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窓の外は昨夜の嵐が嘘のように晴れ渡り、柔らかな朝日が寝室に差し込んでいた。
「う……ん……」
首の疼痛で眠りから引き戻され、ノエルが重い瞼を開ける。最初に視界に入ったのは、ベッドの傍らに腰掛け、自分の手を両手で包み込むように握りしめている父の姿だった。
「……お父様……?」
傷付いた喉から漏れるかすれた声に、ギルバートの肩が大きく震える。その顔にはいつもの厳格な面影はなく、ただただ愛する息子を失いかけた恐怖と深い後悔が浮かんでいた。
「……ノエル。……ああ、ノエル……よく生きていてくれた……」
ギルバートはノエルの手を自分の額に押し当て、何度も、何度も、謝罪の言葉を漏らしながら震えていた。
すると部屋の扉が静かに開き、非の打ちどころのない漆黒の軍礼装に身を包んだレオンが現れる。その胸元には、昨日まで父が着けていた当主の証である紋章が輝いていた。
「兄様。目が覚めたのですね」
レオンはベッドの脇へ歩み寄るとノエルの枕元に膝をつき、壊れ物を扱うような手つきでその白い頬を撫でる。その瞳はまるで春の陽だまりのように穏やかで、慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
「数日は大事を取って、ゆっくり休んでください。学院へは僕が話してきます。……兄様が嫌な思いをする必要は、もう二度とありませんから」
「レオン……でも……」
「大丈夫ですよ。すべて僕が『片付け』ます。兄様はただ、僕の帰りを待っていてくれればいいんです。……いいですね?」
レオンはノエルの額に優しく口づけを落とすと、安心させるように微笑み、部屋を後にした。
パタン、と扉が閉まったその瞬間。
レオンの顔から、一切の感情が剥がれ落ちる。廊下を歩き出した彼の背筋は凍てつくように伸び、その双眸には、夜の底よりも深い、暗く冷たい殺意が宿っていた。
「……さて」
レオンは手袋の指先を、一分の狂いもなく整える。すれ違う使用人たちが、その凄まじい威圧感に、壁際に張り付いて動けなくなるほどの狂気が彼から溢れ出していた。
「僕の兄様を邪魔だと言い放ち、あのような遺書を書かせた不届き者は……どこのどいつだったか」
廊下に出たレオンの瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
父には過去を悔いるために部屋に残らせた。それならば。
それならば、自分は、兄の未来を汚す全ての芽を摘み取るために、闇の中へ足を踏み出すのみだった。
◆
学院に到着したレオンは、校舎の影にある静かなガゼボにカイルとメアリを呼び出した。
朝の清らかな空気の中、レオンが放つ威圧感は、昨日までの『優秀な留学生』のそれとは一線を画していた。
彼は用意させた椅子に深く腰掛け、目の前で直立不動のまま震えている二人に、氷のように冷たい、けれどどこか切実な声をかけた。
「座れ。……昨夜は、兄様を救ってくれて本当に感謝している。だが、今日は礼を言いに来たわけではない」
レオンは手袋を脱ぎ、細く長い指を組む。その双眸は、逃げ場を許さない鋭さで二人を射抜いた。
「僕が学院にいなかった六年の間、この学院で何があったのか。誰が、どのような言葉で兄様の心を削り、あそこまで追い詰めたのか。……一言一句もらさず、すべてを吐き出せ」
カイルとメアリは恐怖で震えながら顔を見合わせる。ノエルとの口止めの約束が脳裏をよぎったが、目の前のレオンに宿る狂気を前にして、もはや隠し通すことは不可能だと悟った。
「……酷くなったのは、レオン様が飛び級して留学が決まった頃からです」
カイルが震える声で語り始めた。
「その前から家系を妬む陰口はしばしばありました。でも、ノエルが一人になった途端、有力貴族のグループ……特に、ビスコフ家の子息たちが、ノエルを『出来損ない』と呼び始めました。最初は教科書を隠したり、泥をかけたりする程度だったのが、レオン様の成績が届くたびに、いじめはエスカレートしていって……」
メアリが涙を拭いながら言葉を継ぐ。
「彼らは……ノエル様に『お前がいるだけで弟の経歴に泥がつく』『お前が消えればレオン様は完璧な当主になれる』と、毎日、耳元で囁き続けたんです。ノエル様は、私たちが声を上げようとするたびに、『二人の家が潰されてしまうから』と言って止めて……」
語られる空白の六年間。
ノエルが一人で耐えてきた苦痛。
弟の活躍を喜ぶ一方で、その活躍が自分を死へ追いやる刃として突きつけられていたという残酷な真実。
レオンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。 組んだ指が白くなるほど強く握りしめられ、爪が食い込み、骨の軋む音が響いた。
「……僕が、兄様を殺しかけていた。それは、比喩ではなく事実だったということか」
唸り声のような呟きと共にレオンがゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや怒りを超えた静寂が宿っていた。
「カイル、メアリ。……よく話してくれた。これで、誰を消すべきか明確になった」
レオンは懐から手帳を取り出し、二人が挙げた名前を書き留める。それを従者に手渡すと、中を確認した従者は足早に去っていった。
「今日、この学院から『ゴミ』が一掃される。特等席でそれを見ていろ」
レオンは踵を返し、校舎へと歩き出す。 その背中には、最愛の兄を地獄へ突き落とした世界すべてを食い尽くす、若き魔王の影が落ちていた。
しかし、そんなレオンの背中に絞り出すような泣き声がぶつけられた。
「待ってください、レオン様……っ!」
カイルとメアリが、崩れ落ちるようにその場に膝をつく。二人の目からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
「あいつらに罰を与える気なのなら……僕たちにも、僕たちにも与えてください!僕は、ノエルが泥をかけられているときも、隠れて見ていることしかできなかった!友達だなんて言いながら、自分が可愛いだけで、あいつらが怖くて……っ!」
カイルは拳で地面を叩き、泥に汚れながら叫ぶ。メアリもまた、顔を覆って激しく肩を揺らした。
「私も……私も同じです!ノエル様が一人で泣いているのを知っていたのに、口止めされたからって、それを言い訳にして、何も……!結局、私たちがノエル様を孤独にしていたんです。あいつらと同じ、私たちもノエル様を殺そうとした共犯者です……っ!」
二人の告白は、友人を裏切り続けてきたという自責の念に焼かれた、魂の叫びだった。
彼らもまたノエルを愛していたからこそ、自分たちの弱さが許せなかったのだ。
レオンは足を止め、振り返る。 その瞳は依然として冷徹なままだったが、泣きじゃくる二人を見つめる眼差しに、微かな、けれど確かな変化が生じた。
レオンはゆっくりと二人の前まで戻ると、その場に屈み込み、カイルとメアリの視線と同じ高さに合わせた。
「……自分たちも罰しろ、か」
レオンは低く呟き、静かに首を振った。
「勘違いするな。お前たちが声を上げれば、お前たちの小さな家門など、ビスコフ家の連中に一日で握りつぶされていただろう。そうなれば、兄様はさらに自分を責め、昨夜よりもずっと早く、もっと残酷な形で命を絶っていたはずだ」
レオンの手がカイルとメアリの肩に置かれ、ぎゅっと握りこまれた。
「お前たちが今日まで友人として兄様の傍にいてくれたから、兄様は昨日まで生き延びることができた。……兄様を救えなかったのは、この僕だ。最強の剣として育てられながら、一番守るべき人の悲鳴に気づかなかった、この無能な弟だ」
