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第3章:広がる世界と、七歳の肖像
夜の対話と、小さな勇気の報告
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帝都の街に完全に夜の帳が降りた頃。
王宮での激務を終えたヴィンセントは、愛馬を駆って公爵邸へと帰還しました。今夜、玄関で彼を迎えたのは、完璧な所作で控えていた執事のクラウスでした。
「お帰りなさいませ、閣下。今夜も少々、馬を急がせすぎたようでございますな」
「……ああ、クラウス。無理もない。今日のエレーナは、私を『お父様』と呼んでくれたのだ。その余韻が消えぬうちに、一目だけでも顔を見たい」
ヴィンセントが外套を脱ぎながら零した本音に、クラウスは眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげ、深々と頭を下げました。
「それは……左様でございましたか。おめでとうございます。エレーナ様も、この邸をようやく『家』として認められたのでしょう。主の帰りを、あの方もお部屋で今か今かとお待ちですよ」
執事として常に冷静なクラウスですが、その声には、拾われてきたばかりの震える少女を見守り続けてきた者としての、確かな慶びが混じっていました。
ヴィンセントは手早く身なりを整えると、真っ直ぐに二階のエレーナの部屋へと向かいました。クラウスもまた、主人の心境を察し、邪魔をしない程度の距離を保って静かに後に続きます。
エレーナの部屋の前に着くと、ヴィンセントは一度深く呼吸を整え、心を落ち着かせました。そして、眠りを妨げないよう、この上なく優しく扉をノックしました。
「エレーナ、私だ。入ってもいいかい?」
「……はい。……お父様、……お帰りなさい」
中から聞こえてきたのは、まだたどたどしいけれど、自分を呼ぶ愛らしい声。その響きだけで、ヴィンセントの一日の疲れは完全に霧散していきました。
扉を開けると、そこには寝支度を済ませ、マギーに見守られながらソファで待っていたエレーナの姿がありました。ヴィンセントが近づくと、エレーナは一瞬だけ肩をすくめましたが、それでも逃げることなく、じっと彼を見つめ返しました。
「まだ起きていてくれたんだね。……今日は、何をしたんだい??」
ヴィンセントがいつものようにエレーナの目線に合わせて跪くと、エレーナは膝の上で白パンのような小さなお手てをぎゅっと握りしめました。彼女の瞳には、伝えたいことがたくさんあるのに、それをどう言葉にしていいか分からない、しどろもどろな迷いが見え隠れしています。
「……あの、……おとう、さま……」
「ゆっくりでいいよ、エレーナ。君の話なら、私は一晩中だって聞いていたい」
ヴィンセントの穏やかな声に促され、エレーナは一度コクリと唾を飲み込みました。そして、意を決したように、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めます。
「……きょう、……おそと、から……音がして。……こっそり、扉を……あけ、ました」
「ほう、扉を開けたのか。それは……大きな一歩だね」
「……あの、……お兄様、たちが……。……ピカピカ、してて……。……とっても、かっこよくて……。……お父様の、こと、……だいすき、って……言ってた、気がします……」
エレーナは、ジュリアンとアルベルトが廊下で見せた眩しい姿、そして自分を救ってくれたお父様を慕う彼らの様子を、必死に思い出しながら話しました。
まだ「お兄様」と呼ぶことすら恥ずかしくて、声は消えそうに震えてしまっています。それでも、自分が「隙間」の外にある世界を、自分の意志で覗き見たということを、ヴィンセントに一番に伝えたかったのです。
「そうか……。あいつらの訓練しているところを見たんだね。……怖くはなかったかい?」
「……ちょっと、……びっくりしたけど……。……でも、……マギーさんが、……まもってくれてる、音だって……。……だから、……がんばって、みました」
ヴィンセントは、胸の奥が熱くなるのを堪えきれませんでした。
あんなに怯えていた子が、自分のために、そして家族のために、勇気を出して一歩を踏み出した。その事実が、何よりも尊く、愛おしく感じられました。
さらにエレーナは、少し顔を赤らめながら、窓の外で見かけた「あの人」のことも報告してくれました。
「……あと、……夕方、に……。……とっても、大きな、……ばっしゅ……たいちょうさん、も……見ました」
「バッシュを? ああ、あいつは今夜の警備だからな。……あいつの顔は、少し怖かっただろう?」
