200万年後 軽トラで未来にやってきた勇者たち

半道海豚

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第4章

第91話 自転車

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 俺は、商品である中古銃の保管倉庫から徒歩で居館に戻る途中だ。広場を突っ切れば、居館のエントランスに達する。
 やや早足で歩く俺の横を自転車がすり抜ける。
 舞浜千早だ。ちーちゃんは、もう幼名で呼ぶには不釣り合いに成長している。だから、俺は“チハヤ”と呼んでいる。しかし、心の中では、いまも“ちーちゃん”のままだ。
 舞浜千早、彼女は“ハンダ・チハヤ”と名乗っている。この200万年後の世界にやって来て10年が経過し、彼女は16歳になった。
 いまでは、ノイリン移住時以降の中核メンバーの一人となった。
 俺も城島由加も、40を超えてしまった。決して衰えてはいないが、新しい世代に頼る部分も多くなっている。
 それが、世代交代というものであり、我々の社会が健全な証拠だ。

 俺は、千早と出会ったときのことを思い出していた。
 イエローストーンが爆発して以降、2年間は暴力をともなう過激な騒乱はなかった。東アジアで社会がモラルを保っていたのは、どうも日本だけだったようだ。世界各地域・各国では、略奪、暴行、殺人が常態化していたらしい。
 国内情勢が一気に緊迫したのは、鹿児島湾の姶良カルデラ、大隅海峡の鬼界カルデラ、阿蘇が連続してカテゴリー7の巨大噴火をしてからだ。
 九州、四国の西側、山口と広島の一部が壊滅し、中国・関西・北陸方面の人々が、東海や関東に大挙して移住を初めた。
 この大移動は当初、統制がとれていた。日本は人口が減っていたので、関東を中心に空き家が多く、贅沢さえいわなければ、テント暮らしをする必要はなかった。古い団地や廃校、空き事務所ビルなどを利用すれば、十分に収容できた。
 だが、強いものが、弱いものの住居を奪う犯罪が多発する。警察には、それを取り締まる余裕はなく、自然発生的に自警団ができ、現住者と避難者との間で血なまぐさい抗争が勃発する。

 そして、日本は低俗な弱肉強食の社会となった。

 都心が混乱し、それが江東区から江戸川区に波及し始めた頃、俺が住んでいたマンションが放火される。
 真夏だというのに寒い夕暮れ時、俺はデイパックだけを持ち、それ以外は身に付けているものだけが物資のすべてという状態で、千葉方面に逃げた。
 ジャージの上に咄嗟に持ち出したダウンジャケットを羽織り、非常用のデイパックを背負い、素足にスニーカーを履いていた。
 俺が1階に降りると同時に、駐車場に止めていた俺の四駆車が爆発する。ガソリンに引火したのだ。
 俺は、その格好で、東京メトロ東西線の旧江戸川に架かる鉄橋方向を目指す。浦安橋を渡り、新行徳橋を渡り、京葉道路を越えて、JR総武線の高架を潜って、国道14号線・千葉街道に出る。
 千葉街道は、都心から郊外に逃れる人々で溢れていた。
 死人の行列のような生気のない雑踏を避け、裏通りをたどって千葉方面に向かう。千葉街道を外れると、襲撃は覚悟しなければならない。
 デイパックには、3日分の食料、数枚のフェイスタオル、安物の登山ナイフ、5連発ニューナンブM60リボルバーが入っている。弾は10発確保していた。この拳銃は、秋葉原の路地で死んでいた警察官から拝借した。
 ホルスターは、秋葉原のトイガンショップで手に入れた。店員がいなかったので、代金は支払っていない。つまり、盗んだ。
 登山ナイフを右の腰に下げ、拳銃は左脇下に吊す。その上からダウンジャケットを羽織る。拳銃は見えないが、ナイフは見える。
 これは、意図的だ。武器を持っているぞ、と。

