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第三章・狂瀾怒濤
第44話 近江屋、油小路、天満屋、丹波橋(二)
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御陵衛士の一同は、駕籠かき二人にカラの駕籠を担がせて東山を出発し、西へ向かった。カラの駕籠は伊東の身柄を運ぶためのものだ。
五条大橋で鴨川をわたり、東本願寺の南を回って七条通りを西進して行く。こんな真夜中に出歩いている者などめったに見かけるはずもない。
油小路の辻へ近づくにつれて、そこで人が倒れているのが目に入ってきた。
ちょうど中天にさしかかった月がこうこうと輝いており、伊東らしき人物が道に横たわる姿を照らし出している。
「伊東先生!」
と隊士たちが伊東のところへ駆けつけ、藤堂と毛内が伊東の亡骸を駕籠に納めようとした。冷たくなった伊東の体を抱えて藤堂は思わず落涙した。
加納など数名は周りを見張っている。すると少し離れたところで刀がピカッと月明かりで光り、敵の襲来を予告した。
「おいっ、敵が来たぞ!各々方、覚悟せよ!」
と加納が叫ぶと、たちまち敵が四方八方からわらわらと現れ出て加納たちを包囲した。その途端に駕籠かき二人は駕籠を捨てて一目散に逃げて行った。
もはや伊東の遺体を持ち帰る、などといった状況ではない。
皆が刀を抜いて眼前の敵に斬りかかった。
御陵衛士と新選組。月明かりに映し出された油小路七条の辻は、たちまち両者の刀が乱舞する凄惨な修羅場と化した。
真夜中とはいえ周囲の民家ではこの騒ぎに気づいた者もあり、月明かりの下で激しく斬り合う彼らの様子を建物の二階から密かに見ていた者も何人かいたという。
池田屋事件でも激闘し、つねに先陣を切って敵中へ突入するため「魁先生」の異名をとった藤堂平助は、このときも真っ先に敵へ斬りかかっていった。
その目の前の敵はなんと、試衛館時代からの旧友、永倉新八であった。
試衛館はむろん近藤勇の道場である。ゆえに、近藤も藤堂のことを昔から何かと気にかけてきた。池田屋でも近藤は藤堂と共に屋内へ斬り込んだ。それぐらい信頼していた男であったということだ。
それで近藤は事前に永倉に対して、
「もし藤堂を助けられるようなら、なんとか逃がしてやれ」
と言い聞かせてあった。永倉も同じ気持ちだったから即座に承知した。
永倉は剣を構えて藤堂と対峙しながら後ろへじりじりと下がりつづけ、藤堂を乱戦の外へと導き出したところでサッと身をかわして道をあけた。
「平助、このまますぐに、ここから立ち去れ」
そう藤堂にむかって言った。
が、藤堂はそれを聞くと、血相を変えて永倉に斬りかかった。
永倉はその斬撃をかわしきれず、右腕に浅い傷を受けた。
藤堂は叫んだ。
「ふざけたことを言うな!この伊東先生の敵め!貴様ら一人残らず叩き斬ってやる!」
さもあろう。最愛の伊東を殺された藤堂が、この場から逃げられるものか。
このあとも藤堂は永倉を斬ろうとがむしゃらに剣を振るった。
永倉はあわてた。
まさか藤堂がこれほど激怒して斬りかかってくるとは思わなかったのだ。
(なぜ逃げない?普通は逃げるだろ、この状況であれば……!)
