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第10章:虚構の終焉
第80話:名なき主の記録
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その山奥の庵は、かつての信長を知る者も、訪れる者もなかった。
彼は名乗らなかった。名を語るほどに、名が遠ざかっていったからだ。
「名を持つ者が、名を捨てる……皮肉なことだ」
焚き火の前に座り、手元に古びた筆と紙を置く。
――これは、誰にも見られぬ記録。
だが、それでも書かずにはいられなかった。
『余は死んだ。世の中に残る信長は、あれだ。だが、あれが“偽り”であるとは思わぬ。むしろ、あれこそが“本物”になりつつある。』
筆は震えていた。指先の震えではない。魂の震えだった。
『もし、この記録を読む者があれば、知っておいてほしい。影武者・十兵衛は、武においても、知においても、信長たるに相応しい。……いや、それ以上だった。』
夜風が記録をめくる。火の粉が紙の端を焦がした。
信長はそれを止めようともせず、ただ目を閉じた。
かつては天下を手にしようとし、神仏を嘲り、民の上に立った男。
だが今、庵の中で黙して筆を走らせるだけの男になった。
『――もし、あやつが倒れる日が来たなら、そのときこそ、我が名が必要となろう。だがそれまでは、あやつの天下を見届ける』
“本物”が“偽物”に天下を託す記録だった。
それは、皮肉ではなく、嫉妬でもない。
ただ、己が見た「力ある者」への畏怖と称賛だった。
やがて記録の巻物はまとめられ、竹の筒に入れられた。
それを誰に渡すでもなく、信長は小屋の床下に埋めた。
「記録など残したところで、意味はないのかもしれぬ。だが、せめて……せめて俺は、この記憶を嘘にしたくないのだ」
火は静かに燃え、影が壁を揺らした。
“影だった男”が主となり、
“主だった男”が影として消えていく。
名なき記録は、その夜、すべてを書き終えた。
そして朝が来た。
本物の信長は、また名乗らず、山を降りる。
どこへ行くのか、自分でもわからぬままに――。
彼は名乗らなかった。名を語るほどに、名が遠ざかっていったからだ。
「名を持つ者が、名を捨てる……皮肉なことだ」
焚き火の前に座り、手元に古びた筆と紙を置く。
――これは、誰にも見られぬ記録。
だが、それでも書かずにはいられなかった。
『余は死んだ。世の中に残る信長は、あれだ。だが、あれが“偽り”であるとは思わぬ。むしろ、あれこそが“本物”になりつつある。』
筆は震えていた。指先の震えではない。魂の震えだった。
『もし、この記録を読む者があれば、知っておいてほしい。影武者・十兵衛は、武においても、知においても、信長たるに相応しい。……いや、それ以上だった。』
夜風が記録をめくる。火の粉が紙の端を焦がした。
信長はそれを止めようともせず、ただ目を閉じた。
かつては天下を手にしようとし、神仏を嘲り、民の上に立った男。
だが今、庵の中で黙して筆を走らせるだけの男になった。
『――もし、あやつが倒れる日が来たなら、そのときこそ、我が名が必要となろう。だがそれまでは、あやつの天下を見届ける』
“本物”が“偽物”に天下を託す記録だった。
それは、皮肉ではなく、嫉妬でもない。
ただ、己が見た「力ある者」への畏怖と称賛だった。
やがて記録の巻物はまとめられ、竹の筒に入れられた。
それを誰に渡すでもなく、信長は小屋の床下に埋めた。
「記録など残したところで、意味はないのかもしれぬ。だが、せめて……せめて俺は、この記憶を嘘にしたくないのだ」
火は静かに燃え、影が壁を揺らした。
“影だった男”が主となり、
“主だった男”が影として消えていく。
名なき記録は、その夜、すべてを書き終えた。
そして朝が来た。
本物の信長は、また名乗らず、山を降りる。
どこへ行くのか、自分でもわからぬままに――。
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