レオンは立ち上がり、空を仰ぐ。その横顔には二人への憐憫と、自分自身への激しい嫌悪が入り混じっていた。
「……これまでと変わらず、友人として兄様と接し続けろ。これからも兄様の傍にいて、兄様が編む花冠を笑って受け取ってやってくれ。それが、お前たちに課す罰だ」
レオンは二人に背を向け、今度こそ迷いなく歩き出した。
「……さて。空疎な力に溺れ、弱者を踏みにじることを愉悦としていたゴミ共に、本当の『力』というものを教えてやるとしよう」
カイルとメアリが涙を拭って顔を上げたとき、レオンの姿はすでに校舎の影へと消えていた。
その直後。学院の静寂を切り裂くように、全校生徒を講堂へ集める緊急の鐘が鳴り響いた。
◆
学院の講堂は異様な緊張感に包まれていた。
全生徒が集められた緊急集会。その壇上に立っていたのはいつもの老教師ではなく、漆黒の軍礼装に身を包み、冷徹な美貌を湛えた一人の少年―――レオン・レルプスだった。
その胸元には、昨日まではなかったレルプス家当主の銀の印章が朝日を浴びて残酷なまでに輝き、その光は講堂に集うすべてを威圧していた。
「静粛に」
レオンの冷たく通る声が講堂に響いた瞬間、何事かとざわついていた数百人の生徒たちが一斉に息を呑んだ。
その場にいる全員が本能で理解した。
今、目の前にいるのは『氷の天才』ではなく、自分たちの生殺与奪の権を握る『レルプス公爵』その人であると。
「私の兄、ノエル・レルプスは……争いを拒み、その微笑みですべてを癒し、野に咲く花を愛で、不器用ながらも心を込めて花冠を編む、この世で最も美しい魂の持ち主だ」
レオンの瞳には、愛おしい兄を想う慈愛と、それを汚されたことへの底知れぬ怒りが同居していた。
「兄様の瞳は凍てついた心をも溶かす太陽だ。兄様の声はすべてを等しく包み込む愛だ。兄様の指は花冠を編むためだけに使われるべき芸術品だ。あれほどまでに美しく愛されるべき存在を、弟である私ですら直視できないほどの清らかな光を……貴様たちは、なぜ、あそこまで追い詰めたのか」
沈黙。誰もが息を呑む中、レオンの声は突如として激昂へと変わった。
「貴様らが寄ってたかって踏みにじったのは、単なる『気弱なウサギ』ではない!このレルプス家が、そして私が、この世の何よりも尊び、守り抜くと決めた聖域だ!そんな兄様の瞳を絶望に曇らせ、自責の言葉を吐かせ、己を殺す縄を編ませたのは誰だッ!!」
凄まじい怒り、あまりにも深い憎悪。レオンは手元にある名簿を一瞥もせず、冷たい視線を客席へと投げかけた。
「私が不在だった六年の間、この学院で、我が一族の光―――ノエル・レルプスに対し、その尊厳を泥に塗れさせ、死を教唆したゴミ共がいるはずだ。……心当たりのある者は、前へ出ろ」
静まり返った講堂にノエルの声が響く。誰一人として身動き一つできない中、ウェルデとその取り巻きはあまりの恐怖にガタガタと膝を震わせて互いに縋り付こうとしていた。
「……出てこないのなら、こちらで指名してやろう。一族ごと、根絶やしにされる覚悟ができている者から順番に」
レオンはゆっくりと壇を下り、獲物を追い詰めるオオカミのような足取りで歩く。呼吸ひとつできないほどの威圧感を滲ませながら、ウェルデの前でその足を止めた。
「……ウェルデ・ビスコフ。貴様だな。昨日、兄様に『縄の結び方』を考えさせるきっかけを与えたのは」
「な、何を……!僕はただ、少し冗談を……っ!」
その言葉が終わる前に、レオンはその喉元を素手で掴み上げた。凄まじい力でヴェルデの足が宙に浮き、周囲からは悲鳴が上がったが、レオンの背後に控える武装したレルプス家の私兵たちがそれを力で黙らせた。
「『冗談』?冗談で兄様の首に消えない傷を刻んだというのか?……貴様の家系がこれまでに築いてきた地位、領地、そして貴様自身の命。それらすべてを秤にかけても、兄様が流した涙一滴の重さにすら及ばない」
喉元を掴んだ手がギリギリと音を立てて締め付けていく。ウェルデが目前に迫る死に怯えて瞳を潤ませるのを見て、レオンはその手を放した。
「……安心しろ、殺しはしない。兄様は血の臭いを嫌う。……兄様の清らかな世界に、貴様らの汚らわしい死体などという塵ひとつ、遺すわけにはいかないからな」
床に落とされ、必死に酸素を吸い込むウェルデの耳元で、レオンは地獄の底から響くような声で囁いた。
「だが、今日をもって、貴様らの名を貴族名簿から抹消する。家産は没収、一族郎党追放だ。二度と兄様の視界に入るな。その卑しい存在で、兄様の空気を汚すことさえ許さない」
「そ、そんなこと、お前にできるわけ……」
「できるさ。今の私はただの生徒ではなく、レルプス家第十四代当主だ。貴様らの家門が抱える傷口に刃を突き立て、その身を抉ることなど容易い」
その後もウェルデを筆頭に次々と指名され、生徒やその下僕となっていた教師たちが私兵たちによって次々と引きずり出されていく。
昨日までノエルを無能と笑っていた者たちは、今や家系図ごと抹殺される恐怖に、無様に這いつくばって許しを請うていた。
「……これで、少しは空気が綺麗になったか」
そう吐き捨ててレオンは踵を返し、一度も振り返ることなく講堂を去る。 向かう先は、ただ一人。自分を待っている、世界で一番優しく愛おしい兄のいる場所だった。
◆
夕闇が迫る中、レルプス家屋敷の玄関を学院での断罪を終えたレオンが潜ると、張り詰めていた緊張が解れて小さな溜息をついた。
聞こえてくる声につられてレオンが食堂へ向かうと、かつて勇猛果敢に剣を振るい敵を震え上がらせたと聞く父が、椅子にちょこんと座ったノエルの隣で小さな果物ナイフを手に悪戦苦闘していた。
「ただいま戻りました、兄様。……そして父上、何をしているんです?」
「レオンか。リンゴを食べさせてやりたいのだが……なかなかどうして、これが難しいものでな……」
「ふふ。お父様、そんなに厚く切ったら食べるところがなくなっちゃうよ」
大きな手を震わせ、我が子に笑われながら不器用にリンゴを剥く父。その背中は丸まり、どこか安らいで見えた。
掟を強いる『教育者』ではなく、ただの不器用な『父親』へと少しずつでも戻ろうとしている。そんな父の姿に、レオンは少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「……片付いたようだな、レオンよ」
「はい。学院を『掃除』してまいりました」
リンゴを剥く手を止めてギルバートが呟く。返り血こそ浴びていないものの、レオンの全身から漂うどろりとした断罪の残り香を、彼は敏感に察知していた。
ギルバートは、学園で何が起きたのか、息子がどれほどの地獄を現世に現出させてきたのかを悟り、そして、その役目は本来なら親である自分が背負うべきだったのだと、深く、深く悔いる表情を浮かべた。
レオンはノエルの隣へ座り、手袋を外して彼の手にそっと自らの手を重ねる。手のひらを通して伝わってくる体温に涙が出そうになるが、その首に痛々しく残る赤黒い索状痕を見て、彼の心臓は締め付けられるように痛んだ。
レオンは懐から、帰りに買ってきた小さな箱を取り出す。中には最高級のシルクで作られた、白詰草の刺繍が施された美しいチョーカーが入っていた。
(また、兄様の首に何かを巻き付けるのか……)
一瞬、手が止まる。索状痕の上に何かを置くことは、あの恐怖を思い出させてしまうのではないか。
しかし、レオンは決意を込めてノエルにそのチョーカーを見せた。
「兄様。これを……着けさせてください」
「わあ……綺麗だね、レオン」
