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第1部
第3話:口先から滴る猛毒②
しおりを挟むどれくらい時間が経ったのだろうか。
いつまで泣いていたか分からないが、私は泣き疲れてその場に倒れていた。
そんな状態でいたせいか、メイドの1人がこちらに駆け寄ってきて
「大丈夫ですか」
と声をかけてきた。
その声はまるで淡々とした自動音声のようで…感情がこもっているように感じなかった。
言葉も行動も淡々としており、苦手だ。このまま横になっているわけにはいかないので、メイドに支えられながらも起き上がる。
もう大丈夫だと告げると彼女は一礼して自分の仕事に戻っていった。
初めの頃は彼女たちとコミュニケーションを取ろうと頑張ったものだ。それも結局上手くいかなかったのだが…受け答えのバリエーションも少なく、返事も最低限。
とにかく行動も会話もロボットみたいに淡々としていて、気まずくなって極力関わらないようにしている。
今はお昼の時間なのだろう、昼食も持ってこられたが今はそんな気分ではないと言って下げさせた。
とはいえ朝から殆ど口にしていないのでお腹はグルグルとなっていた。
ああ、またあの悪魔に心配されるかもしれないと思うと気が重い。
私は屋敷の書庫に行って、本を読む事で気分と空腹を紛らわす事にした。
書庫には私が好きな漫画や小説がいっぱい詰まっていた。攫われる前、私の家にあった小説のシリーズも全て揃っている。
頭がぼーっとするが本を読めない状態ではない。久しぶりに読むとやはり面白い。
困難に立ち向かう戦士たち、逆境から勝ち上がる選手たち、物語の世界の人々はこんなにも勇敢で強い信念を持っている。自分の精神状態を考えると情けなくて胸が痛い。
まだ諦めるのは早い、しっかりしろと自分の頬を両手で挟むようにバチンと叩いた。
今日の朝、悪魔が何を思って出ていったかは分からないが気を強く持とう。
「ノエルちゃん、ただいま」
そう思っていると遠くの方で私の名を呼ぶあの悪魔の声が聞こえてきた。
窓の外を見るともう夕陽が沈んでいるところだった。
「ここにいたんだね」
背後から声が聞こえてきて慌てて振り返った。
そこにはいつの間にかあの悪魔が居た。呆気に取られている私の顔を覗き込んでくる。
書庫への扉を開ける音も聞こえなかった。そんなに集中力が欠けていたのだろうか。
「あれ、目元が腫れてる! どうしたの? 怪我とかしていない?」
悪魔は慌てたように手を伸ばし私の両肩を掴んだ。
そんな、本当に心配そうな顔でこちらを見ないでほしい。
「えっと、違うの。ちょっと小説のストーリーに感動して泣いちゃっただけだから」
咄嗟に変な言い訳が出た。いくらなんでも苦しい言い訳に聞こえるが、悪魔は
「そっか、ノエルちゃんは感受性豊かなんだね。僕は感情移入が苦手でさ、羨ましいな」
と、素直に引き下がった。
この悪魔は毎回私の言葉を疑わず信じる。
いっそこの島から出ないと死ぬと言ってしまおうか。いや、それで大人しく解放してくれるとは思えない。余計に面倒なことになりかねないのでやめよう…
「今日のご飯はとっても美味しいと思う。とびきり豪華なのを用意するよ。作るのに時間がかかると思うから、ここで本を読んでいて待っててね」
「は、はぁ」
いつものように悪魔は言いたい事だけ言って、朝いなくなった時のように身体が透明になって消えていった。
先ほどの様子からよほど私が喜ぶと自信があるのだろう。
こんな生活ではどれだけ美味しくても私が心から喜ぶことなどないというのに…。
―――――――――
それから1時間経っただろうか。
本も読み疲れた頃、書庫にメイドの1人がやってきた。どうやら夕飯の準備が出来たらしく呼びに来たようだ。
すぐ行くと言って本に栞を挟んで立ち上がった。
部屋から出る時、部屋の中をちらりと見ると、メイドはテキパキと本を片付けていた。栞を挟んだ本とそのシリーズの次の巻数冊は机に残している。
後で私の部屋にでも持ってくるつもりなのだろうか。メイドの気遣いは嬉しいが気分は複雑だ。
しかし、彼女たちはちゃんとご飯を食べているのだろうか。
彼女…いや、他のメイドたちもなんだか以前より痩せている気がする。肌の色も健康的ではない気がする。運動してダイエットしている様子ではなさそうだ。
あまり深く関わりたくないが無理をしないでほしいな。
部屋に戻ってテーブルの前に座っていると、扉をノックする音が聞こえた。
そのまま悪魔が料理を乗せたお盆を持って入ってきた。
豪華と言ったのは本当のようで、お皿に乗せられるだけ乗せている。
一口サイズの数種類の前菜やパンにサラダに透明なコンソメスープ、メインディッシュはローストビーフのようだ。
マッシュされたポテトや色とりどりのグリル野菜、飴色の玉ねぎソースが添えられている。