身を左右にさばいてかわしつつ、さらに刀で受け流し、なんとか藤堂の攻撃をしのいでいるが、防御するのもそろそろ限界だ。けれども事前に逃がすよう指示されており、自分としても藤堂を斬りたくない。反撃すべきかどうか……。
などと真剣勝負の最中に迷っているようでは命がいくつあっても足りない。
とうとう永倉は、藤堂にバッサリと斬られた。となりそうな、すんでのところで三浦常三郎という新選組隊士が背後から藤堂の背中を袈裟がけに斬った。
深手だった。が、それでも藤堂は反射的に背後へ刀を振り、三浦の両膝を斬った。
しかし藤堂の奮戦もここまでであった。
このあと数人に取り囲まれて体じゅうを斬られ、ついに力尽きて路上にバッタリと倒れた。
伊東の後を追うように、藤堂も油小路七条の路上に屍を横たえたのである。享年二十四。
つづいて毛内監物も討ち死に。
毛内は新選組にいたとき文学師範をしていた学者肌の人物で剣はあまり得意でなく、やはり数人に取り囲まれてズタズタに斬られた。
多勢に無勢。しかも新選組の隊士たちは皆が鎖かたびらを着込むなど万全の態勢をとっている。
一方的な展開になるのは必然であった。斬り合いの中で御陵衛士はほとんどの者が負傷している。もはや伊東の無念を晴らすどころではない。
それで、篠原、加納、三樹、富山は新選組の囲みを破って脱出することを試みた。
辻の西側で戦っていた加納が、斬り合っていた相手に体当たりをかまして突き倒し、その上を飛び越えるようにして囲みを突破。そのあと西の堀川へ向かった。そして三樹もそれにつづいた。
辻の東側で戦っていた篠原と富山もなんとか包囲網を突破して北へ逃げた。
一人だけ、最後まで踏みとどまった男がいる。
服部三郎兵衛である。
大兵剛力で二刀流。新選組にいた頃から屈指の剣豪と勇名を馳せていた男である。
しかも生まれは播州赤穂。この当時、赤穂浪士は武士の鑑として神聖視されている。義のために討ち死にする、または切腹するのは武士の誉れ。赤穂生まれであるだけに、彼の心にはその信条が色濃くある。赤穂の名誉を汚してはならない。敵に背を向けて逃げるなど、できるはずがないのだ。
服部はなるべく壁を背にして戦い、四方から攻撃されないよう心がけた。
新選組が出動させた部隊は永倉と原田を除くと新参の隊士が多く、この二刀流の達人にさんざん手こずらされた。次々と服部に斬られ、死傷者は十名を超えた。
獅子奮迅とは、まさにこれ。
服部は御陵衛士魂を新選組にまざまざと見せつけたのだ。
が、乱戦の中で服部の太刀がとうとう折れた。それでも左手の小太刀を振るって、まだ戦いつづける。服部は柔術の達人でもある。両刀が折れて最後は素手になっても戦う覚悟だ。
この服部の激闘を見て、永倉が叫んだ。
「そいつはお前たちの剣では無理だ!おい、左之助。お前がやれ」
といって原田左之助の槍で服部に当たらせた。
すでに十人以上の敵を斬り、自分も多くの傷を受け、それでも両刀を振るって戦いつづけた服部も、ここが限界だった。原田が面を斬ると見せかけて胴を突いてきたのを防ぎきれず、腹をもろに突かれた。あとは大勢に包み込まれて散々に斬られ、ついに討ち死に。
翌朝、事件の現場を見にきた桑名藩士の小山正武が、後年『史談会速記録』で次のように語っている。
「服部氏の死に様は実に勇ましく、全身に二十余りの傷があり、流血淋漓、死して後の顔色は、なお生けるが如し」「実に立派で沈勇の精神が死に顔にあふれ、両手に刀を握ったまま、大の字になって仰向けに斃れていた」
脱出した加納は堀川沿いを北上していた。
すると抜き身の刀を手にした男が近づいてきたので「追手がやって来たのか?!」と身構えたところ、同志の富山弥兵衛であった。おお、無事であったか、と再会を喜び合った。やがて同じように三樹三郎もやって来て合流した。
三人はとりあえず御所の北側にある今出川の薩摩藩邸(現、地下鉄今出川駅の同志社大学のあたり)へ向かうことにした。