ノエルは何も疑わず、愛らしく首を傾げる。レオンは震える手で、その酷い傷跡を覆い隠すように、優しく、本当に優しくチョーカーを付けた。
(この傷も、この記憶も。僕がこれから、溢れるほどの幸せで塗り替えてみせる。二度と、死の影なんて兄様に触れさせない)
カチリ、と小さな留め具の音が響く。 それは、絶望からの決別と、レオンによる永遠の執着の誓いだった。
「似合いますよ、兄様。世界で一番、綺麗だ」
「ありがとう、レオン。……ふふ、なんだか少し、くすぐったいね」
ノエルはそう言って、かすれた声で、けれど心から嬉しそうに微笑んだ。
窓の外には、嵐の後の澄んだ夜空に、美しい月が昇っていた。
◆
学院を揺るがした断罪の日から数日。学院には輝かしいばかりの春が訪れていた。
校門の前に停まったレルプス家の豪華な馬車から、新当主の礼装に身を包んだレオンと首元に美しい白詰草のチョーカーを纏ったノエルが降り立つと、息を切らして駆け寄る二つの影があった。
カイルとメアリ。彼らはまだどこか緊張した面持ちで、自分たちより遥かに高い地位に就いたレオンを前に、深く頭を下げようとした。
「あ、あの、レオン様、ノエル様……!」
しかし、レオンはその動きを片手で制し、二人を見つめて静かに、けれど温かな声で告げた。
「カイル、メアリ。……畏まる必要はない。僕がこの学院を不在にしていた六年もの間、兄様を支え、孤独から救ってくれたのは他でもない、君たちだ。僕からも、改めて礼を言わせてほしい。ありがとう」
レオンは一国の主のような気品を保ちながらも二人の目を見て深々と一礼した。
「これからは、僕も傍にいる。だが……改めて、君たちは今までと変わらず兄様の良き友人でいてやってほしい。……いや、今まで以上に、兄様を笑わせてやってくれないか。先日は冷静さを欠いて悪い言い方になってしまったが……これは命令でも罰でもなく、一人の弟としての、心からの願いだ」
レオンの言葉に、カイルとメアリは目を見開き、顔を見合わせる。昨日までの恐怖や自責の念が、レオンの真摯な言葉によって、すっと溶けていくのを感じた。
「……はい! もちろんです、レオン様!」
カイルが顔を輝かせて答えると、隣でノエルがふふっと、鈴を転がすような声で笑った。
「二人とも、レオンの言う通りだよ。……それにね、僕からもお願いがあるんだ。その、『様』っていうのを外してくれないかな?」
「えっ……? で、でも、そんな失礼な事は……」
戸惑うメアリにノエルは一歩歩み寄り、二人の手をそっと取って優しく微笑んだ。
「敬語もいらないよ。僕たちはもう、隠し事のない『親友』になりたいんだ。だから……カイル、メアリ。僕のことも、呼び捨てで呼んでほしいな」
「ノエル……!」
「……うん、ノエル! よろしくね!」
二人は弾かれたように笑顔になり、ノエルの名を呼ぶ。それを見守るレオンの表情も、兄を慈しむ穏やかなものに変わった。
「ちなみに、兄様に免じ私のことも呼び捨てを許可します。遠慮はしないよう」
「……いえ、それはちょっとやめておきます」
先日の記憶が甦ったのか、カイルとメアリがぶるっと体を震わせて苦笑いし、それを見たノエルが不思議そうに笑った。
「さあ、兄様。一緒に行きましょう。兄様を待っている人たちがたくさんいる」
レオンがノエルの手を取り、歩き出す。ノエルの首のチョーカーは、もはや傷を隠すためのものではなく、愛されている証としての輝きを放っていた。
「……あれ?」
校舎に入った瞬間、ノエルは不思議そうに周囲を見渡した。
ノエルを中心に、レオン、カイル、メアリの四人が並んで校舎に入ると、昨日までの冷ややかな視線はどこへやら、生徒たちは憧憬と親愛、そして一部のものは恐怖を込めて彼らを見守っていた。
いつもなら彼が廊下を通るたびに投げつけられていた嘲笑や、わざとらしく肩をぶつけてくる者たちの気配が忽然と消え失せている。それどころか、廊下ですれ違う生徒たちはノエルと目が合った瞬間に弾かれたように道を譲り、深く頭を下げて彼が通り過ぎるのを待つようになっていた。
「ねぇ、レオン。……みんな、なんだかとても静かだね?」
「そうですね。きっと、兄様の尊さにようやく気づいたのでしょう」
ノエルの疑問にレオンは涼しい顔で答える。しかし、その瞳には冷徹な光が宿っていた。
教室に入ると、ノエルを最も執拗にいじめていたあのウェルデの席が、空席になっていることに気づく。それだけではなく、彼の取り巻きだった数人の生徒たちの姿も同様に消えていた。
「あの、みんなはどうしたの? ウェルデくんも、あの子のお友達もいないみたいだけど……」
ノエルの問いに、カイルは一瞬レオンの方を窺い、それから声を潜めて答えた。
「……あいつらは、全員『自主退学』したんだ。爵位の相続権を放棄して、遠い北方の領地へ引っ越したって噂だ。二度と王都には戻らないってさ」
「えっ、そんな……急にどうして?」
「さあ……。でも、あいつらの家には一斉に会計監査が入ったらしい。……とにかく、もうノエルを傷つける奴は、この学校には一人もいない。それは確かだ」
ノエルは驚いたように目を丸くしたが、隣で自分の荷物を机に置き、流れるような動作で椅子や机を拭きあげている弟の横顔を見て、すべてを悟った。
レオンが、自分のために動いてくれたのだと。 自分が知らない間に、あの恐ろしい悪意の嵐を、すべて凪ぎ払ってくれたのだということを。
「……レオン。ありがとう」
ノエルは、チョーカーにそっと触れながら、弟にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「……お礼なんていりません。兄様が、ただそこで笑ってくれていれば、それでいいんです」
レオンは兄の細い肩を引き寄せ、額に口づけをして微笑む。 あの日から学院の権力図は一夜にして書き換えられ、ノエルを頂点とする不可侵の聖域へと作り替えられていた。
中庭の白詰草は、今日も風に揺れている。もうそれを踏みにじる靴はどこにもなく、ノエルはカイルやメアリと共に、心ゆくまで花を編むことができるようになっていた。
かつては怯えながら隠れていた裏庭の庭園も、今ではノエルのお気に入りの居場所になっていた。
色とりどりの花が咲き誇る中、ノエルは慣れた手つきで白詰草を編んでいく。隣ではメアリが紅茶を注ぎ、カイルが今日の授業のノートを広げていた。
「ノエル、今日は一段と綺麗な花冠だね」
「うん、これは後でレオンにプレゼントしようと思って」
そう言って微笑むノエルの表情には、もう一抹の翳りもなかった。
授業中。体が弱く勉強が遅れがちだったノエルにレオンが教師を手配し、毎日新しい知識を吸収していく。自分のペースで、少しずつ。昨日分からなかった問題が、今日解けるようになる。そんな当たり前の学びの喜びを、ノエルは噛み締めていた。
また、図書室はノエルにとって宝の山だった。
「見て、この植物図鑑……!異国の花がたくさん載っているよ」
キラキラと目を輝かせ、分厚い図鑑を広げるノエル。
かつて『無能』と蔑まれたその知的好奇心は、今、親友たちに見守られながら、ゆっくりと、けれど確実に芽吹いていた。
カフェテラスでのランチタイムは、学院中の注目を集める幸せの象徴となっていた。
かつて彼らを虐げていた者たちの姿はなく、遠巻きに見守る生徒たちも、ノエルの屈託のない笑顔に思わず顔をほころばせていた。
そして最も苦手だった運動も、かつては『出来損ない』と嘲笑われた時間だったが、今は違っていた。
「ノエル! 無理しないで、自分のペースでいいからな!」
カイルの声援を受けながら、ノエルは一生懸命にトラックを走るが、足は遅くすぐに息が切れてしまう。それでも、走り終えた後にメアリが差し出す水とカイルが差し出すタオルの温もりが、ノエルに頑張ることの楽しさを教えてくれていた。