 俺には中間の目的地があった。総武線幕張駅から内陸へ10分ほどの住宅街に祖父の自宅がある。祖父は5年ほど前に他界し、家は空き家となっている。目立たない場所で、変哲のない木造の古い2階建て家屋だ。運がよければ、焼かれずに残っているだろう。
 家の中には、家具などは一切残っていない。祖父の死の直後に、すべて処分した。
 俺は社会が混乱し始めたあと、この家に若干の燃料や食料、衣料・寝具などの物資を隠した。ただ、鉄道が動かなくなり、ガソリンの入手が困難になったことから、1年ほどは訪れていない。

 眠らず、休まず、用心しながら歩き続け、夜明けの直前に、総武線、総武快速線、京成線が並行して地上を走る巨大な地下道に達する。
 途中で道に迷い、総武線幕張駅に出てしまい、そこから京成線幕張駅に向かったが、停電で暗いこともあり、迷ってしまった。
 昆陽神社の境内に身を隠し、1時間ほど夜明けを待つ。
 周囲が明るくなり初めてから、線路を潜る地下道を通らずに、フェンスをよじ登り、線路内に進入。走り渡る。
 地下道には、焚き火をする集団がいた。おそらく、老人だ。60代、70代、80代の凶暴な老人集団が、若い家族連れを襲う行為が頻発している。特に、湾岸や都心部はひどい。
 10代の若いカップルが老人集団に襲われ、物資を奪われ、男は殺され、女は強姦されるなど、日常のことになりつつあった。
 老人は、地下道や地下街が大好きだ。
 総武線幕張駅を通り抜けなかった理由も、こういった場所を根城にする集団を避けるためだ。
 俺は、50メートルに達する鉄道3線を越えて内陸側に渡った。祖父の家はすぐ近くだ。

 祖父の古い木造家屋は、1年前と変わらなかった。
 ヒトが住み着いている様子もない。こんなボロ家を狙わなくても、もっとマシな家がある。
 鍵がないので、裏口のガラスを割り、室内に入る。
 畳を上げ、床板を剥がすと、数個の段ボール箱とクーラーボックスがある。1年前と同じだ。
 缶詰のパンを開け、むさぼり食う。
 飴、氷砂糖、キャンプ用のガソリンストーブ、4リットルのホワイトガソリン、小型のLEDライト。物資はこれだけ。
 段ボール箱を上げる。ゴミ袋に入った毛布、と衣類。ここで、着替える。
 俺は身支度を手早く済ませ、誰かに見られる前に、祖父の家を立ち去るつもりだ。
 最後に埃の積もる畳に腹這いになり、合皮製木刀袋を引き上げる。
 ファスナーを開ける。刃渡り60センチの日本刀が入っている。1年前は拳銃を手に入れていなかったので、この祖父の持ち物が俺の最強の武器だった。

 幕張中学校には、数十人の避難者が一時的なのだろうが、住み着いていた。
 俺はこの集団に紛れ込んだ。この集団には指導者がおらず、単に群れているだけだからだ。こういった統率のないヒトの群は意外と安全だ。

 この一帯は、まだ上水道が生きていて、飲み水には困らない。周囲の状況を探るため、2日か3日はここにいるつもりでいた。

 初日に、ある幼い女の子に気付く。3歳くらいか?
 決して暖かい格好ではない。兄らしい男の子には朝と昼に食事が与えられたが、女の子にはなかった。
 父親らしい男は、基本的に女の子を無視している。母親らしい女は、女の子に罵声を浴びせる。俺は、その罵声で女の子に気付いたのだ。

 ペットボトルから水を飲んでいると、その女の子が近付いてきた。
「お水飲む?」と問うと頷く。
 水を与えると、かなりの量を飲む。空腹なのだ。
 俺は残り少ない角砂糖を2粒渡す。
「すぐに食べなさい」
 女の子は汚れた小さな掌に載った白い角砂糖を慌てて口に入れ、必死で溶かす。
 俺はいたたまれなかった。
「ありがと」
 弱々しい声だった。

