京橋からも遠くない。きっと贔屓にしているはず……と、零は予想したのだが、図星だったようだ。
簡単に通されないのは百も承知。だが己の美貌を利用すれば、嘘が通用しないものかという作戦だ。
零はにこやかに女将を見下ろす。
「女形の見習い中でして、役作りに一流の芸を見てこいと、お師匠に言われたものですから」
零がそう返すと、女将は察した風に頷いて、
「ようございます、お入りくださいまし」
と、彼を奥へと導いた。うまくいったようだ。
呆気に取られつつ、桜子も後に続こうとする。しかし近くの芸者に、
「坊主がどこ行くんだい」
と足止めされた。零も振り向き、
「梅吉はそこで待ってなさい」
と言うものだから、桜子は「へぇ……若旦那」と口を尖らせた。
◇
零が通された座敷は、渡り廊下で繋がった離れになっていた。
この座敷だけが特別な訳ではない。政界財界、はたまた爵位や勲位を持つような男たちの社交の場であるため、互いに顔を見られないよう、全館がそういう造りになっているのだ。
今が盛りの芍薬が活けられた床の間の前に零が腰を据えると、女将は酒膳を手についてきた芸者を紹介した。
「芸事の参考になるか分かりませんが、この駒吉は踊りが達者でございますので」
女将はそう言い、三つ指を付いて退出した。
駒吉という芸者は、この界隈では年増な方だろう。黒羽織に渋い色目の着物が落ち着きと粋さを感じさせる。
彼女は座敷に膝を付き深々と頭を下げた後、キリッとした目を零に向けた。
「よくお客とあちこち芝居は観に行くけど、見ない顔だね」
駒吉はズケズケと言う方らしい。零は首を竦めた。
「まだまだひよっこですので……とりあえず、一杯いただけませんか」
あいよ、と腰を浮かし、駒吉は零の側へ寄る。そしてお猪口に酌をして横目を向ける。
「――何が目的だい? あんたみたいな年増なひよっこがいるもんかい」
さすが一流の芸者。人を見る目に間違いはない。零は冷や汗を誤魔化すようにお猪口を空けた。
「実を言いますと……人を探しています」
「人探しは余所でやっとくれ。ここは訳アリ者の集まりなんだよ」
駒吉はそう撥ねつけたものの、零にじっと見つめられると、軽く頬を上気させて息を吐いた。
「……ッたく、芸者よりもタチが悪いね、その顔は。で、誰を探してんだい?」
「妹です。行方を断ってしまった妹を探しています」
零も一応探偵だ。手の内の探り合いは心得ている。真の目的を明かせば口を噤んでしまうに違いないと、咄嗟に出任せで誤魔化した。
かたや駒吉は、しばらく怪しむように零を見返していたが、信用したのか諦めたのか、お銚子を傾け零の手のお猪口を満たした。
「なんて名だい?」
「お春と言います。今は何と名乗っているかは知りません。容貌も変わっているでしょうし。去年の秋までは、ここ深川で芸者をしていたらしいと聞いていたのですが、それっきり……」
当然、「お春」というのはデタラメだ。芸者など水商売の女が素性を明かさないのは珍しくないため、何とでも誤魔化せる。
去年の秋というのは、久世伯爵がその芸者を追い出したのに矛盾のない時期である。来月には赤子が産まれるというのだから、逆算すれば秋頃までは深川に居り、慶司と会っていたに違いないのだ。
零は眉間を筋立て酒を呷った。
「妹は連絡を断つ少し前、結婚すると言っていました。年端も行かない小娘です、悪い客に騙されてやしないかと心配していたら、案の定……。妹はとても気の優しい奴で、病のお袋のために金がいるから芸者になる、なに、深川の姐さんたちは嫌な人がいないから心配するこたァないと言って、家を出てったのに……」
駒吉は軽く眉を釣り上げてから目を伏せた。
「客と芸者の色恋沙汰はご法度なんだよ」
その仕草は、言いたい事があると察するに十分だった。しめたとばかりに、だが内心を悟られないよう、零は身を乗り出す。
「妹を、お春を、ご存知なので?」
「もし、あんたの言う妹ってのが、あたしが可愛がってた後輩ならね」
彼女は言った。確かにここ辰巳屋に、去年の秋に姿を消した若い芸者がいたと。