ふと見上げると、高等部の校舎の窓から、弟のレオンがこちらをじっと見守っているのが見える。視線が合ったレオンが小さく手を振ると、それに応えるようにノエルもまた精一杯に手を振り返した。
武力でも知性でもなく、ただそこにいて、笑っているだけで周囲を幸せにする。 それこそが、レルプス家の長男ノエルが持つ、歴代当主たちが誰一人として手にできなかった、何よりも気高く強い『力』だった。
夕暮れ時。オレンジ色の光に染まった帰宅路を、四人はゆっくりと歩く。校門を出る際、ノエルがふと足を止め、黄金色に輝く学び舎を振り返った。
「……僕、学校が楽しいって思ったの、生まれて初めてかもしれない」
柔らかい風に垂れ耳をなびかせ、ノエルが独り言のように呟く。その一言に、隣を歩いていたカイルとメアリの足が止まった。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく視線を伏せ、ボロボロと大きな涙をあふれさせた。
「ノエル……。ごめん、もっと早く、もっと早くそう言わせてあげたかった……!」
「……よかった。本当によかったね、ノエル……!」
「えっ?えっ?どうして泣くの?」
二人の嗚咽に驚きながらも、ノエルは慌てて二人の背中を優しく撫でる。その様子を少し後ろから見ていたレオンは、夕闇に紛れるようにして、自身の胸元にある当主の紋章を強く握りしめた。
(ああ、兄様。貴方のそのたった一言を守るために、僕は地獄を歩いてきたんだ。……そして、これからも)
レオンの胸に宿る『渇き』は、もはや狂気ではなく、兄の笑顔を照らすための静かな灯火へと昇華されていた。
◆
その日の夜。
しんとした静寂が包む書斎で、レオンとギルバートは二人、向かい合っていた。
机の上には、ノエルが「お父様に」と置いていった、少し形はいびつだが心のこもった白詰草のブローチが置かれていた。
「父上。……兄様が今日、『学校が楽しい』と言ってくれました」
レオンの言葉に、ギルバートはブローチを見つめたまま、深く、長く息を吐き出した。
「……そうか。あの子にそんな当たり前のことを言わせるまでに、私はどれほどの時間を無駄にしてしまったのか」
「後悔は……僕たちが一生かけて背負うべき義務です。ですが、父上」
レオンは真っ直ぐに父を見据える。その瞳には、かつての反抗心ではなく、同じ後悔を共有する男としての連帯感が宿っていた。
「僕は、兄様をもうレルプスの型には嵌めさせません。兄様は、ただのノエルであればいい。……その代わりに、僕がレルプスのすべてを背負います。汚れ仕事も、権力闘争も、誰かへの殺意も、すべて僕のところで止めてみせる」
レオンは一歩前に踏み出し、父の前に膝を突いた。
「どうか、これからは僕を、最も冷酷な当主としてお使いください。父上はただ、兄様の『優しいお父様』でいてあげてください。それが、僕たち二人が兄様にできる、唯一の罪滅ぼしです」
ギルバートは震える手でレオンの肩を掴んだ。
「……すまない、レオン。お前にすべてを押し付けることになる」
「いいえ。これが僕の望んだ、『幸せ』の形ですから」
書斎の空気は、数日前までの緊張が嘘のように、穏やかで親密なものへと変わっている。机の上に置かれた白詰草のブローチを見つめながら、レオンはふと視線を落とし、心に秘めていた『最終的な執着』を口にした。
「父上……もし、いつか兄様が許してくれるのなら。僕は兄様を、伴侶として迎えたいと思っています」
その言葉に、ギルバートは一瞬虚を衝かれたように目を見開いたが、すぐに深く、呆れたような溜息をついた。
「……ノエルは、お前の兄だぞ。世間が、そして親族が黙ってはいるまい」
「レルプスの法は今や僕が決めます。誰にも文句は言わせない。兄様を他の誰かの腕に委ねるくらいなら、僕は……」
「わかっている。よせ、その先は言うな」
ギルバートは苦笑しながら、新当主となった息子の肩を叩く。しかし、次に発した声は低く、真剣そのものだった。
「……レオンよ。『渇き』が生涯続く呪いであることは私も熟知している。故に諦めろというつもりはない。……ただ、約束しろ。ノエルへの無理強いや、外堀を埋めて逃げ場を奪うような真似だけは絶対にするな。あの子の心が自由でなければ、それはあの夜の悲劇を繰り返すだけだ。お前の我欲であの子の翼を折ることは……親として、そして一人の男として、断じて許さん」
かつて『王国の鋭き刃』と呼ばれたギルバートの刺すような眼差し。レオンがそれを真正面から見据えて頷くと、父はふっと表情を崩した。
「……やはりこうなったか。お前のその瞳を見れば、ただの兄弟愛で収まるはずがないとは思っていた。『レルプスの渇き』とは、これほどまでに業が深いものだったのだな。……見ろ、リリィ。息子は、私以上に手に負えない愛し方を覚えたようだ」
ギルバートが穏やかな微笑みを湛える妻の肖像に呆れ混じりにそう話しかけると、レオンは少しだけ顔を赤らめて苦笑いし、それから真剣な表情に戻って父に向き直った。
「父上。あの夜、僕を信じて、すべてを僕に託してくださってありがとうございました。貴方が『当主』を捨てて『父親』に戻ってくれたから、僕は兄様を光の下に連れて帰ってくることができました」
ギルバートもまた、息子を見つめ、静かに頷いた。
「私の方こそ……お前があの夜、あの子を死の淵から救い出してくれたことに感謝している。お前がいなければ、私は今頃一生癒えぬ悔恨の中で朽ちていただろう。……ありがとう、レオン。お前が息子で良かった」
その言葉を聞いたレオンが晴れやかな顔で席を立ち、退室しようと扉に手をかけた背中に、ギルバートが少し照れくさそうに、けれど冗談めかした声をかけた。
「おい、レオン。……気が早い話だが、私はできれば孫の顔が見たい。もしお前たちが本当に添い遂げられたなら、血筋に拘らず早いとこ養子でも取って上手くやってくれ。レルプスの家が静かすぎるのは、リリィも寂しがるだろうからな」
その言葉に、レオンは思わず肩を震わせて噴き出した。
「ぷっ……あははは!父上、それはさすがに気が早すぎます! 僕はまだ、兄様に朝の口づけを額に許してもらうだけで精一杯なんですよ」
「なんだ?案外不甲斐ないな、公爵様は」
親子の笑い声が夜の書斎に響く。 かつて凍りついていた家族の絆はこうして、不器用ながらも新しい形へと溶け合っていったのだった。
「う……ん……」
首の疼痛で眠りから引き戻され、ノエルが重い瞼を開ける。最初に視界に入ったのは、ベッドの傍らに腰掛け、自分の手を両手で包み込むように握りしめている父の姿だった。
「……お父様……?」
傷付いた喉から漏れるかすれた声に、ギルバートの肩が大きく震える。その顔にはいつもの厳格な面影はなく、ただただ愛する息子を失いかけた恐怖と深い後悔が浮かんでいた。
「……ノエル。……ああ、ノエル……よく生きていてくれた……」
ギルバートはノエルの手を自分の額に押し当て、何度も、何度も、謝罪の言葉を漏らしながら震えていた。
すると部屋の扉が静かに開き、非の打ちどころのない漆黒の軍礼装に身を包んだレオンが現れる。その胸元には、昨日まで父が着けていた当主の証である紋章が輝いていた。
「兄様。目が覚めたのですね」
レオンはベッドの脇へ歩み寄るとノエルの枕元に膝をつき、壊れ物を扱うような手つきでその白い頬を撫でる。その瞳はまるで春の陽だまりのように穏やかで、慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
「数日は大事を取って、ゆっくり休んでください。学院へは僕が話してきます。……兄様が嫌な思いをする必要は、もう二度とありませんから」