かつて新選組に属していた御陵衛士は、その経歴のために薩摩藩からあまり信用されていなかったが、伊東が語っていた通り、このように新選組から襲撃されたことによって初めて「新選組とは無関係」という身の証しが立つことになった。また富山は薩摩出身なのでそのツテも利用して、この際、倒幕計画を企てていると噂される薩摩藩を頼るしかない、ということで三人は薩摩藩邸へ駆け込んだのだった。
数日後、同じように篠原も薩摩藩邸へ逃げ込んできた。そのあと彼ら四人は伏見の薩摩藩邸へ送られることになった。
また、この「油小路事件」の時、江戸へ隊士募集のため出張に行っていた新井忠雄、伊勢へ出張に行っていた清原清・江田小太郎・佐原太郎、そして当日、伏見の南にある巨椋池へ鳥打ちの狩猟に出かけていた阿部十郎・内海次郎、といった六人の御陵衛士も帰京後、薩摩藩邸へ入った。
彼ら御陵衛士の残党を薩摩藩が面倒を見るにあたって、何かと世話を焼いてくれたのは中村半次郎(のちの桐野利秋)であった。
余談ながら、彼らの中には妻子のいる者もおり、新選組は御陵衛士の身内にも探索の手を伸ばしていたため、彼女たちも薩摩藩邸へ逃げ込むことになった。新井の妻は小静といい、油小路の事件を知らぬ夫が無警戒に京都へ戻ってきて新選組に見つかれば命はない、と心配し、乞食姿に変装して東海道へ夫を探しに行った。
どう考えても無謀極まりない。この十年後の西南戦争では田原坂で激戦があり、両軍の撃った弾が空中でぶつかった「かち合い弾」という現象が稀に見られ、そのかち合い弾の残骸が今もいくつか残っているが、それぐらいの偶然がなければ夫と「かち合う」のは無理だろう。
ところが、一念天に通ず。江戸から京都へ戻ろうとしていた新井が四日市で宿に泊まろうとしたところ、宿場の街路にあやしい乞食風の女がいるので近寄ってみると、自分の妻だったので驚いた。それで妻から油小路事件の話を聞かされ、二人は慎重に京都へ戻って伏見の薩摩藩邸へ逃げ込んだという。
ついこの前、龍馬と中岡を殺され、その三日後には藤堂と伊東まで殺された。
犯人はどちらも新選組である、というのがもっぱらの噂で、実際に後者はその通りであった。
龍馬暗殺で衝撃をうけた勝蔵は、続けざまに起きた藤堂の横死にも愕然とした。
同じ北辰一刀流の門人で、同じ勤王派の同志でもあった。
(あれほど帝の世を強く望んでいた志士たちが次々と死んでいくとは……。ずっと博徒をやっていた俺が言うのもおこがましいが、彼らのために必ず幕府を倒し、帝の世にせねばならん。それにしても新選組め……。許せん!幕府の犬どもめが。龍馬と藤堂の敵は必ず取る!)
それで勝蔵はいよいよ黒駒一家を京都へ呼び寄せることに決め、各地に散っていた仲間たちへ上京するよう連絡をつけた。
仲間がどれだけ集まって、そのうち何人が倒幕戦争に参加してくれるか。実際に会って話してみるまでは分からないが、一個の部隊として恰好がつく程度には集まって欲しいものだ、と勝蔵は願った。
ところで、龍馬と中岡が暗殺された「近江屋事件」の犯人は、実は新選組ではなかった。
本当の犯人は幕臣の佐々木只三郎が率いる見廻組である。
それが判明するのは明治になってからのことで、実行犯の一人、今井信郎が裁判で自供することによってようやく判明する。とは言うものの、この当時、多くの人は新選組が犯人だと信じていた。
ちなみに、かつては一時期テレビ番組や書籍で「薩摩藩黒幕説」などが流行ったこともあるが、今はこの「見廻組説」でおおむね確定していると言っていい。
さらに言うと、新選組も見廻組も京都守護職松平容保の指揮下にあり(京都所司代も多少関与しているとはいえ)、基本的に龍馬も伊東も、
「会津藩の手によって殺された」
と見るのが素直なものの見方であろう。
佐々木只三郎の兄は会津藩の京都詰め重役手代木直右衛門である。新選組が会津藩の指揮下にあることは言うまでもない。
大政が奉還され、幕府権力の衰退に危機感を抱いた会津藩などの「幕府権力回復派」が、勤王派を威圧するために龍馬や伊東を殺したのだ。
色メガネを外して現実を直視すれば、これ以外の結論はない。