料理は出来立てのようで美味しそうな湯気を漂わせている。
良い匂いが鼻腔をくすぐった。
しかし…あれ、何故だろう。なんだかその料理には見覚えがあった。
食材の組み合わせや盛り付け方、ほのかに香る独特な香辛料やハーブの匂い。
料理に既視感があるなんて不思議な感じだが、初めて見た気がしない。それどころかよく知っている気がする。
困惑している私をよそに、料理はテーブルに並べられていく。
その間もなんとか思い出そうと頭をひねる。数秒思考を巡り、ひとつの答えに辿りついてしまった。
…いや、そんなはずはない。
最悪な事を想像してしまい、全身から血の気が引く感覚がする。眩暈がして目の前の料理が一瞬ぼやけるが、やはり私がよく知っているものだ。
どうか違っていてくれと願いながら、料理の横に置かれたナイフとフォークを手に取る。
見覚えのあるローストビーフにソースをかけ、一口サイズに切り、震える手で口に運んだ。噛みしめれば噛みしめるほど、疑惑は確信に変わっていく。
両手からナイフとフォークが滑り落ち、がちゃっと鈍い音が鳴った。
「こ、この料理もしかして…」
「あ、気付いた? 君のために新しいシェフを連れてきたんだ。見て」
そう言って悪魔は数歩後ろに下がって扉の方に手を向けた。その時扉がゆっくり開き、誰かが入ってきた。
服装はこの屋敷にいるメイドたちと同じ服装、他のメイドたち同様正気のない表情に薄く光った…ハートの魔法陣のような模様が浮かぶ瞳。
でもその顔は、私のよく知る幼馴染だった。
「ど…どうしてここに?」
何故彼女がここにいるのだろう?
彼女はこの時間も、開業したレストランのシェフとして働いているはず。私は震える両手で幼馴染の肩を持って身体を揺さぶった。どれだけ声をかけても何も返事は返ってこない。
幼馴染は、昔から料理が大好きだった。
その腕は子供の頃から大人顔負けで、それでも努力を重ね有名な料理学校も卒業している。
彼女はずっと言っていた、『いつか自分の店を開きたい』と。
私はずっと幼馴染を応援していたし、開業するにあたって必要な資金の援助もした。幼馴染が大好きだというのも勿論だが、何より彼女のファンだから。彼女のレストランが成功すると信じていたから。
私は彼女の料理が大好きなのだ。
大好きだからこそ、何度もそのレストランで食事をした。
何度も食べたメニュー、それでも信じたくなかったのに…顔を見た瞬間膝から崩れ落ちそうだった。1ヶ月くらい会っていないとはいえ、大好きな幼馴染の顔を見間違えるわけがない。
「あんた、私の幼馴染に何をしたの!? ただ誘拐しただけじゃないでしょう? この瞳が光ってるの、何か関係があるんでしょう!?」
私は悪魔の方を向きなおり大声で叫んだ。
彼女はいつも笑顔で、誰にでも優しく気遣いも出来る聡明な女性だ。
これだけ必死に声をかけているのに何も反応がなく、こんなにも無表情なのはおかしい。こいつは私の幼馴染に何かしたんだ。こんなの許されることではない。
「ああ、僕の能力の事は言ってなかったね、はは…」
悪魔は私から視線を逸らし、両手の指を落ち着かなさそうにモジモジさせた。
そんな気まずいと言いたげな雰囲気が余計に癇に障る。
「僕はね、他の悪魔は持っていない特別な能力を持っているんだ。僕には相手を洗脳させる力があるみたい。僕より相手の力が劣っているという条件はあるけど、僕の体液を取り込んだ相手を意のままに操る事が出来る」
「体液で洗脳…?」
「うん、まあ精液くらいしか試してないから詳細は分からないんだけどね」
「…っせ!?」
この悪魔は何を言ってるのだろう…洗脳?こんなふざけた事あって良いわけがない。
それなのにその後に続いた言葉が衝撃すぎて混乱する。
この悪魔の言葉が全て本当だとしたら、幼馴染はこの悪魔の精液を取り込んだ結果、洗脳されているという事になる。でも、それって、つまり…。
「幼馴染は、貴方と…する事を許したの…?」
他にも言いたい事は沢山あった。だけどこれだけは確認しなくては…。
知らない方が良いと薄々感じながらも、どうかこの想像だけは外れていてほしいと願って…。
しかし現実はそれ以上に残酷だった。
「まさか! 僕は君以外の人間にこれっぽっちも興味ないよ!! あくまでもこの子や他のメイドたちは君のために連れてきたんだ」
「ほ…他のメイドさんたちも…全員…?」
「そうだよ。全員すっごく抵抗してきて大変だったよ。怒ったり泣いたり手を上げてきたり、大声出すもんだから他の人間にバレないかヒヤヒヤしたよ。まあ他にもちょっとだけ理由はあったけど、性欲処理とか…まあ些細な事だよ」
「…ッ!!」
最低だ…あまりにも最低最悪すぎる…。
彼女たちが受けた仕打ちは私とは比べ物にならないほど壮絶なものだろう。
どう生きていればこんな事出来るのか。
しかも私の為だと?