「……ううん。……ちょっと、こわい顔、だけど……。……でも、……わたしが、ねむれるように……お外に、いってくれるって……。……目が、あったとき……。……ニコって、してくれました……」
エレーナは、バッシュと目が合った時のことを思い出し、本当に少しだけ、頬を緩めました。
ヴィンセントは、その小さな微笑みを見逃しませんでした。
「そうか。……バッシュの奴、エレーナに笑いかけたのか。あいつにも、騎士としての誇り以上に、守るべきものが何であるか、伝わったようだな」
ヴィンセントは、エレーナの細い、けれど少しずつ温かみを取り戻してきた手を、そっと包み込みました。
「エレーナ。君が今日、自分の足で立ち、自分の目で世界を見たこと。そして、それをこうして私に話してくれたこと。……本当に嬉しいよ。君の勇気は、この邸の誰よりも、私にとっての救いなんだ」
「……おとう、さま……。……わたし、……もっと、がんばります。……いつか、……みんなで、……ごはん、たべる、まで……」
エレーナの健気な決意。それは、まだ不安に満ちた心の中から絞り出された、精一杯の「恩返し」の言葉でした。ヴィンセントは、彼女を驚かせないよう、ゆっくりと引き寄せ、その頭を優しく撫でました。
「ああ。無理をすることはない。君が頑張りたいと思うときは、私が必ず隣で支えよう。……今日は、本当に素晴らしい一日だった。……おやすみ、エレーナ」
「……おやすみなさい、……お父様」
エレーナがベッドに入り、その寝顔が穏やかなものに変わるまで、ヴィンセントはずっとそばで見守っていました。
部屋を出た後、廊下で控えていた執事のクラウスが、音もなく近づき静かに口を開きました。
「閣下。エレーナ様の言葉は、王宮のどんな報告書よりも閣下の心をお癒やしになったようでございますな」
「……クラウス、見ていただろう。あの子は、自分から外を見ようとしたんだ。……明日の朝食にはエレーナが好きな果実を多めに用意させるんだ」
「かしこまりました。さあ、閣下もお休みください。明日はエレーナ様とより良い朝を迎えられるよう」
ヴィンセントは、自らの部屋へ向かう足取りで、もう一度だけエレーナの部屋の扉を振り返りました。
しどろもどろで、たどたどしかったけれど、一生懸命に今日のできごとを話してくれたエレーナ。その小さな冒険譚は、公爵邸を包む夜を、より深く穏やかなものに変えていったのでした。
王宮での激務を終えたヴィンセントは、愛馬を駆って公爵邸へと帰還しました。今夜、玄関で彼を迎えたのは、完璧な所作で控えていた執事のクラウスでした。
「お帰りなさいませ、閣下。今夜も少々、馬を急がせすぎたようでございますな」
「……ああ、クラウス。無理もない。今日のエレーナは、私を『お父様』と呼んでくれたのだ。その余韻が消えぬうちに、一目だけでも顔を見たい」
ヴィンセントが外套を脱ぎながら零した本音に、クラウスは眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげ、深々と頭を下げました。
「それは……左様でございましたか。おめでとうございます。エレーナ様も、この邸をようやく『家』として認められたのでしょう。主の帰りを、あの方もお部屋で今か今かとお待ちですよ」
執事として常に冷静なクラウスですが、その声には、拾われてきたばかりの震える少女を見守り続けてきた者としての、確かな慶びが混じっていました。
ヴィンセントは手早く身なりを整えると、真っ直ぐに二階のエレーナの部屋へと向かいました。クラウスもまた、主人の心境を察し、邪魔をしない程度の距離を保って静かに後に続きます。
エレーナの部屋の前に着くと、ヴィンセントは一度深く呼吸を整え、心を落ち着かせました。そして、眠りを妨げないよう、この上なく優しく扉をノックしました。
「エレーナ、私だ。入ってもいいかい?」
「……はい。……お父様、……お帰りなさい」
中から聞こえてきたのは、まだたどたどしいけれど、自分を呼ぶ愛らしい声。その響きだけで、ヴィンセントの一日の疲れは完全に霧散していきました。
扉を開けると、そこには寝支度を済ませ、マギーに見守られながらソファで待っていたエレーナの姿がありました。ヴィンセントが近づくと、エレーナは一瞬だけ肩をすくめましたが、それでも逃げることなく、じっと彼を見つめ返しました。
「まだ起きていてくれたんだね。……今日は、何をしたんだい??」
ヴィンセントがいつものようにエレーナの目線に合わせて跪くと、エレーナは膝の上で白パンのような小さなお手てをぎゅっと握りしめました。彼女の瞳には、伝えたいことがたくさんあるのに、それをどう言葉にしていいか分からない、しどろもどろな迷いが見え隠れしています。
