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15話 あの夏の日
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◆◆◆
あの日は猛暑だった。
アブラゼミが騒々しく鳴き続ける中、坂道を自転車で駆け上がってやっとの思いで家へと帰る。
長かった夏期講習もようやく今日で終わりを迎えたのだ。
玄関を開けてただいま、と声をあげると、珍しく返事がなかった。どこかへ出かけているのかと思ったが靴は玄関にある。
疲れて昼寝でもしているのだろうと、いつものようにリビングを開けた瞬間だった。
「え……?」
ギーギーと古い建物が音を立てていた。天井からぶら下がった紐が母の首にかかっていて、母は目を閉じたままぴくりとも動かなかった。
床には倒れた椅子、テーブルには遺書と書かれた白い紙。
セミの声が聞こえる。
ミンミーン、ミンミーン。
やがて声が止んだ後、私の叫び声が響いた。
「この度はお悔やみ申し上げます」
見知らぬ誰かがハンカチで目尻を拭った。私はただ頭の中が真っ白のまま、屍のように体を折り曲げた。
喪主は母方の祖母だった。祖父はすでに他界している。まだ高校生の私に喪主は重すぎると思ったのだろう。
昨日まで、この家にいたはずの父は居なかった。その理由は聞かずとも分かっていた。母の遺書が全ての真実を明らかにしていた。
原因は、父親の不倫だった。
涙が出なかったのは、まだこれが現実だと受け止めきれていないからだろうか。
夢でも見ているんじゃないかと思った。
幸せだったはずの家族はたった一夜にしてバラバラになり、父は家族を見捨て、母は私を置いて死んだ。
心と体が追いつかないまま葬式を終え、私は東京に住む祖母に引き取られることになった。
――ああ、荷物をまとめないと……。
父の裏切りと母の死を信じられないまま、空っぽの心で遺品の整理をしていた時だった。
タンスの中から、古びた一枚の写真が出てきた。
コバルトブルーの海を背景にヤシの木が揺れる。白い砂浜に足を埋めて、身を寄せ合う三人の笑顔。
ハワイ ホノルル。
それが最後の家族写真だった。
それから数日後――。
夏休みが終わる直前に、私は街を離れることになった。駅にはたくさんのクラスメイトが集まってくれたけれど、みんな何て声をかければいいか分からない様子だった。無理もない。私だってまだ頭の中が空っぽだったのだから。
全てがどうでもよかった。いっそこのまま、ホームから飛び降りて、死ねたらどれだけ楽だろうかと。
別れを告げて、ホームに電車が向かってくる。ぼうっとその様子を見つめながら無意識に足が前に出た時だった。
「ちーちゃん!」
「……悠?」
はあはあと息を切らした悠に手を捕まれて、はっと我に返った。
「……行かないで、ちーちゃん」
ほろりと一筋の涙が悠の頬を伝った。私だって、本当は行きたくない。ずっとここに居たかった。
「簡単に泣くなっていつも言ってるでしょう?」
こつんと軽く頭を叩いて、ふっと笑みを浮かべた。
「俺……俺、必ず迎えに行くから!」
「なに言ってるのよ。泣き虫悠のくせに」
悠のくせに生意気ね、と付け加えて、くすっと笑った。
電車が到着し扉が開く。私は悠の手をそっと離して電車に乗り込んだ。
「絶対にちーちゃんを幸せにする。だから待ってて」
力強いその眼差しは、悠とは思えないほど美しかった。
今までこんなに感情を剥き出しにしたことなんてなかったのに、最後の最後で別れが惜しくなる。
「……仕方ないわね」
扉が閉まった。声が届いていたかどうかは分からない。走り出した電車は無情にも私と悠を引き離していく。
もう、この街には戻らない。
ホームを走る悠をドア越しに見つめながら、初めて涙が溢れた。
――あれは、もう遠い夏の記憶。
あの日は猛暑だった。
アブラゼミが騒々しく鳴き続ける中、坂道を自転車で駆け上がってやっとの思いで家へと帰る。
長かった夏期講習もようやく今日で終わりを迎えたのだ。
玄関を開けてただいま、と声をあげると、珍しく返事がなかった。どこかへ出かけているのかと思ったが靴は玄関にある。
疲れて昼寝でもしているのだろうと、いつものようにリビングを開けた瞬間だった。
「え……?」
ギーギーと古い建物が音を立てていた。天井からぶら下がった紐が母の首にかかっていて、母は目を閉じたままぴくりとも動かなかった。
床には倒れた椅子、テーブルには遺書と書かれた白い紙。
セミの声が聞こえる。
ミンミーン、ミンミーン。
やがて声が止んだ後、私の叫び声が響いた。
「この度はお悔やみ申し上げます」
見知らぬ誰かがハンカチで目尻を拭った。私はただ頭の中が真っ白のまま、屍のように体を折り曲げた。
喪主は母方の祖母だった。祖父はすでに他界している。まだ高校生の私に喪主は重すぎると思ったのだろう。
昨日まで、この家にいたはずの父は居なかった。その理由は聞かずとも分かっていた。母の遺書が全ての真実を明らかにしていた。
原因は、父親の不倫だった。
涙が出なかったのは、まだこれが現実だと受け止めきれていないからだろうか。
夢でも見ているんじゃないかと思った。
幸せだったはずの家族はたった一夜にしてバラバラになり、父は家族を見捨て、母は私を置いて死んだ。
心と体が追いつかないまま葬式を終え、私は東京に住む祖母に引き取られることになった。
――ああ、荷物をまとめないと……。
父の裏切りと母の死を信じられないまま、空っぽの心で遺品の整理をしていた時だった。
タンスの中から、古びた一枚の写真が出てきた。
コバルトブルーの海を背景にヤシの木が揺れる。白い砂浜に足を埋めて、身を寄せ合う三人の笑顔。
ハワイ ホノルル。
それが最後の家族写真だった。
それから数日後――。
夏休みが終わる直前に、私は街を離れることになった。駅にはたくさんのクラスメイトが集まってくれたけれど、みんな何て声をかければいいか分からない様子だった。無理もない。私だってまだ頭の中が空っぽだったのだから。
全てがどうでもよかった。いっそこのまま、ホームから飛び降りて、死ねたらどれだけ楽だろうかと。
別れを告げて、ホームに電車が向かってくる。ぼうっとその様子を見つめながら無意識に足が前に出た時だった。
「ちーちゃん!」
「……悠?」
はあはあと息を切らした悠に手を捕まれて、はっと我に返った。
「……行かないで、ちーちゃん」
ほろりと一筋の涙が悠の頬を伝った。私だって、本当は行きたくない。ずっとここに居たかった。
「簡単に泣くなっていつも言ってるでしょう?」
こつんと軽く頭を叩いて、ふっと笑みを浮かべた。
「俺……俺、必ず迎えに行くから!」
「なに言ってるのよ。泣き虫悠のくせに」
悠のくせに生意気ね、と付け加えて、くすっと笑った。
電車が到着し扉が開く。私は悠の手をそっと離して電車に乗り込んだ。
「絶対にちーちゃんを幸せにする。だから待ってて」
力強いその眼差しは、悠とは思えないほど美しかった。
今までこんなに感情を剥き出しにしたことなんてなかったのに、最後の最後で別れが惜しくなる。
「……仕方ないわね」
扉が閉まった。声が届いていたかどうかは分からない。走り出した電車は無情にも私と悠を引き離していく。
もう、この街には戻らない。
ホームを走る悠をドア越しに見つめながら、初めて涙が溢れた。
――あれは、もう遠い夏の記憶。
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