私はこんな事を頼んでいないし望んでもいない。こんな事をしておきながら“些細”と言っている事も信じられない。
「顔色がすぐれないね…もしかして美味しくない? 無理しなくていいよ。君が望むならこれからも、何人でも料理人を連れてくるから」
目の前の悪魔が今まで以上に恐ろしいものに見えた。してはいけない想像をしてしまい、立ちくらみを起こしてそのまま座り込んでしまった。
あまりの外道っぷりに反吐が出る。
迫り上がってくる吐き気をなんとか抑えるが、頭が重い。きっと真っ青な顔色をしているだろう。
ああ、ほんの僅かとはいえ心を開きかけた自分を殴り飛ばしたい。
こいつの本性は幼馴染を、そして罪のない若い女の子たちを凌辱しておきながら罪の意識も何もない本当に名の通り悪魔なのだと。
「大丈夫!? …もしかして何か変なものでも入っていた?」
次の瞬間、悪魔は怒りがこもった目を幼馴染に向けた。
まずい…と脳に警報が鳴り響いた。今にも襲い掛かりそうな気迫に私は縋るように必死に悪魔の服の裾を掴んだ。
「違うの! やめて! とっても美味しいわ」
「ノエルちゃん…」
悪魔は怒りを抑えて私に向きなおり、膝をついて縋る私の前にしゃがんだ。
震える私の背中にそっと腕を回し、子供をあやすようにポンポンと優しく叩く。
本当はすぐに振り払いたかったけど、恐ろしくて震えていてうまく動くことが出来ない。なされるがままにあやされていた。
悪魔の顔を恐る恐る見ると、心配そうにこちらを見ている。
何故私にはこんな顔が出来るのに、彼女たちにはこんな非道な事が出来るのだろうか。
一体私の何がそんなに良いのだろうか。昔悪魔は私に『一目惚れ』と言ったが、それだけでこうも対応が変わるものなのだろうか。
ずっと私に対してのみ一途なのだ。
こんなクソ野郎なのに、そんな顔をされる度に心の奥底でドキドキしてしまう。心配される度、好きと言われる度、特別扱いされる度に喜びを感じてしまう。
私もこいつに感化されている?