 これが、俺と舞浜千早の出会いだ。

 2日後、俺が出発の準備をしていると、黄色い通園バッグをたすき掛けした、舞浜千早が校庭を走っていく。
 俺は慌てた。
 学校の外は、わけのわからぬ連中がいる。
 デイパックを慌てて背負い、木刀袋を左手に、トートバッグを右手に持って、女の子を追いかける。
 校門の直前で、追いついた。
 そして、女の子に問うた。
「どうしたの?」
「あのね、ママとパパがいないの」
「どこに行ったの?」
「ちーちゃんが悪い子だから、ちーちゃん置いて行かれたの。
 きっと……」
「ママとパパをおじちゃんと探そうか?」
「うん」
 力ない返事だった。
 学校内の何人かが俺を見ている。
 この置き去りにされた女の子に悪さをする、と思われているのだ。
 だが、誰も声をかけない。
 声をかけたところで、どうすることもできないからだ。親に捨てられた子は、誰かに殺されるか、衰弱して死ぬ。ほかの道などない。

 俺の計画は大幅に狂った。木下街道を内陸に進み、国道16号線に出てから、我孫子方面に向かい、国道6号線を北上して、水戸、日立、いわき、南相馬と進むつもりでいた。
 南相馬には、噂に聞く“ゲート”と呼ばれている時空のトンネルがある。ここから、2億年後に向かう国際プロジェクトが進行している。
 台場にも“ゲート”はあるが、順番待ちで混み合っている。それに、俺は“ゲート”に入るための条件を満たしていない。
 南相馬に向かいながら、条件とされる物資の確保を行うつもりだった。
 だが、幼い子供を考えなしに保護してしまった。
 計画を練り直さなければならない。

 女の子は、マイハマ・チハヤと名乗った。漢字はわからない。
 俺が舞浜千早とした。
 ちーちゃんは、明らかに弱っていた。この子の体力が戻るまでは、動けない。

 俺が千早を保護した理由だが、俺には最近まで相棒がいた。迷いイヌの五右衛門だ。五右衛門はアラスカン・マラミュートだと思う。おとなしく、利口で、俺の話相手をしてくれていた。
 俺と五右衛門が物資を探しに新小岩方面に行ったとき、杖をついた老婆に話しかけられた。
 一瞬の油断だった。頭を何かで殴られ、倒れ、背負っていたザックを奪われる。
 五右衛門が咆える声が聞こえたが、その後は意識を失った。
 目を開けたとき、五右衛門はひどく殴られて死んでいた。

 俺はそれ以来、ヒトとも動物とも話をしていない。
 千早が初めてだった。ヒトとの接触に飢えていたのだと思う。
 だから、考えなしに千早を保護したのだ。

 幕張東小学校の西側に焼けたマンションがある。火災に遭ってから1年以上経過しているように感じる。
 そのマンションは7階建てで、3階以上は全焼状態だが、2階の一部と、1階は焼け残っていた。
 かなりの大規模マンションなのだが、ひどく焦げ臭く、誰も住んではいない。
 俺は、このマンションの2階の部屋を隠れ家にした。

 千早は、缶詰のパンをよく食べた。手持ちの食料が少なく、マンション内の焼け残った部屋を漁って、食べ物を探す。水は、古い井戸から汲み上げた。
 水は濾過してから沸かし、千早に飲ませた。
 食料は缶詰などが、少しだが見つかる。鍋などで使う、カセットコンロとボンベを見つけ、それで湯を沸かし、風呂場で千早が身体を洗った。
「一人でお風呂には入れる?」と尋ねると、「うん」と答える。
 この子は何でも一人でできる。
 だが、結局、髪を洗うことは手伝った。

 夜は警戒して玄関で寝る。二人で身体を寄せ合い、浅い眠りにつく。毛布や布団は、かなりの数を確保できていた。
 建物外部と周辺は焦げ臭いが、俺たちが確保した室内は臭いは気にならない程度だ。比較的、快適といえる。