ところが「龍馬を殺したのは紀州(和歌山)藩士だ」と、思い込んだ人々がいた。
海援隊の陸奥源二郎たちである。
陸奥源二郎とは、のちに「カミソリ大臣」と呼ばれ、日清戦争の局面で外務大臣として不平等条約の撤廃に活躍する陸奥宗光のことである。彼は海援隊で龍馬の部下として働き、龍馬に心服していた。
陸奥は紀州藩士の家に生まれた紀州人である。そして同じく紀州人の加納宗七という商人が陸奥に、
「龍馬を殺したのは紀州藩士の三浦休太郎だ」
と告げたのだった。
そう思い込むに足る理由が、あるにはあった。
この年の四月、龍馬が運航していた海援隊のいろは丸が瀬戸内海で紀州藩の明光丸と衝突し、いろは丸が沈没した。
龍馬をはじめ海援隊士たちは沈没直前に明光丸へ乗り移ったので全員無事だったものの、この事件について海援隊と紀州藩が長崎で裁判をすることになった。
海難事故に関する技術的なことをここで詳しく述べるつもりはない。とにかく龍馬は強気で御三家の紀州藩を攻めまくり、イギリス海軍の提督を裁判に引っ張り出して自分に有利な証言をさせ、土佐商会の岩崎弥太郎と相談して沈んだ船荷の法外な請求書をでっちあげ、さらに長崎の町中で「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」といった脅迫じみた歌まで流行らせた。とどめは自分の味方であった五代才助(友厚)に裁判の調停役が任されるよう上手く事を運び、その結果、まんまと紀州藩から八万三千両という法外な賠償金を獲得することに成功した。
その支払い交渉のため十月に海援隊士の中島作太郎(信行)を龍馬の代理として京都から長崎へ派遣し、龍馬の死の五日前、すなわち十一月十日に賠償金を一万三千両割り引きして七万両とすることで紀州藩との支払い交渉は決着した。おそらく「ふっかけ過ぎた」と思って割り引きしたのであろう。
ともかくも龍馬は暗殺される頃、このように紀州藩と係争中で、紀州藩内では裁判に負けた責任者がクビになったりもしており、「龍馬は紀州藩から恨みを買っているに違いない」と周囲から見られるだけの背景はあったのである。
加納はこのころ陸奥たちと一緒に志士活動をおこなっていた。それで、どこでどう調べたのか不明だが、
「龍馬を殺したのは、裁判のとき紀州藩の代表だった三浦休太郎に違いない」
と決めつけて陸奥に吹き込んだのだった。
ちなみにこの加納宗七。のちに神戸で生田川の付け替え事業に携わり、以前の旧生田川が流れていた場所(現在のフラワーロードの線)は現在「神戸市中央区加納町」と呼ばれ、戦前は川の上流(現在の新神戸駅のあたり)に加納を顕彰する銅像が立っていたが戦時供出で失われ、現在は加納町の東遊園地にやや小さめの像が立っている。
それで十二月七日の夜、海援隊士や土佐人などを中心とした十六人が龍馬の敵を討つために、油小路花屋町の天満屋に泊まっている三浦を襲撃することになった。
この場所は伊東や藤堂たちが斃れた油小路七条より三町ほど(約三百メートル)北になる。
正面入り口からは陸奥、中井庄五郎ら七人が斬り込み、建物の側面には岩村精一郎(高俊)、沢村惣之丞、加納ら六人が控え、裏口は斎原治一郎(のちの大江卓)ら三人がかためた。同士討ちを避けるために全員、白鉢巻きを目印として締めている。
一方、三浦の側も危険を察知して守りをかため、新選組の斎藤一、大石鍬次郎、宮川信吉など十人ほどが護衛についていた。紀州家は御三家なので当然、佐幕藩である。それで新選組から護衛が派遣されたのだ。
陸奥たちが三浦を犯人と決めつけた認識に誤りはあったものの、結果的には犯人としてもっとも疑わしい新選組と激突することになったわけである。ただし三浦も新選組も実際には龍馬暗殺の犯人ではないので、まったくの無駄骨ではあるのだが。
このとき三浦や新選組の隊士たちは天満屋の二階で宴会中だった。
十津川郷士の猛者として知られる中井庄五郎が先陣を切って天満屋内へ突入し、それに陸奥たちがつづいた。全員、抜き身の刀を握っている。