嫌だ、幼馴染がこんな目にあって今とても苦しいのも事実だ。
私に対しても怒れば良いのに。なんでいつもそんな心配そうな顔…
「あれ…?」
「うん? どうしたの?」
過去、この悪魔と出会った頃の記憶が突然フラッシュバックしだす。
そうだ、最初の頃は何がなんでもこの悪魔の思い通りにさせるものかと抗っていた。
それは結局無駄ではあったけど…例えば食事を拒否した時は無理矢理口を開けられスープを注がれた。
その時この悪魔は…泣いていた。
魔法で操作されていたので顔は動かせなかったけど、目を見るのが気まずくて視線を下に落としていたからちゃんと見てしまった。
目から溢れた涙がポタポタとスープの中に入っていた。
その涙入りスープはそのまま私の口に運ばれて、私は飲み込んでいた。
悪魔は意図的にやったというより、こちらの対応に必死でそんなこと気にもとめていない様子だった。私もなんで泣くのだろうとしか思っていなかった。
思えばあの日から食事を拒否することを止めた。
気に入らない気持ちは変わらなかったが、どうせ無駄だからとやろうとする気力も起きなかった。
別の日、私が外に出て逃げようとした時の事。
悪魔の目を掻い潜って逃亡を図り、誰もいない事に絶望しパニックになった私は海に潜って逃げようとしたんだ。
広くて人気のない海を泳いで逃げようだなんて、命を捨てに行くようなものだ。
それでも現状打破のために逃げなくてはと必死だった。
結果、私は溺れて意識を失った。
息を吸おうともがき、その度に沢山の海水を飲み込んで、やがて力尽きた。
悪魔が引き上げなければ当然死んでいただろう。
意識を失った私は呼吸をしていなかったのだろう。
目を覚ました時、私は浜辺で人工呼吸をされていた。心配そうに私の名を呼ぶ顔が間近にあった。
力無く僅かに開いた私の口に、温かい唇がつけられ息を吹きかけられた。その拍子に当たった悪魔の温かい舌を覚えている。
不快だったが跳ね除ける力さえもなかった。
私が目を僅かに開けて唸ると悪魔はすぐ人工呼吸をやめたが、おそらく多少悪魔の唾液を飲み込んでいると思う。
思えばあの日から無理矢理にでも逃げようとすることを止めた。
手を尽くしたが駄目だったというのもあるだろうが、本当にそれだけ?
抵抗らしい抵抗を止めてから、外ではなく悪魔のことを見る事が増えた。
元々は何か弱みを握れないか虎視眈々と機会をうかがっていたはずなのに…目を向けるといろんな反応や表情を見るようになり、対応にドキドキしたり…
自分の心の弱さに苦悩する日々が続いていたが、それがもし私の心の強さの問題だけではなかったとしたら?
ここに来てからのメイドたちの事を思い出す。
ロボットのような淡々とした動き、正気のない表情、痩せ細っていく身体。
私も彼女たちのようになるの? 幼馴染のように?
「あんた…私もいずれ幼馴染のように都合のいい家政婦として使うつもり?」
「え!? 違うよ!! 確かに僕にはその能力は有るけど、君は大切な初恋の相手なんだ。僕はそこら辺の人間より長く生きているけど、こんなに心惹かれたのは君だけ。君とは真剣に恋愛して能力とか使わずに恋人になりたいんだ!!」
悪魔は私の言葉を必死に否定した。本当に真剣に話しているというのは伝わってきた。それなのに、どうしても気持ちが伝わらないし理解出来ない。今までも薄々勘付いていたが、こんなにも姿は人間みたいなのに価値観が違いすぎる。
他者に対して申し訳ないといった気持ちもなければ、下手すれば悪意すらない。
「君が望むなら、恋人になってくれるならなんでもやるよ。僕の能力はすごいんだ。君はここにいるメイドたちに好きなように命令する事だって出来る」
「やめて…」
「人手が足りなかったら頑張るよ! 能力を駆使したらいろんな事が出来る。グルメブックに載っているような有名な料理人も連れて来れるし、旅行会社の人間を洗脳したら毎日旅行に行き放題。店員を洗脳させれば欲しい宝石だって簡単に手に入る。大丈夫、僕こう見えて結構強い悪魔だから。操作魔法を使えば誰でも抵抗出来ず足を開いて…」
「やめて!! やめてやめてやめて!!」
もう聞きたくない。本当頭がおかしくなりそうだ。
どうしてこんな悍ましい事を思いつく?
私にそんなつもりはなかったとはいえ、彼女たちの人生はこの悪魔に…私のせいで壊されたのだ。
この屋敷を管理する為メイドたちが連れてこられたのは、きっと私のせいだ…。
幼馴染がこうなったのは、私が意地を張って無駄な抵抗をしたせいだ…。
物言わぬ正気のない目が、私を睨んでいるように見えてきた。どれだけ謝罪しても、一生この罪を償えない。それなのに悪魔はこの件に反省するどころか、望んでないのにこれからも私の為に能力を使おうとする。
どうすれば…どうすれば良い…?