「レオン……でも……」
「大丈夫ですよ。すべて僕が『片付け』ます。兄様はただ、僕の帰りを待っていてくれればいいんです。……いいですね?」
レオンはノエルの額に優しく口づけを落とすと、安心させるように微笑み、部屋を後にした。
パタン、と扉が閉まったその瞬間。
レオンの顔から、一切の感情が剥がれ落ちる。廊下を歩き出した彼の背筋は凍てつくように伸び、その双眸には、夜の底よりも深い、暗く冷たい殺意が宿っていた。
「……さて」
レオンは手袋の指先を、一分の狂いもなく整える。すれ違う使用人たちが、その凄まじい威圧感に、壁際に張り付いて動けなくなるほどの狂気が彼から溢れ出していた。
「僕の兄様を邪魔だと言い放ち、あのような遺書を書かせた不届き者は……どこのどいつだったか」
廊下に出たレオンの瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
父には過去を悔いるために部屋に残らせた。それならば。
それならば、自分は、兄の未来を汚す全ての芽を摘み取るために、闇の中へ足を踏み出すのみだった。
◆
学院に到着したレオンは、校舎の影にある静かなガゼボにカイルとメアリを呼び出した。
朝の清らかな空気の中、レオンが放つ威圧感は、昨日までの『優秀な留学生』のそれとは一線を画していた。
彼は用意させた椅子に深く腰掛け、目の前で直立不動のまま震えている二人に、氷のように冷たい、けれどどこか切実な声をかけた。
「座れ。……昨夜は、兄様を救ってくれて本当に感謝している。だが、今日は礼を言いに来たわけではない」
レオンは手袋を脱ぎ、細く長い指を組む。その双眸は、逃げ場を許さない鋭さで二人を射抜いた。
「僕が学院にいなかった六年の間、この学院で何があったのか。誰が、どのような言葉で兄様の心を削り、あそこまで追い詰めたのか。……一言一句もらさず、すべてを吐き出せ」
カイルとメアリは恐怖で震えながら顔を見合わせる。ノエルとの口止めの約束が脳裏をよぎったが、目の前のレオンに宿る狂気を前にして、もはや隠し通すことは不可能だと悟った。
「……酷くなったのは、レオン様が飛び級して留学が決まった頃からです」
カイルが震える声で語り始めた。
「その前から家系を妬む陰口はしばしばありました。でも、ノエルが一人になった途端、有力貴族のグループ……特に、ビスコフ家の子息たちが、ノエルを『出来損ない』と呼び始めました。最初は教科書を隠したり、泥をかけたりする程度だったのが、レオン様の成績が届くたびに、いじめはエスカレートしていって……」
メアリが涙を拭いながら言葉を継ぐ。
「彼らは……ノエル様に『お前がいるだけで弟の経歴に泥がつく』『お前が消えればレオン様は完璧な当主になれる』と、毎日、耳元で囁き続けたんです。ノエル様は、私たちが声を上げようとするたびに、『二人の家が潰されてしまうから』と言って止めて……」
語られる空白の六年間。
ノエルが一人で耐えてきた苦痛。
弟の活躍を喜ぶ一方で、その活躍が自分を死へ追いやる刃として突きつけられていたという残酷な真実。
レオンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。 組んだ指が白くなるほど強く握りしめられ、爪が食い込み、骨の軋む音が響いた。
「……僕が、兄様を殺しかけていた。それは、比喩ではなく事実だったということか」
唸り声のような呟きと共にレオンがゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや怒りを超えた静寂が宿っていた。
「カイル、メアリ。……よく話してくれた。これで、誰を消すべきか明確になった」
レオンは懐から手帳を取り出し、二人が挙げた名前を書き留める。それを従者に手渡すと、中を確認した従者は足早に去っていった。
「今日、この学院から『ゴミ』が一掃される。特等席でそれを見ていろ」
レオンは踵を返し、校舎へと歩き出す。 その背中には、最愛の兄を地獄へ突き落とした世界すべてを食い尽くす、若き魔王の影が落ちていた。
しかし、そんなレオンの背中に絞り出すような泣き声がぶつけられた。
「待ってください、レオン様……っ!」
カイルとメアリが、崩れ落ちるようにその場に膝をつく。二人の目からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
「あいつらに罰を与える気なのなら……僕たちにも、僕たちにも与えてください!僕は、ノエルが泥をかけられているときも、隠れて見ていることしかできなかった!友達だなんて言いながら、自分が可愛いだけで、あいつらが怖くて……っ!」
カイルは拳で地面を叩き、泥に汚れながら叫ぶ。メアリもまた、顔を覆って激しく肩を揺らした。
「私も……私も同じです!ノエル様が一人で泣いているのを知っていたのに、口止めされたからって、それを言い訳にして、何も……!結局、私たちがノエル様を孤独にしていたんです。あいつらと同じ、私たちもノエル様を殺そうとした共犯者です……っ!」
二人の告白は、友人を裏切り続けてきたという自責の念に焼かれた、魂の叫びだった。
彼らもまたノエルを愛していたからこそ、自分たちの弱さが許せなかったのだ。
レオンは足を止め、振り返る。 その瞳は依然として冷徹なままだったが、泣きじゃくる二人を見つめる眼差しに、微かな、けれど確かな変化が生じた。
レオンはゆっくりと二人の前まで戻ると、その場に屈み込み、カイルとメアリの視線と同じ高さに合わせた。
「……自分たちも罰しろ、か」
レオンは低く呟き、静かに首を振った。
「勘違いするな。お前たちが声を上げれば、お前たちの小さな家門など、ビスコフ家の連中に一日で握りつぶされていただろう。そうなれば、兄様はさらに自分を責め、昨夜よりもずっと早く、もっと残酷な形で命を絶っていたはずだ」
レオンの手がカイルとメアリの肩に置かれ、ぎゅっと握りこまれた。
「お前たちが今日まで友人として兄様の傍にいてくれたから、兄様は昨日まで生き延びることができた。……兄様を救えなかったのは、この僕だ。最強の剣として育てられながら、一番守るべき人の悲鳴に気づかなかった、この無能な弟だ」
レオンは立ち上がり、空を仰ぐ。その横顔には二人への憐憫と、自分自身への激しい嫌悪が入り混じっていた。
「……これまでと変わらず、友人として兄様と接し続けろ。これからも兄様の傍にいて、兄様が編む花冠を笑って受け取ってやってくれ。それが、お前たちに課す罰だ」
レオンは二人に背を向け、今度こそ迷いなく歩き出した。
「……さて。空疎な力に溺れ、弱者を踏みにじることを愉悦としていたゴミ共に、本当の『力』というものを教えてやるとしよう」
カイルとメアリが涙を拭って顔を上げたとき、レオンの姿はすでに校舎の影へと消えていた。
その直後。学院の静寂を切り裂くように、全校生徒を講堂へ集める緊急の鐘が鳴り響いた。
◆
学院の講堂は異様な緊張感に包まれていた。
全生徒が集められた緊急集会。その壇上に立っていたのはいつもの老教師ではなく、漆黒の軍礼装に身を包み、冷徹な美貌を湛えた一人の少年―――レオン・レルプスだった。
その胸元には、昨日まではなかったレルプス家当主の銀の印章が朝日を浴びて残酷なまでに輝き、その光は講堂に集うすべてを威圧していた。
「静粛に」
レオンの冷たく通る声が講堂に響いた瞬間、何事かとざわついていた数百人の生徒たちが一斉に息を呑んだ。
その場にいる全員が本能で理解した。
