影武者の天下盗り

井上シオ

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最終章:偽りの果てに咲く

第95話:焼かれる影

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 深夜の安土城。
 誰もいない文庫に、ひとつの影が揺れていた。
 

 十兵衛――“織田信長”は、机に積まれた古文書の束を前に座っていた。
 それはすべて、“影武者・十兵衛”として生きていた頃の記録だった。
 

 過去の村の戸籍。
 鍬を握っていた頃の名残。
 訓練中に記した、影の心得。
 信長として書いた“最初の命令”の下書き。
 おみよから渡された手紙。
 血で滲んだ、矢傷の記録。
 

 すべてが、“偽物の自分”を証明する断片だった。


 「……もう要らん」
 

 十兵衛は蝋燭の火を近づけた。

 和紙が、ぱちり、と音を立てて燃える。
 炎は次々に記録を飲み込み、静かに部屋を明るく照らす。
 

 彼の顔が揺らめいた。
 その表情は、悲しみでも、迷いでもなく――ただの“終わり”だった。
 

 「偽物が、消える。
  本物になるには、それしか道はない」
 

 炎の音だけが響いた。
 

 やがて、一冊の帳面を手に取った。
 最初に与えられた影武者としての教本。

 墨で書かれた最初の言葉は、こうだった。
 

 ――“影は、主のすべてを真似よ。だが、決して主になってはならぬ。”
 

 十兵衛は、それを黙って見つめたあと、破り捨てた。
 

 「わしは主になる。なってしまった。
  それでも……誰かのために生きる“影”でいたかった」
 

 部屋の外で、気配がした。
 扉がそっと開き、濃姫が現れる。
 

 「燃やしているのね、すべてを」
 

 十兵衛は、濃姫の目を見た。
 彼女は、何も言わなかった。
 ただ、そっと一枚の紙を差し出した。
 

 ――その紙には、たったひとこと。
 

 “あなたが、信長です”
 

 十兵衛は笑った。
 初めて――心からの、笑みだった。
 

 「ありがとう。……もう、わしは影じゃない」
 

 濃姫はうなずき、隣に座った。

 二人で見つめる炎は、静かに、すべてを呑み込んでいく。
 かつての“影”も、“十兵衛”も、その中で消えた。
 

 そして彼は立ち上がる。
 

 「明日、わしは……“影武者の死”を宣言する。
  本物として、この天下を継がせるのだ。“影の息子”に」
 

 その背には、迷いはなかった。
 

 闇の中、ただ一人、影が光となる。
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