「…なきゃ…」
「だ、大丈夫? やっぱり料理で気分が悪くなった?」
「戦わなきゃ…」
私は立ち上がって先程まで座っていた椅子の背ばしらを掴み、両手で持ち上げ悪魔に向かって振り上げた。
こんなにも心が怒りで満ちているのに、振り下ろそうとする時に一瞬固まってしまった。
これもきっと私の体内に僅かに流れる悪魔の体液のせいだ。非現実的な考えではあるが、こんな状況ではそうとしか思えない。そうであるなら説明がつく。
悪魔は咄嗟に腕で頭を庇い、思いきり振り下ろした椅子は大きな音を立てて腕に当たった。
美しい木製の椅子からミシッと軋む音が聞こえた。
全力で振り下ろしたのだ。頭に当たらなかったとはいえ、腕でも相当痛いはず。普通なら腕にヒビが入ってもおかしくないほどの衝撃だったと思う。
「わっ、驚いた…どうしたの?」
それなのに悪魔は痛がっている様子はない。悔しくてもう一度椅子を振り下ろす。
それも直撃したが、悪魔は困惑しているだけで痛がっている様子はない。
「ノエルちゃん、落ち着いて!」
「うるさい!!」
制止を無視してもう一度…何度でも振り上げてやる!
悪魔は後ろに飛んで避け、椅子が床を叩きつけた。椅子は壊れて脚の一部が取れてどこかへ飛んでいった。
衝撃で腕が痺れる。大きな物をこんなに振り回すのは初めてで、肩が軋む。
悪魔が心配そうに声をかける度に、倒さなきゃと確かに思っているのに、心が『止まれ』と訴えかけてくる。
無視できない肩の痛みと、ぐちゃぐちゃに心をかき乱される辛くて、ボロボロと涙が溢れ出てきた。
苦しいけどやらなくては…このままこの悪魔を野放しにしておけば、私の心は少しずつ侵食されていき、もっと沢山の女性が犠牲になる。悲劇の連鎖を断ち切る為には、私がこの悪魔を倒さなきゃいけないんだ。
嗚咽を漏らしながら、脚が折れた椅子をギュッと握りしめた。
「駄目っ、危ないよ!」
言葉で制止しても一向に攻撃を止めない私に痺れを切らしたのか、悪魔は椅子を振りかぶろうとする私の手を強く握って動きを止めた。
咄嗟のことで驚いた上に腕が痺れていたので、そのまま椅子は床に落ちる。
悪魔は腕を掴んだままこちらを心配そうに見てくるが、今の私にはこいつがただ人を仇なす化け物にしか見えず泣き叫びそうになった。
下唇を強く噛み、声が出そうになるのを我慢しながら腕を振り払おうと必死で暴れる。
「待って、落ち着いて話をしよう?」
悪魔の目が僅かに光る。足で蹴り上げようとしても、腕を振り払おうとしても全く動かない。
おそらく相手の動きを操作する魔法で私の動きを封じているのだろう。
こちらはずっと必死なのに相手は慌てず、ずっとこちらを宥めようとしてくる。どれだけ暴れようと、この悪魔には敵わない。力の差が大きすぎて、私の抵抗など無力な赤子が泣き叫んでるようにしか見えないだろう。
脱臼してしまいそうなほど必死にもがいても、僅かに腕が動くだけ。
動かせないものを動かそうとしているせいで肩が痛くなる。悔しくて悔しくて、余計に涙が溢れ出てくる。
「ごめんっ」
その言葉と同時に私の唇に温かくて柔らかいものが触れた。
一瞬何が起きたのか分からなかったが、目を見開くと目の前に悪魔の顔があった。
すぐに悪魔が私の唇を奪っている事に気付いた。
「…っ!! っんんーー!!」
このままではまずい。大変な事になる。
頭では冷静になるべきだと分かっているのに、私は羞恥と焦りでパニックになっていた。
唇に触れられた瞬間、私は驚いて少し口を開いてしまったのだ。そこに悪魔の…温かく湿った舌が入り込んできた感覚がする。
唇から逃れようと首を大きく振り、動かない身体を捻って離れようとするが、悪魔は私を後ろにある机に覆い被さるようにして押さえつけてくる。
唇から逃れても噛みつくようにまた唇と唇を重ねられる。舌を絡まされ、聞きたくない水音が聞こえた。
そして次第に私の力が抜けていった。
許せないのに、抵抗したいのに、逆らおう思うとすぐに頭が真っ白になって思考が止まる。悪魔の意思に従うように、私は身体から力が抜けてそのままぺたりと机に倒れた。
抵抗を止めると悪魔は唇を私から離した。視界の端に唾液が糸を引いた線が見え、ああ、もう駄目だと悟った。