 火事の影響だと思うが、施錠している部屋は少ない。ほとんどが解錠されている。3階以上は、ドアが開け放たれている部屋も少なくない。
 火災が発生しても、消火されることはない。燃えるものがなくなるまで、燃え続ける。だから、火災跡の建物を物色する輩は少ない。釣果を期待できないからだ。
 俺も3階以上に興味はなかった。だが、ドアが開いていない部屋の内部は、一部が焼け残っていることがあった。
 そして、そんな一室からビニール袋で包装されたままの5キロ8袋コメ40キロを発見する。かつては違法とされる量の備蓄だ。
 この部屋の住人は、おそらくマンションが炎に包まれた時点で、この地を去ったと思う。もたもたしていたら、特別経済警察隊に捕まる。この醜悪な組織は1年ほど前に解体されていた。
 特経隊に捕まったら、なぶり殺しにされた。
 あの悪魔の公組織は、2年半で解散した。解散すると、一般市民による“特経狩り”が始まり、特経隊関係者は追い回されて家族ともども殺された。
 特経隊の所業はひどかったが、その後の“特経狩り”も凄まじいものだった。
 これで、日本の治安は決定的に悪化した。

 特経隊が存在していた時期ならば、隠匿物資が火事によって露見する前に部屋の住人は逃げたはずだ。
 結果、俺と千早の手にコメ40キロがある。他の部屋からも隠匿物資が見つかり、これを運ぶ方法を模索して、結果、1週間が過ぎてしまった。

 運び出し方法を模索している途中、4階通路の末端で、補助輪付き子供用自転車を見つける。
 つないでいた手をほどき、千早が自転車に走り寄る。
「自転車、乗れるぅ~」
「乗れるよ」
「教えてぇ~」

 その自転車を2階まで降ろし、通路で千早の自転車特訓が始まる。
 千早は補助輪があるのですぐに乗れるようになり、毎日楽しそうに乗っている。
 毎日のように「ママとパパを探さないとね」と千早はいうが、その行動を起こそうとは絶対にしない。
 その理由ははっきりしている。千早には両親を探す意思がないのだ。
 母親のあの罵声は、大人でも聞きたくない。正直、何度か無性に腹が立ち殺したくなった。そうしなかった理由は、俺の心にわずかに残っている倫理観の欠片だったのだろう。

 補助輪の音が激しく、外部に漏れるのではないかと気になっていた。
 千早が「補助輪とって!」といい、外す。そこからたいへんだった。なかなか乗れず、誰もが経験する過程を経て、3日で乗れるようになった。

 食べ物と着るものがあり、自転車が乗れるこの時期は、千早にとって幸せだったのかもしれない。
 千早の衣類は、同じくらいの年齢の子がいたのだろう、マンションの焼け残った部屋で見つけた。
 成長していく千早のために、できるだけ多くを確保した。
 しかし、ここに隠れてから2週間が過ぎると、マンションの周囲に人影を見るようになる。
 俺たちの存在が、気付かれたのだ。
 数日のうちに立ち去る必要がある。

 俺はこの2週間で、側溝に左前後輪とも脱輪し、マンション前に放置されていた旧式のライトエースバンを路上に引き上げ、バッテリーを交換し、少しずつ集めてきたガソリンを入れて、動くまで整備してあった。
 このクルマで、南相馬まで行ければ幸運だ。それは無理かもしれない。我孫子あたりまで北上できれば、上出来だろう。

 千早は、今朝もマンション2階通路で自転車に乗っている。
 日に日に上手になる。彼女からは所有権を意識した「私の自転車」という発言も増えている。この時期の彼女が自転車を失うことは、精神的なダメージを考えると可能な限り避けたい。
 そして、そのためのライトエースバンでもあった。このクルマがあれば、入手した物資を遺棄せずに北に向かえる。