今、目の前にいるのは『氷の天才』ではなく、自分たちの生殺与奪の権を握る『レルプス公爵』その人であると。
「私の兄、ノエル・レルプスは……争いを拒み、その微笑みですべてを癒し、野に咲く花を愛で、不器用ながらも心を込めて花冠を編む、この世で最も美しい魂の持ち主だ」
レオンの瞳には、愛おしい兄を想う慈愛と、それを汚されたことへの底知れぬ怒りが同居していた。
「兄様の瞳は凍てついた心をも溶かす太陽だ。兄様の声はすべてを等しく包み込む愛だ。兄様の指は花冠を編むためだけに使われるべき芸術品だ。あれほどまでに美しく愛されるべき存在を、弟である私ですら直視できないほどの清らかな光を……貴様たちは、なぜ、あそこまで追い詰めたのか」
沈黙。誰もが息を呑む中、レオンの声は突如として激昂へと変わった。
「貴様らが寄ってたかって踏みにじったのは、単なる『気弱なウサギ』ではない!このレルプス家が、そして私が、この世の何よりも尊び、守り抜くと決めた聖域だ!そんな兄様の瞳を絶望に曇らせ、自責の言葉を吐かせ、己を殺す縄を編ませたのは誰だッ!!」
凄まじい怒り、あまりにも深い憎悪。レオンは手元にある名簿を一瞥もせず、冷たい視線を客席へと投げかけた。
「私が不在だった六年の間、この学院で、我が一族の光―――ノエル・レルプスに対し、その尊厳を泥に塗れさせ、死を教唆したゴミ共がいるはずだ。……心当たりのある者は、前へ出ろ」
静まり返った講堂にノエルの声が響く。誰一人として身動き一つできない中、ウェルデとその取り巻きはあまりの恐怖にガタガタと膝を震わせて互いに縋り付こうとしていた。
「……出てこないのなら、こちらで指名してやろう。一族ごと、根絶やしにされる覚悟ができている者から順番に」
レオンはゆっくりと壇を下り、獲物を追い詰めるオオカミのような足取りで歩く。呼吸ひとつできないほどの威圧感を滲ませながら、ウェルデの前でその足を止めた。
「……ウェルデ・ビスコフ。貴様だな。昨日、兄様に『縄の結び方』を考えさせるきっかけを与えたのは」
「な、何を……!僕はただ、少し冗談を……っ!」
その言葉が終わる前に、レオンはその喉元を素手で掴み上げた。凄まじい力でヴェルデの足が宙に浮き、周囲からは悲鳴が上がったが、レオンの背後に控える武装したレルプス家の私兵たちがそれを力で黙らせた。
「『冗談』?冗談で兄様の首に消えない傷を刻んだというのか?……貴様の家系がこれまでに築いてきた地位、領地、そして貴様自身の命。それらすべてを秤にかけても、兄様が流した涙一滴の重さにすら及ばない」
喉元を掴んだ手がギリギリと音を立てて締め付けていく。ウェルデが目前に迫る死に怯えて瞳を潤ませるのを見て、レオンはその手を放した。
「……安心しろ、殺しはしない。兄様は血の臭いを嫌う。……兄様の清らかな世界に、貴様らの汚らわしい死体などという塵ひとつ、遺すわけにはいかないからな」
床に落とされ、必死に酸素を吸い込むウェルデの耳元で、レオンは地獄の底から響くような声で囁いた。
「だが、今日をもって、貴様らの名を貴族名簿から抹消する。家産は没収、一族郎党追放だ。二度と兄様の視界に入るな。その卑しい存在で、兄様の空気を汚すことさえ許さない」
「そ、そんなこと、お前にできるわけ……」
「できるさ。今の私はただの生徒ではなく、レルプス家第十四代当主だ。貴様らの家門が抱える傷口に刃を突き立て、その身を抉ることなど容易い」
その後もウェルデを筆頭に次々と指名され、生徒やその下僕となっていた教師たちが私兵たちによって次々と引きずり出されていく。
昨日までノエルを無能と笑っていた者たちは、今や家系図ごと抹殺される恐怖に、無様に這いつくばって許しを請うていた。
「……これで、少しは空気が綺麗になったか」
そう吐き捨ててレオンは踵を返し、一度も振り返ることなく講堂を去る。 向かう先は、ただ一人。自分を待っている、世界で一番優しく愛おしい兄のいる場所だった。
◆
夕闇が迫る中、レルプス家屋敷の玄関を学院での断罪を終えたレオンが潜ると、張り詰めていた緊張が解れて小さな溜息をついた。
聞こえてくる声につられてレオンが食堂へ向かうと、かつて勇猛果敢に剣を振るい敵を震え上がらせたと聞く父が、椅子にちょこんと座ったノエルの隣で小さな果物ナイフを手に悪戦苦闘していた。
「ただいま戻りました、兄様。……そして父上、何をしているんです?」
「レオンか。リンゴを食べさせてやりたいのだが……なかなかどうして、これが難しいものでな……」
「ふふ。お父様、そんなに厚く切ったら食べるところがなくなっちゃうよ」
大きな手を震わせ、我が子に笑われながら不器用にリンゴを剥く父。その背中は丸まり、どこか安らいで見えた。
掟を強いる『教育者』ではなく、ただの不器用な『父親』へと少しずつでも戻ろうとしている。そんな父の姿に、レオンは少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「……片付いたようだな、レオンよ」
「はい。学院を『掃除』してまいりました」
リンゴを剥く手を止めてギルバートが呟く。返り血こそ浴びていないものの、レオンの全身から漂うどろりとした断罪の残り香を、彼は敏感に察知していた。
ギルバートは、学園で何が起きたのか、息子がどれほどの地獄を現世に現出させてきたのかを悟り、そして、その役目は本来なら親である自分が背負うべきだったのだと、深く、深く悔いる表情を浮かべた。
レオンはノエルの隣へ座り、手袋を外して彼の手にそっと自らの手を重ねる。手のひらを通して伝わってくる体温に涙が出そうになるが、その首に痛々しく残る赤黒い索状痕を見て、彼の心臓は締め付けられるように痛んだ。
レオンは懐から、帰りに買ってきた小さな箱を取り出す。中には最高級のシルクで作られた、白詰草の刺繍が施された美しいチョーカーが入っていた。
(また、兄様の首に何かを巻き付けるのか……)
一瞬、手が止まる。索状痕の上に何かを置くことは、あの恐怖を思い出させてしまうのではないか。
しかし、レオンは決意を込めてノエルにそのチョーカーを見せた。
「兄様。これを……着けさせてください」
「わあ……綺麗だね、レオン」
ノエルは何も疑わず、愛らしく首を傾げる。レオンは震える手で、その酷い傷跡を覆い隠すように、優しく、本当に優しくチョーカーを付けた。
(この傷も、この記憶も。僕がこれから、溢れるほどの幸せで塗り替えてみせる。二度と、死の影なんて兄様に触れさせない)
カチリ、と小さな留め具の音が響く。 それは、絶望からの決別と、レオンによる永遠の執着の誓いだった。
「似合いますよ、兄様。世界で一番、綺麗だ」
「ありがとう、レオン。……ふふ、なんだか少し、くすぐったいね」
ノエルはそう言って、かすれた声で、けれど心から嬉しそうに微笑んだ。
窓の外には、嵐の後の澄んだ夜空に、美しい月が昇っていた。
◆
学院を揺るがした断罪の日から数日。学院には輝かしいばかりの春が訪れていた。
校門の前に停まったレルプス家の豪華な馬車から、新当主の礼装に身を包んだレオンと首元に美しい白詰草のチョーカーを纏ったノエルが降り立つと、息を切らして駆け寄る二つの影があった。
カイルとメアリ。彼らはまだどこか緊張した面持ちで、自分たちより遥かに高い地位に就いたレオンを前に、深く頭を下げようとした。
「あ、あの、レオン様、ノエル様……!」
しかし、レオンはその動きを片手で制し、二人を見つめて静かに、けれど温かな声で告げた。
「カイル、メアリ。……畏まる必要はない。僕がこの学院を不在にしていた六年もの間、兄様を支え、孤独から救ってくれたのは他でもない、君たちだ。僕からも、改めて礼を言わせてほしい。ありがとう」