怒りをぶつける事も出来ない。罵倒しようにも言葉になる前に消えてしまう。もうこの悪魔の意に反した行動をする事どころか言葉を吐く事も出来ない。
“私”である部分は、もうこの僅かな意思しか残っていない。それですらもう白みがかって消えていきそうだ。
唇を離した悪魔は気まずそうに顔を下に向ける。顔が真っ赤で、自分から接吻してきたくせに照れているようだった。
…先程からお腹あたりに熱くてかたいものが当たってる。突き飛ばしたいと思ったがそれができず、視線を下に向けると悪魔は慌てて飛び退いた。
「ごごごごめんっ!! 君を落ち着かせたかっただけなんだ。無理矢理は絶対にしないから!! でも、いきなりキスしてごめんね。どうすれば良いか分からなくて…」
真っ赤な顔で気まずそうに弁解したかと思えば、本当申し訳なさそうに謝ってきた。
ころころと変わる表情が愛おしいと感じた。笑顔で抱きしめたいと感じた。…感じてしまった。
もう“私”は限界のようだ。この意思も、きっと長く持たない。
少し前まで矛盾する2つの心に引き裂かれそうだったが、それさえもう感じないのだ。
…しかし、
……先日までの私はどうかしていた。彼を受け入れればこんなにも気持ち良いのに。
「暴れてごめんねキズナ。私がどうかしていた」
「えっ!! ノエルちゃんが僕の名前を…!?」
ああそうか、そういえば彼の名前を呼んだこと無かったっけ。
1番初めに自己紹介されていたはずなのに、なんでだっけ?
何かが気に入らなかった気がするけど、どういうわけかうまく思い出せない。思い出そうとすると頭が真っ白になっていく。
…いや、本当は僅かに思い出せる。抵抗していた無駄な日々のことを。
そう、全部無駄な抵抗だった。そしてこれからも無駄なのだ。
“私”の意思など消えるべきだ。彼の望む存在になる、そうすれば全て丸く収まる。きっとこれ以上の犠牲者も出ない。
この僅かに残る意思を消し去って、早く楽になってしまいたい。
私は机から起き上がり、彼に近づいた。
彼は慌てて一歩後ろにさがったが、彼の身体にそっと身を寄せ、胸に優しく触れた。
彼は私の行動にどうするべきかと困惑しているが、行動そのものは嬉しいようで私を突き放す気はなさそうだ。
今まで彼からスキンシップをされた事はあったが、自分から彼に触れたのは初めてだった。
「いきなりでごめんなさい。でも私、キズナが欲しい。キズナに奥底まで触れてほしい」
そう言って彼の下腹部に触れた。彼は突然水をかけられた猫のように飛び上がり、真っ赤な顔でわなわなとしている。数々の女性を強姦してきた悪魔とは思えないウブな反応だった。
まだ熱は治まっていないようで、衣類の上からでも反応しているのが分かった。
「あ、いや、ご飯とか…お風呂もまだだし…その…」
「今すぐが良い…駄目…?」
上目遣いで甘えるように言った。
普通に考えればこんな急な誘いなんて怪しいものだが、彼はいつも私の分かりやすい嘘も信じる。それが今は有り難かった。
普段ならこんな言葉、演技でも喉がつっかえて言えないのに…彼が本心では望んでいる事だからだろうか、あっさり口から溢れ自分でも驚いた。
「駄目なわけがない…! ちゃ、ちゃんと優しくするからね!」
「うん、有り難う」
彼は私の肩に腕を回して優しく抱きついてきた。
不気味なほど心地よくて、本当に全て身を任せてしまいそうだ。流れるようにベッドに誘われ、お互い横に並ぶように座る。
横目で幼馴染を見ると、彼女は無言で殆ど手をつけていない料理を持ってこの部屋から出て行こうとしていた。
気付かなければ良かったのに、幼馴染に一筋の涙が頬を伝っているのが見えた。
嫌なものを見せつけてごめんなさい。助けられなくて…こんな事に巻き込んで、本当にごめんなさい…。
「ノエルちゃん…」
口から謝罪の言葉が出る前に、彼に…キズナに名前を呼ばれる。
彼の片手が優しく頬に触れ、視線を合わせる。
顔を真っ赤にして緊張しているようだったが、その真剣な目は真っ直ぐとこちらを見ていた。
瞳を閉じて僅かに唇を突き出すと、すぐに彼の唇と触れ合った。ゆっくりお互いの舌を絡ませれば、残っていた僅かな意思も消えていく。
最後に聞こえたのは幼馴染が部屋の扉を閉める、バタンという音だった。
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