 ヒトの声が聞こえる。
 千早はいいつけ通り、自転車を漕ぐのをやめ、自転車に跨ったまま通路の塀に身体を押しつけて身を隠した。
 俺は、中腰で千早の背後から近付く。
 千早を自転車から降ろし、その場に蹲らせ、自転車は通路の床に寝かせた。
 俺は少し移動し、通路と外階段との接合部にある隙間から、マンションのエントランス前を見る。千早が俺の背中をつかんでいる。
 大きな車輪の付いた3輪バギーを押す女性が、大柄な60代の女に率いられたグループに引き立てられている。
 このグループのことは知っている。この地域のヒトで、避難者から物資などを脅し取っている。純粋にそれを生業としている。
 通常は、もっと幕張駅側で“営業”しているはずだ。
 俺と千早がいるマンションの周辺は、まだ田畑が残っており、非常に寂しい場所だ。このマンションが火元なのだろう、周囲の木造家屋の多くが燃え落ちている。
 南側にもう1棟大きなマンションがあるが、全焼している。実際、この2週間、ヒトの気配を感じたことはない。
 だから、安全だった。

 60代の女、10代か20代前半の女が5人、同年代の男が7人。
 計13人。
 千早が屈んで俺の顔を覗き、俺の右腕を触る。
「あのおばちゃん、悪いヒトだよ」
 囲まれている女性は落ち着いているが、子供連れでは抵抗の術はないし、逃げることも不可能だ。
 物資を渡せば解放するかもしれないが、その期待は甘い。子供は殺され、彼女は数日間暴行され続けた上で殺される。
 普通は、子供の命乞いで大きな声を出すのだが、20代後半らしい女性は、実に落ち着いている。武器を持っているのかもしれない。

 60代の女が何かをいった。男たちが笑う。
 千早が小声で、「助けてあげて」といった。
 俺もそうすべきだとは思う。だが、こちらも子供連れだ。下手には動けない。
 俺は千早に「ここにジッとしていられる?」と尋ねる。
 千早は頷いた。そして、俺に抱きついた。

 俺はエントランスへ出る内階段を使って、1階に降りる。
 話し合いをする意思はない。
 懐から拳銃を出し、撃鉄を上げ、用心鉄に指を通す。
 俺がマンションのエントランスから出て、走らず早足で真っ直ぐに60代の女に向かって行くと、女は俺に「おまえ、何なんだ!」と怒鳴った。俺は真っ直ぐに歩き、距離3メートルまで近付き、両手で拳銃を構えて引き金を引いた。
 38口径S&Wスペシャル弾の弾丸は、60代の女の額を貫通し、女が仰向けに倒れる。
 弾は残り4発。ダブルアクションで、一番大柄な男の胴体を撃つと、残りは逃げ散った。
 10秒ほどの戦いだった。

 俺は女性に「ここは早く立ち去ったほうがいい」とだけ告げた。
 女性が「助けてくれてありがとう」といい、俺は「早く逃げるんだ」と急かす。
 千早がエントランスから走ってくる。
「お子さんが……」と女性。
「俺たちも逃げる。あなたも逃げろ」と俺。

 これが城島由加親子との出会いだった。

 結局、ベビーカーを押しては逃げられない城島由加を、千早の取りなしでどう見てもポンコツのタウンエースバンに乗せていくことにする。
 千早の自転車と40キロのコメ、そして2歳くらいの男の子が乗るバギーを除けば、かさばる荷なんてない。
 カセットコンロとボンベ、それと手に入れていた少しの缶詰。毛布や衣類の入った段ボール箱を車内に放り込み、エンジンを始動する。
 この時はまだ、城島由加の名を知らず、彼女と彼女の子を後部座席に乗せ、千早は助手席にちょこんと座り、国道16号線に向かって発進する。