「とある伯爵様の御曹司にぞっこんでね。夫婦になると言うから、やめときなと口を酸っぱくして言ったんだけど」
お猪口を差し出しつつ零は尋ねる。
「で、二人は夫婦に?」
「うまくいくモンかい……さっき言ったろ、客と芸者の色恋沙汰はご法度なんだよ。伯爵様がこの花街の顔役に釘を刺してね。あの子、店を辞めてそれっきり。去年の十月さ」
久世夫人の話と合致する。駒吉の後輩というのが、まず慶司の相手であるに違いないだろう。
その上、久世夫人が零に伝えるのを憚ったとみえる内情を、この駒吉は知っていた。
「その御曹司、どうにも気が弱い性質でね。家から出た事もない箱入り息子さ。世間擦れしてないって言うか、脛かじりと言うか。女も知らないようじゃ一人前にゃなれないと、父親がここに連れて来たんだよ。呆れたね、あたしは……でも、あの子は違った」
よほど仲が良かったのだろう。駒吉は遠い目をして肩を落とす。
「芸者ってンのは、男の見栄を持ち上げて、欲を満たしてやるのが仕事なんだよ。見栄と欲の化かし合い……毎日が戦みたいなモンさ。神経をすり減らして病んじまう子も多いんだよ。あの子もそうだった。そこにフラッと来た初心な御曹司の素直さに、ホッとしちまったんだろうね。コロッと落ちちまったんだ」
それから駒吉は、傾げた首を零に向けた。
「あの子、よく言ってたよ――彼は私に似てるって」
「それは、どういう事で?」
「あたしらなんかは、こんな界隈にいるモンだから、身の自由なんてありゃしない。彼の方も、常に伯爵家に相応しい振る舞いをしなきゃならないからね。お父上が厳しい方で、お家の体裁を何よりも重んじるから、自分の思い通りになったことがないみたい。あの子はそれを、『可哀想』と同情してたよ」
まぁ、あたしから見れば、甘えにしか見えないけどね……と、駒吉は辛辣だ。
「あの子、あの御曹司にゾッコンだったけど、あれは惚れてんじゃなくて、同情してるだけ。けど、若いモンにはその違いが分からなかったみたいでね……」
駒吉は軽く首を横に振った。
「心から惚れてると思い込んでたよ」
「その人は、いい人だったんですか」
「まさか。芯のある男だったら、あの子が追い出されるような事にゃならないさ」
駒吉はよほど腹に据えかねているとみえる。憤りを隠しもせずに言葉を荒げた。
「ッたく、身分のある奴ァそういうモンさ。女を犬か猫くらいにしか見ちゃいない。都合が悪くなりゃポイさ……酷いモンだったよ」
そんな例は、この界隈では珍しくないのだろう。零は不憫に思いつつも、もう少し聞き出せないかと考えた。
妹思いの兄を装い、彼女の手を握って目を合わせる。
「妹は、どこへ行くか言ってませんでしたか? 何でもいいんです。教えてください、お願いします」
すると駒吉は熟れた手付きで零の手を外し、
「あたしも貰っていいだろ」
と、お膳のお猪口に手酌した。
「どこに行くとは言ってなかったけど、親しくしている人がいるって話はしてたねぇ」
「誰ですか、それは?」
「水天宮の人形師と言ってたよ」
「人形師?」
零は眉を顰める。それを横目に、駒吉は酒をちびりと舐めた。
「実を言うと、あの子、身篭っててね……無事にいけば、そろそろ産まれておかしくない頃だよ。安産祈願に水天宮に出掛けた時に、近くで人形を作ってるって、何度か屋敷に招かれたらしいよ」
身重の芸者と水天宮と人形師……。
深川を離れた後、すぐに慶司がその身を引き取ったものと思っていたのだが、思わぬ人物の登場に、零は戸惑った。
「ここを辞めた後、子爵の御曹司でなく、その人のところに身を寄せたと」
「さあ、そこまで知らないけどね。でも、あんな別れ方をさせられたんだ。男を頼りゃしないよ」
駒吉の言い分は尤もだ。零は彼女のお猪口に酌をする。
「――で、彼女の芸名は?」
すると駒吉は手を止め、遠くを見る目付きをした。
「玉奴――ここじゃ、お玉ちゃんと呼んでたよ」
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