中井がドカドカと階段を駆け上がって階上で三浦を見つけると、
「貴様が三浦か!」
と言うが早いか、中井はいきなり三浦に斬りつけた。が、三浦の頬をかすっただけで仕留め損ねた。
それを口火に、たちまち両者入り乱れての斬り合いが勃発。そのはずみで足元にあった行灯が消えて室内は真っ暗闇。あたりには怒号や叫び声が響き、灰神楽が立つような混乱状態となった。
そのとき不意に、
「よし!三浦を仕留めたぞ!」
と叫び声があがった。
それで、その声を聞いた陸奥が、事前に撤退の合図として決めていたピストルの音を「バン!」と一発撃ち鳴らし、
「成功だ!ただちに退け、退けえー!」
と叫んだ。すると襲撃部隊はすぐさま天満屋から撤退していった。
竜巻が通り過ぎたあとのように、室内はグチャグチャ。そこらじゅうに血の跡があり、二体の斬死体が血みどろになって転がっていた。
実は「三浦を仕留めたぞ!」という声は、新選組の一人が敵をだます目的でとっさに叫んだウソだった。
三浦は生存。頬を少し斬られるなどの軽傷で済んだ。
斬死体の正体は襲撃側の中井庄五郎と、防御側の宮川信吉だった。宮川は近藤勇の親戚である。その他にも負傷者が何人かいたと思われるが詳細は不明。
五条大橋で鴨川をわたり、東本願寺の南を回って七条通りを西進して行く。こんな真夜中に出歩いている者などめったに見かけるはずもない。
油小路の辻へ近づくにつれて、そこで人が倒れているのが目に入ってきた。
ちょうど中天にさしかかった月がこうこうと輝いており、伊東らしき人物が道に横たわる姿を照らし出している。
「伊東先生!」
と隊士たちが伊東のところへ駆けつけ、藤堂と毛内が伊東の亡骸を駕籠に納めようとした。冷たくなった伊東の体を抱えて藤堂は思わず落涙した。
加納など数名は周りを見張っている。すると少し離れたところで刀がピカッと月明かりで光り、敵の襲来を予告した。
「おいっ、敵が来たぞ!各々方、覚悟せよ!」
と加納が叫ぶと、たちまち敵が四方八方からわらわらと現れ出て加納たちを包囲した。その途端に駕籠かき二人は駕籠を捨てて一目散に逃げて行った。
もはや伊東の遺体を持ち帰る、などといった状況ではない。
皆が刀を抜いて眼前の敵に斬りかかった。
御陵衛士と新選組。月明かりに映し出された油小路七条の辻は、たちまち両者の刀が乱舞する凄惨な修羅場と化した。
真夜中とはいえ周囲の民家ではこの騒ぎに気づいた者もあり、月明かりの下で激しく斬り合う彼らの様子を建物の二階から密かに見ていた者も何人かいたという。
池田屋事件でも激闘し、つねに先陣を切って敵中へ突入するため「魁先生」の異名をとった藤堂平助は、このときも真っ先に敵へ斬りかかっていった。
その目の前の敵はなんと、試衛館時代からの旧友、永倉新八であった。
試衛館はむろん近藤勇の道場である。ゆえに、近藤も藤堂のことを昔から何かと気にかけてきた。池田屋でも近藤は藤堂と共に屋内へ斬り込んだ。それぐらい信頼していた男であったということだ。
それで近藤は事前に永倉に対して、
「もし藤堂を助けられるようなら、なんとか逃がしてやれ」
と言い聞かせてあった。永倉も同じ気持ちだったから即座に承知した。
永倉は剣を構えて藤堂と対峙しながら後ろへじりじりと下がりつづけ、藤堂を乱戦の外へと導き出したところでサッと身をかわして道をあけた。
「平助、このまますぐに、ここから立ち去れ」
そう藤堂にむかって言った。
が、藤堂はそれを聞くと、血相を変えて永倉に斬りかかった。
永倉はその斬撃をかわしきれず、右腕に浅い傷を受けた。
藤堂は叫んだ。
「ふざけたことを言うな!この伊東先生の敵め!貴様ら一人残らず叩き斬ってやる!」
さもあろう。最愛の伊東を殺された藤堂が、この場から逃げられるものか。
このあとも藤堂は永倉を斬ろうとがむしゃらに剣を振るった。
永倉はあわてた。
まさか藤堂がこれほど激怒して斬りかかってくるとは思わなかったのだ。
(なぜ逃げない?普通は逃げるだろ、この状況であれば……!)