レオンは一国の主のような気品を保ちながらも二人の目を見て深々と一礼した。
「これからは、僕も傍にいる。だが……改めて、君たちは今までと変わらず兄様の良き友人でいてやってほしい。……いや、今まで以上に、兄様を笑わせてやってくれないか。先日は冷静さを欠いて悪い言い方になってしまったが……これは命令でも罰でもなく、一人の弟としての、心からの願いだ」
レオンの言葉に、カイルとメアリは目を見開き、顔を見合わせる。昨日までの恐怖や自責の念が、レオンの真摯な言葉によって、すっと溶けていくのを感じた。
「……はい! もちろんです、レオン様!」
カイルが顔を輝かせて答えると、隣でノエルがふふっと、鈴を転がすような声で笑った。
「二人とも、レオンの言う通りだよ。……それにね、僕からもお願いがあるんだ。その、『様』っていうのを外してくれないかな?」
「えっ……? で、でも、そんな失礼な事は……」
戸惑うメアリにノエルは一歩歩み寄り、二人の手をそっと取って優しく微笑んだ。
「敬語もいらないよ。僕たちはもう、隠し事のない『親友』になりたいんだ。だから……カイル、メアリ。僕のことも、呼び捨てで呼んでほしいな」
「ノエル……!」
「……うん、ノエル! よろしくね!」
二人は弾かれたように笑顔になり、ノエルの名を呼ぶ。それを見守るレオンの表情も、兄を慈しむ穏やかなものに変わった。
「ちなみに、兄様に免じ私のことも呼び捨てを許可します。遠慮はしないよう」
「……いえ、それはちょっとやめておきます」
先日の記憶が甦ったのか、カイルとメアリがぶるっと体を震わせて苦笑いし、それを見たノエルが不思議そうに笑った。
「さあ、兄様。一緒に行きましょう。兄様を待っている人たちがたくさんいる」
レオンがノエルの手を取り、歩き出す。ノエルの首のチョーカーは、もはや傷を隠すためのものではなく、愛されている証としての輝きを放っていた。
「……あれ?」
校舎に入った瞬間、ノエルは不思議そうに周囲を見渡した。
ノエルを中心に、レオン、カイル、メアリの四人が並んで校舎に入ると、昨日までの冷ややかな視線はどこへやら、生徒たちは憧憬と親愛、そして一部のものは恐怖を込めて彼らを見守っていた。
いつもなら彼が廊下を通るたびに投げつけられていた嘲笑や、わざとらしく肩をぶつけてくる者たちの気配が忽然と消え失せている。それどころか、廊下ですれ違う生徒たちはノエルと目が合った瞬間に弾かれたように道を譲り、深く頭を下げて彼が通り過ぎるのを待つようになっていた。
「ねぇ、レオン。……みんな、なんだかとても静かだね?」
「そうですね。きっと、兄様の尊さにようやく気づいたのでしょう」
ノエルの疑問にレオンは涼しい顔で答える。しかし、その瞳には冷徹な光が宿っていた。
教室に入ると、ノエルを最も執拗にいじめていたあのウェルデの席が、空席になっていることに気づく。それだけではなく、彼の取り巻きだった数人の生徒たちの姿も同様に消えていた。
「あの、みんなはどうしたの? ウェルデくんも、あの子のお友達もいないみたいだけど……」
ノエルの問いに、カイルは一瞬レオンの方を窺い、それから声を潜めて答えた。
「……あいつらは、全員『自主退学』したんだ。爵位の相続権を放棄して、遠い北方の領地へ引っ越したって噂だ。二度と王都には戻らないってさ」
「えっ、そんな……急にどうして?」
「さあ……。でも、あいつらの家には一斉に会計監査が入ったらしい。……とにかく、もうノエルを傷つける奴は、この学校には一人もいない。それは確かだ」
ノエルは驚いたように目を丸くしたが、隣で自分の荷物を机に置き、流れるような動作で椅子や机を拭きあげている弟の横顔を見て、すべてを悟った。
レオンが、自分のために動いてくれたのだと。 自分が知らない間に、あの恐ろしい悪意の嵐を、すべて凪ぎ払ってくれたのだということを。
「……レオン。ありがとう」
ノエルは、チョーカーにそっと触れながら、弟にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「……お礼なんていりません。兄様が、ただそこで笑ってくれていれば、それでいいんです」
レオンは兄の細い肩を引き寄せ、額に口づけをして微笑む。 あの日から学院の権力図は一夜にして書き換えられ、ノエルを頂点とする不可侵の聖域へと作り替えられていた。
中庭の白詰草は、今日も風に揺れている。もうそれを踏みにじる靴はどこにもなく、ノエルはカイルやメアリと共に、心ゆくまで花を編むことができるようになっていた。
かつては怯えながら隠れていた裏庭の庭園も、今ではノエルのお気に入りの居場所になっていた。
色とりどりの花が咲き誇る中、ノエルは慣れた手つきで白詰草を編んでいく。隣ではメアリが紅茶を注ぎ、カイルが今日の授業のノートを広げていた。
「ノエル、今日は一段と綺麗な花冠だね」
「うん、これは後でレオンにプレゼントしようと思って」
そう言って微笑むノエルの表情には、もう一抹の翳りもなかった。
授業中。体が弱く勉強が遅れがちだったノエルにレオンが教師を手配し、毎日新しい知識を吸収していく。自分のペースで、少しずつ。昨日分からなかった問題が、今日解けるようになる。そんな当たり前の学びの喜びを、ノエルは噛み締めていた。
また、図書室はノエルにとって宝の山だった。
「見て、この植物図鑑……!異国の花がたくさん載っているよ」
キラキラと目を輝かせ、分厚い図鑑を広げるノエル。
かつて『無能』と蔑まれたその知的好奇心は、今、親友たちに見守られながら、ゆっくりと、けれど確実に芽吹いていた。
カフェテラスでのランチタイムは、学院中の注目を集める幸せの象徴となっていた。
かつて彼らを虐げていた者たちの姿はなく、遠巻きに見守る生徒たちも、ノエルの屈託のない笑顔に思わず顔をほころばせていた。
そして最も苦手だった運動も、かつては『出来損ない』と嘲笑われた時間だったが、今は違っていた。
「ノエル! 無理しないで、自分のペースでいいからな!」
カイルの声援を受けながら、ノエルは一生懸命にトラックを走るが、足は遅くすぐに息が切れてしまう。それでも、走り終えた後にメアリが差し出す水とカイルが差し出すタオルの温もりが、ノエルに頑張ることの楽しさを教えてくれていた。
ふと見上げると、高等部の校舎の窓から、弟のレオンがこちらをじっと見守っているのが見える。視線が合ったレオンが小さく手を振ると、それに応えるようにノエルもまた精一杯に手を振り返した。
武力でも知性でもなく、ただそこにいて、笑っているだけで周囲を幸せにする。 それこそが、レルプス家の長男ノエルが持つ、歴代当主たちが誰一人として手にできなかった、何よりも気高く強い『力』だった。
夕暮れ時。オレンジ色の光に染まった帰宅路を、四人はゆっくりと歩く。校門を出る際、ノエルがふと足を止め、黄金色に輝く学び舎を振り返った。
「……僕、学校が楽しいって思ったの、生まれて初めてかもしれない」
柔らかい風に垂れ耳をなびかせ、ノエルが独り言のように呟く。その一言に、隣を歩いていたカイルとメアリの足が止まった。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく視線を伏せ、ボロボロと大きな涙をあふれさせた。
「ノエル……。ごめん、もっと早く、もっと早くそう言わせてあげたかった……!」
「……よかった。本当によかったね、ノエル……!」
「えっ?えっ?どうして泣くの?」
二人の嗚咽に驚きながらも、ノエルは慌てて二人の背中を優しく撫でる。その様子を少し後ろから見ていたレオンは、夕闇に紛れるようにして、自身の胸元にある当主の紋章を強く握りしめた。