 千早の自転車だが、その後、2年数カ月、千早の自転車であり続けた。
 だが“ゲート”に突入するためには、荷を極限しなければならず、大人の判断で元の世界に残置する。

 千早は大切な自転車を失ってしまった。

 城島由加は、千早とマーニを双子の姉妹のように育てた。二人はいつも一緒だった。
 二人が12歳になったある夏の日、チュールとマーニ、マトーシュとミルシェの2組の兄妹がパジェロ(自衛隊の1/2トントラック)に乗って、ノイリン外縁部北端までドライブに行った。
 そのドライブ自体、ドラキュロに気をつければ、さしたる問題はない。
 だが、俺は千早が行かないと決めたことが気になった。
 それを城島由加に問うたが、彼女にも理由はわからないらしく、「そういう年頃なのかも」と曖昧な答えをした。
 俺は非常に気になっていた。だけど、俺にできることなど限られる。

 2組の兄妹は、いいつけ通り、日没の3時間前に居館に戻ってきた。
 俺は4人の楽しかった話をテラスで聞きながら、心の大半は千早のことを気にしていた。

 そこに白いフレームのマウンテンバイクに乗った千早が、居館に颯爽と戻ってきた。千早の後方には、彼女を走って追う、子供たちが連なっている。
 マーニが呆然と千早を見る。
 やや強めにブレーキをかけて、居館のエントランス前で自転車を止める。
 この頃は、まだ自転車のほうが彼女の体格に比して大きめだった。
 城島由加が千早に「その自転車、どうしたの?」と尋ね、千早は「私のだよ!」と答える。
 そういうことではない。物資の乏しいこの世界で、自転車という“移動手段”を突然手に入れた方法を知りたいのだ。

 数カ月前から千早の奇妙な行動が、俺と城島由加との話題になっていた。
 時折、千早は内郭を出て、外郭のどこかに行っているらしいことは、俺たちも知っていた。
 ライマが内郭と外郭を結ぶために架橋した鉄橋を歩いているところを目撃していたし、外郭を循環するバスに乗っていたとか、そんな話が耳に入っていた。

 千早が元の世界に自転車を残してきたことは、元日本人は誰もが知っていた。彼女が自転車の思い出を話すからだ。
 そして、千早は自転車に乗れることが、彼女の自慢であることも……。

 金沢壮一は、ノイリン域外にある放棄された開拓地を精力的に調べている。ヒトが作ったものは維持しなければ、数十年で完全に朽ちる。建造物であっても、特別なものでない限り100年で土に帰る。
 彼の探査は、過去数十年間のヒトの活動を知る上で極めて重要なことであった。
 だが、そんな直近の歴史探訪といった実利とは遠いことではなく、実質的な利益もある。車輌や武器の発見だ。
 AK-47系列のアサルトライフルや、装輪の輸送車を発見すれば、瞬く間にノイリン北地区の噂になる。
 金沢壮一は、ある廃屋の中でマウンテンバイクを見つけた。その自転車のフレームはチタン製で、パンクレスタイヤを装着していた。
 樹脂製部品は、朽ちていたし、機械部分の油性はほぼ消えていた。
 彼はこの自転車のスマホの画像を千早に見せた。
「自転車だよ。直そうか?」
 千早は躊躇った。子供らしくない判断をする。自分の気持ちや希望ではなく、毎日忙しい金沢壮一を気遣った。
「いいの。自転車では、どこにも行けないから……」
 その通りだ。
 ドラキュロが跋扈するこの世界では、自転車は乗り物として機能しない。ノイリン内郭や外郭の一部なら使えるが……。
 金沢壮一は、千早の断りに微笑みで返し、長い時間をかけて、ノイリンで唯一となる自転車を再生する。
 そして、千早は6年ぶりに自転車に乗り、変速の仕方やマウンテンバイクの特性を覚え、そしてこの日、満を持してノイリン内郭に乗り込んできたのだ。

 千早が自転車を乗る姿を見て、城島由加が蹲って泣き出した。彼女も千早の自転車残置を気にしていたのだ。
 俺は「乗せろ!」と要求した。
 千早は「いや!」といった。

 その自転車に乗った千早が、居館の前に止め、自転車を持ち上げて館内に入っていく。

 これから、世界情勢を知るための会議が始まる。
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