身を左右にさばいてかわしつつ、さらに刀で受け流し、なんとか藤堂の攻撃をしのいでいるが、防御するのもそろそろ限界だ。けれども事前に逃がすよう指示されており、自分としても藤堂を斬りたくない。反撃すべきかどうか……。
などと真剣勝負の最中に迷っているようでは命がいくつあっても足りない。
とうとう永倉は、藤堂にバッサリと斬られた。となりそうな、すんでのところで三浦常三郎という新選組隊士が背後から藤堂の背中を袈裟がけに斬った。
深手だった。が、それでも藤堂は反射的に背後へ刀を振り、三浦の両膝を斬った。
しかし藤堂の奮戦もここまでであった。
このあと数人に取り囲まれて体じゅうを斬られ、ついに力尽きて路上にバッタリと倒れた。
伊東の後を追うように、藤堂も油小路七条の路上に屍を横たえたのである。享年二十四。
つづいて毛内監物も討ち死に。
毛内は新選組にいたとき文学師範をしていた学者肌の人物で剣はあまり得意でなく、やはり数人に取り囲まれてズタズタに斬られた。
多勢に無勢。しかも新選組の隊士たちは皆が鎖かたびらを着込むなど万全の態勢をとっている。
一方的な展開になるのは必然であった。斬り合いの中で御陵衛士はほとんどの者が負傷している。もはや伊東の無念を晴らすどころではない。
それで、篠原、加納、三樹、富山は新選組の囲みを破って脱出することを試みた。
辻の西側で戦っていた加納が、斬り合っていた相手に体当たりをかまして突き倒し、その上を飛び越えるようにして囲みを突破。そのあと西の堀川へ向かった。そして三樹もそれにつづいた。
辻の東側で戦っていた篠原と富山もなんとか包囲網を突破して北へ逃げた。
一人だけ、最後まで踏みとどまった男がいる。
服部三郎兵衛である。
大兵剛力で二刀流。新選組にいた頃から屈指の剣豪と勇名を馳せていた男である。
しかも生まれは播州赤穂。この当時、赤穂浪士は武士の鑑として神聖視されている。義のために討ち死にする、または切腹するのは武士の誉れ。赤穂生まれであるだけに、彼の心にはその信条が色濃くある。赤穂の名誉を汚してはならない。敵に背を向けて逃げるなど、できるはずがないのだ。
服部はなるべく壁を背にして戦い、四方から攻撃されないよう心がけた。
新選組が出動させた部隊は永倉と原田を除くと新参の隊士が多く、この二刀流の達人にさんざん手こずらされた。次々と服部に斬られ、死傷者は十名を超えた。
獅子奮迅とは、まさにこれ。
服部は御陵衛士魂を新選組にまざまざと見せつけたのだ。
が、乱戦の中で服部の太刀がとうとう折れた。それでも左手の小太刀を振るって、まだ戦いつづける。服部は柔術の達人でもある。両刀が折れて最後は素手になっても戦う覚悟だ。
この服部の激闘を見て、永倉が叫んだ。
「そいつはお前たちの剣では無理だ!おい、左之助。お前がやれ」
といって原田左之助の槍で服部に当たらせた。
すでに十人以上の敵を斬り、自分も多くの傷を受け、それでも両刀を振るって戦いつづけた服部も、ここが限界だった。原田が面を斬ると見せかけて胴を突いてきたのを防ぎきれず、腹をもろに突かれた。あとは大勢に包み込まれて散々に斬られ、ついに討ち死に。
翌朝、事件の現場を見にきた桑名藩士の小山正武が、後年『史談会速記録』で次のように語っている。
「服部氏の死に様は実に勇ましく、全身に二十余りの傷があり、流血淋漓、死して後の顔色は、なお生けるが如し」「実に立派で沈勇の精神が死に顔にあふれ、両手に刀を握ったまま、大の字になって仰向けに斃れていた」
脱出した加納は堀川沿いを北上していた。
すると抜き身の刀を手にした男が近づいてきたので「追手がやって来たのか?!」と身構えたところ、同志の富山弥兵衛であった。おお、無事であったか、と再会を喜び合った。やがて同じように三樹三郎もやって来て合流した。
三人はとりあえず御所の北側にある今出川の薩摩藩邸(現、地下鉄今出川駅の同志社大学のあたり)へ向かうことにした。
かつて新選組に属していた御陵衛士は、その経歴のために薩摩藩からあまり信用されていなかったが、伊東が語っていた通り、このように新選組から襲撃されたことによって初めて「新選組とは無関係」という身の証しが立つことになった。また富山は薩摩出身なのでそのツテも利用して、この際、倒幕計画を企てていると噂される薩摩藩を頼るしかない、ということで三人は薩摩藩邸へ駆け込んだのだった。
数日後、同じように篠原も薩摩藩邸へ逃げ込んできた。そのあと彼ら四人は伏見の薩摩藩邸へ送られることになった。