「……あの、……おとう、さま……」
「ゆっくりでいいよ、エレーナ。君の話なら、私は一晩中だって聞いていたい」
ヴィンセントの穏やかな声に促され、エレーナは一度コクリと唾を飲み込みました。そして、意を決したように、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めます。
「……きょう、……おそと、から……音がして。……こっそり、扉を……あけ、ました」
「ほう、扉を開けたのか。それは……大きな一歩だね」
「……あの、……お兄様、たちが……。……ピカピカ、してて……。……とっても、かっこよくて……。……お父様の、こと、……だいすき、って……言ってた、気がします……」
エレーナは、ジュリアンとアルベルトが廊下で見せた眩しい姿、そして自分を救ってくれたお父様を慕う彼らの様子を、必死に思い出しながら話しました。
まだ「お兄様」と呼ぶことすら恥ずかしくて、声は消えそうに震えてしまっています。それでも、自分が「隙間」の外にある世界を、自分の意志で覗き見たということを、ヴィンセントに一番に伝えたかったのです。
「そうか……。あいつらの訓練しているところを見たんだね。……怖くはなかったかい?」
「……ちょっと、……びっくりしたけど……。……でも、……マギーさんが、……まもってくれてる、音だって……。……だから、……がんばって、みました」
ヴィンセントは、胸の奥が熱くなるのを堪えきれませんでした。
あんなに怯えていた子が、自分のために、そして家族のために、勇気を出して一歩を踏み出した。その事実が、何よりも尊く、愛おしく感じられました。
さらにエレーナは、少し顔を赤らめながら、窓の外で見かけた「あの人」のことも報告してくれました。
「……あと、……夕方、に……。……とっても、大きな、……ばっしゅ……たいちょうさん、も……見ました」
「バッシュを? ああ、あいつは今夜の警備だからな。……あいつの顔は、少し怖かっただろう?」
「……ううん。……ちょっと、こわい顔、だけど……。……でも、……わたしが、ねむれるように……お外に、いってくれるって……。……目が、あったとき……。……ニコって、してくれました……」
エレーナは、バッシュと目が合った時のことを思い出し、本当に少しだけ、頬を緩めました。
ヴィンセントは、その小さな微笑みを見逃しませんでした。
「そうか。……バッシュの奴、エレーナに笑いかけたのか。あいつにも、騎士としての誇り以上に、守るべきものが何であるか、伝わったようだな」
ヴィンセントは、エレーナの細い、けれど少しずつ温かみを取り戻してきた手を、そっと包み込みました。
「エレーナ。君が今日、自分の足で立ち、自分の目で世界を見たこと。そして、それをこうして私に話してくれたこと。……本当に嬉しいよ。君の勇気は、この邸の誰よりも、私にとっての救いなんだ」
「……おとう、さま……。……わたし、……もっと、がんばります。……いつか、……みんなで、……ごはん、たべる、まで……」
エレーナの健気な決意。それは、まだ不安に満ちた心の中から絞り出された、精一杯の「恩返し」の言葉でした。ヴィンセントは、彼女を驚かせないよう、ゆっくりと引き寄せ、その頭を優しく撫でました。
「ああ。無理をすることはない。君が頑張りたいと思うときは、私が必ず隣で支えよう。……今日は、本当に素晴らしい一日だった。……おやすみ、エレーナ」
「……おやすみなさい、……お父様」
エレーナがベッドに入り、その寝顔が穏やかなものに変わるまで、ヴィンセントはずっとそばで見守っていました。
部屋を出た後、廊下で控えていた執事のクラウスが、音もなく近づき静かに口を開きました。
「閣下。エレーナ様の言葉は、王宮のどんな報告書よりも閣下の心をお癒やしになったようでございますな」
「……クラウス、見ていただろう。あの子は、自分から外を見ようとしたんだ。……明日の朝食にはエレーナが好きな果実を多めに用意させるんだ」
「かしこまりました。さあ、閣下もお休みください。明日はエレーナ様とより良い朝を迎えられるよう」
ヴィンセントは、自らの部屋へ向かう足取りで、もう一度だけエレーナの部屋の扉を振り返りました。
しどろもどろで、たどたどしかったけれど、一生懸命に今日のできごとを話してくれたエレーナ。その小さな冒険譚は、公爵邸を包む夜を、より深く穏やかなものに変えていったのでした。
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