(ああ、兄様。貴方のそのたった一言を守るために、僕は地獄を歩いてきたんだ。……そして、これからも)
レオンの胸に宿る『渇き』は、もはや狂気ではなく、兄の笑顔を照らすための静かな灯火へと昇華されていた。
◆
その日の夜。
しんとした静寂が包む書斎で、レオンとギルバートは二人、向かい合っていた。
机の上には、ノエルが「お父様に」と置いていった、少し形はいびつだが心のこもった白詰草のブローチが置かれていた。
「父上。……兄様が今日、『学校が楽しい』と言ってくれました」
レオンの言葉に、ギルバートはブローチを見つめたまま、深く、長く息を吐き出した。
「……そうか。あの子にそんな当たり前のことを言わせるまでに、私はどれほどの時間を無駄にしてしまったのか」
「後悔は……僕たちが一生かけて背負うべき義務です。ですが、父上」
レオンは真っ直ぐに父を見据える。その瞳には、かつての反抗心ではなく、同じ後悔を共有する男としての連帯感が宿っていた。
「僕は、兄様をもうレルプスの型には嵌めさせません。兄様は、ただのノエルであればいい。……その代わりに、僕がレルプスのすべてを背負います。汚れ仕事も、権力闘争も、誰かへの殺意も、すべて僕のところで止めてみせる」
レオンは一歩前に踏み出し、父の前に膝を突いた。
「どうか、これからは僕を、最も冷酷な当主としてお使いください。父上はただ、兄様の『優しいお父様』でいてあげてください。それが、僕たち二人が兄様にできる、唯一の罪滅ぼしです」
ギルバートは震える手でレオンの肩を掴んだ。
「……すまない、レオン。お前にすべてを押し付けることになる」
「いいえ。これが僕の望んだ、『幸せ』の形ですから」
書斎の空気は、数日前までの緊張が嘘のように、穏やかで親密なものへと変わっている。机の上に置かれた白詰草のブローチを見つめながら、レオンはふと視線を落とし、心に秘めていた『最終的な執着』を口にした。
「父上……もし、いつか兄様が許してくれるのなら。僕は兄様を、伴侶として迎えたいと思っています」
その言葉に、ギルバートは一瞬虚を衝かれたように目を見開いたが、すぐに深く、呆れたような溜息をついた。
「……ノエルは、お前の兄だぞ。世間が、そして親族が黙ってはいるまい」
「レルプスの法は今や僕が決めます。誰にも文句は言わせない。兄様を他の誰かの腕に委ねるくらいなら、僕は……」
「わかっている。よせ、その先は言うな」
ギルバートは苦笑しながら、新当主となった息子の肩を叩く。しかし、次に発した声は低く、真剣そのものだった。
「……レオンよ。『渇き』が生涯続く呪いであることは私も熟知している。故に諦めろというつもりはない。……ただ、約束しろ。ノエルへの無理強いや、外堀を埋めて逃げ場を奪うような真似だけは絶対にするな。あの子の心が自由でなければ、それはあの夜の悲劇を繰り返すだけだ。お前の我欲であの子の翼を折ることは……親として、そして一人の男として、断じて許さん」
かつて『王国の鋭き刃』と呼ばれたギルバートの刺すような眼差し。レオンがそれを真正面から見据えて頷くと、父はふっと表情を崩した。
「……やはりこうなったか。お前のその瞳を見れば、ただの兄弟愛で収まるはずがないとは思っていた。『レルプスの渇き』とは、これほどまでに業が深いものだったのだな。……見ろ、リリィ。息子は、私以上に手に負えない愛し方を覚えたようだ」
ギルバートが穏やかな微笑みを湛える妻の肖像に呆れ混じりにそう話しかけると、レオンは少しだけ顔を赤らめて苦笑いし、それから真剣な表情に戻って父に向き直った。
「父上。あの夜、僕を信じて、すべてを僕に託してくださってありがとうございました。貴方が『当主』を捨てて『父親』に戻ってくれたから、僕は兄様を光の下に連れて帰ってくることができました」
ギルバートもまた、息子を見つめ、静かに頷いた。
「私の方こそ……お前があの夜、あの子を死の淵から救い出してくれたことに感謝している。お前がいなければ、私は今頃一生癒えぬ悔恨の中で朽ちていただろう。……ありがとう、レオン。お前が息子で良かった」
その言葉を聞いたレオンが晴れやかな顔で席を立ち、退室しようと扉に手をかけた背中に、ギルバートが少し照れくさそうに、けれど冗談めかした声をかけた。
「おい、レオン。……気が早い話だが、私はできれば孫の顔が見たい。もしお前たちが本当に添い遂げられたなら、血筋に拘らず早いとこ養子でも取って上手くやってくれ。レルプスの家が静かすぎるのは、リリィも寂しがるだろうからな」
その言葉に、レオンは思わず肩を震わせて噴き出した。
「ぷっ……あははは!父上、それはさすがに気が早すぎます! 僕はまだ、兄様に朝の口づけを額に許してもらうだけで精一杯なんですよ」
「なんだ?案外不甲斐ないな、公爵様は」
親子の笑い声が夜の書斎に響く。 かつて凍りついていた家族の絆はこうして、不器用ながらも新しい形へと溶け合っていったのだった。
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優秀な騎士の家系である伯爵家の【クレパス家】に生まれた<グレイ>は、容姿、実力、共に恵まれず、常に平均以上が取れない事から両親に冷たく扱われて育った。 そんなある日、父が気まぐれに手を出した娼婦が生んだ子供、腹違いの弟<ルーカス>が家にやってくる。 その生まれから弟は自分以上に両親にも使用人達にも冷たく扱われ、グレイは初めて『褒められる』という行為を知る。 それに恐怖を感じつつ、グレイはルーカスに接触を試みるも「金に困った事がないお坊ちゃんが!」と手酷く拒絶されてしまい……。 最初ツンツン、のちヤンデレ執着に変化する美形の弟✕平凡な兄です。兄弟、ヤンデレなので、地雷の方はご注意下さいm(__)m
平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。
しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。
基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。
一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。
それでも宜しければどうぞ。
異世界へ下宿屋と共にトリップしたようで。
やの有麻
BL
山に囲まれた小さな村で下宿屋を営んでる倉科 静。29歳で独身。
昨日泊めた外国人を玄関の前で見送り家の中へ入ると、疲労が溜まってたのか急に眠くなり玄関の前で倒れてしまった。そして気付いたら住み慣れた下宿屋と共に異世界へとトリップしてしまったらしい!・・・え?どーゆうこと?
前編・後編・あとがきの3話です。1話7~8千文字。0時に更新。
*ご都合主義で適当に書きました。実際にこんな村はありません。
*フィクションです。感想は受付ますが、法律が~国が~など現実を突き詰めないでください。あくまで私が描いた空想世界です。
*男性出産関連の表現がちょっと入ってます。苦手な方はオススメしません。
闇を照らす愛
モカ
BL
いつも満たされていなかった。僕の中身は空っぽだ。
与えられていないから、与えることもできなくて。結局いつまで経っても満たされないまま。
どれほど渇望しても手に入らないから、手に入れることを諦めた。
抜け殻のままでも生きていけてしまう。…こんな意味のない人生は、早く終わらないかなぁ。
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