また、この「油小路事件」の時、江戸へ隊士募集のため出張に行っていた新井忠雄、伊勢へ出張に行っていた清原清・江田小太郎・佐原太郎、そして当日、伏見の南にある巨椋池へ鳥打ちの狩猟に出かけていた阿部十郎・内海次郎、といった六人の御陵衛士も帰京後、薩摩藩邸へ入った。
彼ら御陵衛士の残党を薩摩藩が面倒を見るにあたって、何かと世話を焼いてくれたのは中村半次郎(のちの桐野利秋)であった。
余談ながら、彼らの中には妻子のいる者もおり、新選組は御陵衛士の身内にも探索の手を伸ばしていたため、彼女たちも薩摩藩邸へ逃げ込むことになった。新井の妻は小静といい、油小路の事件を知らぬ夫が無警戒に京都へ戻ってきて新選組に見つかれば命はない、と心配し、乞食姿に変装して東海道へ夫を探しに行った。
どう考えても無謀極まりない。この十年後の西南戦争では田原坂で激戦があり、両軍の撃った弾が空中でぶつかった「かち合い弾」という現象が稀に見られ、そのかち合い弾の残骸が今もいくつか残っているが、それぐらいの偶然がなければ夫と「かち合う」のは無理だろう。
ところが、一念天に通ず。江戸から京都へ戻ろうとしていた新井が四日市で宿に泊まろうとしたところ、宿場の街路にあやしい乞食風の女がいるので近寄ってみると、自分の妻だったので驚いた。それで妻から油小路事件の話を聞かされ、二人は慎重に京都へ戻って伏見の薩摩藩邸へ逃げ込んだという。
ついこの前、龍馬と中岡を殺され、その三日後には藤堂と伊東まで殺された。
犯人はどちらも新選組である、というのがもっぱらの噂で、実際に後者はその通りであった。
龍馬暗殺で衝撃をうけた勝蔵は、続けざまに起きた藤堂の横死にも愕然とした。
同じ北辰一刀流の門人で、同じ勤王派の同志でもあった。
(あれほど帝の世を強く望んでいた志士たちが次々と死んでいくとは……。ずっと博徒をやっていた俺が言うのもおこがましいが、彼らのために必ず幕府を倒し、帝の世にせねばならん。それにしても新選組め……。許せん!幕府の犬どもめが。龍馬と藤堂の敵は必ず取る!)
それで勝蔵はいよいよ黒駒一家を京都へ呼び寄せることに決め、各地に散っていた仲間たちへ上京するよう連絡をつけた。
仲間がどれだけ集まって、そのうち何人が倒幕戦争に参加してくれるか。実際に会って話してみるまでは分からないが、一個の部隊として恰好がつく程度には集まって欲しいものだ、と勝蔵は願った。
ところで、龍馬と中岡が暗殺された「近江屋事件」の犯人は、実は新選組ではなかった。
本当の犯人は幕臣の佐々木只三郎が率いる見廻組である。
それが判明するのは明治になってからのことで、実行犯の一人、今井信郎が裁判で自供することによってようやく判明する。とは言うものの、この当時、多くの人は新選組が犯人だと信じていた。
ちなみに、かつては一時期テレビ番組や書籍で「薩摩藩黒幕説」などが流行ったこともあるが、今はこの「見廻組説」でおおむね確定していると言っていい。
さらに言うと、新選組も見廻組も京都守護職松平容保の指揮下にあり(京都所司代も多少関与しているとはいえ)、基本的に龍馬も伊東も、
「会津藩の手によって殺された」
と見るのが素直なものの見方であろう。
佐々木只三郎の兄は会津藩の京都詰め重役手代木直右衛門である。新選組が会津藩の指揮下にあることは言うまでもない。
大政が奉還され、幕府権力の衰退に危機感を抱いた会津藩などの「幕府権力回復派」が、勤王派を威圧するために龍馬や伊東を殺したのだ。
色メガネを外して現実を直視すれば、これ以外の結論はない。
ところが「龍馬を殺したのは紀州(和歌山)藩士だ」と、思い込んだ人々がいた。
海援隊の陸奥源二郎たちである。
陸奥源二郎とは、のちに「カミソリ大臣」と呼ばれ、日清戦争の局面で外務大臣として不平等条約の撤廃に活躍する陸奥宗光のことである。彼は海援隊で龍馬の部下として働き、龍馬に心服していた。
陸奥は紀州藩士の家に生まれた紀州人である。そして同じく紀州人の加納宗七という商人が陸奥に、
「龍馬を殺したのは紀州藩士の三浦休太郎だ」
と告げたのだった。
そう思い込むに足る理由が、あるにはあった。
この年の四月、龍馬が運航していた海援隊のいろは丸が瀬戸内海で紀州藩の明光丸と衝突し、いろは丸が沈没した。
龍馬をはじめ海援隊士たちは沈没直前に明光丸へ乗り移ったので全員無事だったものの、この事件について海援隊と紀州藩が長崎で裁判をすることになった。
海難事故に関する技術的なことをここで詳しく述べるつもりはない。とにかく龍馬は強気で御三家の紀州藩を攻めまくり、イギリス海軍の提督を裁判に引っ張り出して自分に有利な証言をさせ、土佐商会の岩崎弥太郎と相談して沈んだ船荷の法外な請求書をでっちあげ、さらに長崎の町中で「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」といった脅迫じみた歌まで流行らせた。とどめは自分の味方であった五代才助(友厚)に裁判の調停役が任されるよう上手く事を運び、その結果、まんまと紀州藩から八万三千両という法外な賠償金を獲得することに成功した。
その支払い交渉のため十月に海援隊士の中島作太郎(信行)を龍馬の代理として京都から長崎へ派遣し、龍馬の死の五日前、すなわち十一月十日に賠償金を一万三千両割り引きして七万両とすることで紀州藩との支払い交渉は決着した。おそらく「ふっかけ過ぎた」と思って割り引きしたのであろう。
ともかくも龍馬は暗殺される頃、このように紀州藩と係争中で、紀州藩内では裁判に負けた責任者がクビになったりもしており、「龍馬は紀州藩から恨みを買っているに違いない」と周囲から見られるだけの背景はあったのである。
加納はこのころ陸奥たちと一緒に志士活動をおこなっていた。それで、どこでどう調べたのか不明だが、
「龍馬を殺したのは、裁判のとき紀州藩の代表だった三浦休太郎に違いない」
と決めつけて陸奥に吹き込んだのだった。
ちなみにこの加納宗七。のちに神戸で生田川の付け替え事業に携わり、以前の旧生田川が流れていた場所(現在のフラワーロードの線)は現在「神戸市中央区加納町」と呼ばれ、戦前は川の上流(現在の新神戸駅のあたり)に加納を顕彰する銅像が立っていたが戦時供出で失われ、現在は加納町の東遊園地にやや小さめの像が立っている。
それで十二月七日の夜、海援隊士や土佐人などを中心とした十六人が龍馬の敵を討つために、油小路花屋町の天満屋に泊まっている三浦を襲撃することになった。
この場所は伊東や藤堂たちが斃れた油小路七条より三町ほど(約三百メートル)北になる。
正面入り口からは陸奥、中井庄五郎ら七人が斬り込み、建物の側面には岩村精一郎(高俊)、沢村惣之丞、加納ら六人が控え、裏口は斎原治一郎(のちの大江卓)ら三人がかためた。同士討ちを避けるために全員、白鉢巻きを目印として締めている。
一方、三浦の側も危険を察知して守りをかため、新選組の斎藤一、大石鍬次郎、宮川信吉など十人ほどが護衛についていた。紀州家は御三家なので当然、佐幕藩である。それで新選組から護衛が派遣されたのだ。
陸奥たちが三浦を犯人と決めつけた認識に誤りはあったものの、結果的には犯人としてもっとも疑わしい新選組と激突することになったわけである。ただし三浦も新選組も実際には龍馬暗殺の犯人ではないので、まったくの無駄骨ではあるのだが。
このとき三浦や新選組の隊士たちは天満屋の二階で宴会中だった。
十津川郷士の猛者として知られる中井庄五郎が先陣を切って天満屋内へ突入し、それに陸奥たちがつづいた。全員、抜き身の刀を握っている。
中井がドカドカと階段を駆け上がって階上で三浦を見つけると、
「貴様が三浦か!」
と言うが早いか、中井はいきなり三浦に斬りつけた。が、三浦の頬をかすっただけで仕留め損ねた。
それを口火に、たちまち両者入り乱れての斬り合いが勃発。そのはずみで足元にあった行灯が消えて室内は真っ暗闇。あたりには怒号や叫び声が響き、灰神楽が立つような混乱状態となった。
そのとき不意に、
「よし!三浦を仕留めたぞ!」
と叫び声があがった。
それで、その声を聞いた陸奥が、事前に撤退の合図として決めていたピストルの音を「バン!」と一発撃ち鳴らし、
「成功だ!ただちに退け、退けえー!」
と叫んだ。すると襲撃部隊はすぐさま天満屋から撤退していった。
竜巻が通り過ぎたあとのように、室内はグチャグチャ。そこらじゅうに血の跡があり、二体の斬死体が血みどろになって転がっていた。
実は「三浦を仕留めたぞ!」という声は、新選組の一人が敵をだます目的でとっさに叫んだウソだった。
三浦は生存。頬を少し斬られるなどの軽傷で済んだ。
斬死体の正体は襲撃側の中井庄五郎と、防御側の宮川信吉だった。宮川は近藤勇の親戚である。その他にも負傷者が何人かいたと思われるが詳細は不明。
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