対米戦、準備せよ!

湖灯

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★ノモンハン事件★

【妖艶で無口な獣】

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「これならどう?」

 途中、停車した駅で新聞を買い部屋に戻ると薫さんは私に言った。

 何だろうと思うと、あの飛び出していた胸が無かった。

「どうしたの?」

「さらし、よ。これなら大丈夫でしょ!……でも、普通は先に眼鏡に気がつくと思うんですけど」

 薫さんに言われて初めて、眼鏡に気付く。

 たしかに見た目はさほど問題ないようには見えたが、完璧とは言えない。

「だめだ」

「なんで?」

「その声で、バレる」

「……」

 しょんぼりしてしまった薫さんを気の毒に思い私は聾啞ろうあ者になれるかどうかと提案すると、彼女は明るい顔をして「なれる」と言い手話を披露してみせた。



 上海を夜に出て、2日目の昼過ぎにようやく北京に到着した。

 駅には石原少将の指示を受けた少尉が出迎えてくれ、情勢を聞くと未だ戦火は開かれていなかったが予断を許さない状況が続いているらしいことを教えてくれた。

 少尉がチラッと薫さんを見たので、外交官の方だと説明すると納得して、それ以降薫さんを気にする素振りは見せなかった。

 髪を切った薫さんは男性の標準身長よりも背が高かったのと、胸には“さらし”を巻いていたので女であるとは思わなかったのだろう。



 北京郊外にある南苑空港に陸軍の輸送機を待機させているからと、私たちは彼に従い車で南苑空港に向かいそこから輸送機に乗り満州へと向かった。



 ノモンハン事件は、前史では2年後の1939年(昭和14年)5月11日に起こるはずの紛争。

 この1937年に起きるのはアムール川に浮かぶ乾岔子カンチャーズ島周辺で起きたカンチャーズ島事件のはず。

 しかし電報には、ソ連軍がハルハ川沿いのノモンハンに集結中と記されてあった。

 これがいったい何を意味するのか……。

 とりあえず日本側に有利な点は、1939年のノモンハン事件の際に満州に居なかった石原少将が1937年のいまは居るとという事。

 彼は自由奔放で、時には間違ったこともするが、間違った結果をみて自身の考えを修正する能力があるばかりか、その先を見直す能力にも長けている。

 だからワザと揉め事を起こし、軍役を退いた。



 工業や化学の目まぐるしい発展に伴い、日々変わって行く兵器や戦略。

 今や軍学校で教えられた常識はもう通用しない。

 時代の先を見る目と、創造力が求められる時代になった。

 陸軍も海軍も士官学校での席順に拘り過ぎて、適材適所が出来ないばかりか使えない将官に使えない玩具を与えられて兵たちを苦しめるだけになっていた。



 夕方に満州の首都新京に到着しそこから汽車を乗り替え、白城子を経て大興安嶺の麓にあるアルシャンを目指した。

 アルシャンに着いたのは翌日の昼過ぎ。

 アルシャンには石原が車を用意してくれていたので、それを使って山を越えてノモンハンを目指そうとしたが、ここで邪魔が入った。

 前史では二・二六事件の後処理で失態を犯し予備役になったはずの真崎甚三郎大将が、事件が起こらなかったことで満州に居て戒厳令を敷いていたため折角石原が用意してくれていた車も使えずにこの日はそのまま此処アルシャンに留まることになった。



 『なにアイツ! せっかく石原少将が、重要人物だからという命令書付きの通行許可証を発行してくれていたのに、それを反故にするなんて‼』

 ホテルに入ると、それまで大人しくしていた薫さんが怒って声を上げる代わりに、部屋にあったエアメール用の紙に書き殴って私の前に突き出した。

 薫さんが言ったアイツとは、むろん対応に出てきた真崎大将のこと。

 怒っていても約束通りちゃんと聾唖者であることを通すところが凄い。

 全ての歴史が良いほうに動くとは限らない。

 事件が起きなかったことで失われずに済んだ命もあれば、そのために表舞台から消えるはずの人が残った。

 結果的には、失われたはずの命が残った価値の方が高いのだから、これは良しとしなければならない。

 歴史は多くの人たちの行動の証だから、とても一人の力では変えることはできないし、完璧な歴史など存在はしない。

 過去に戻った私にしても、ただきっかけをつくっただけで、成果を導き出したのは世論や幾人もの関係者のおかげだ。



 ノモンハン付近にソビエト軍が集結中とという知らせを受けて、はや3日が経つ。

 その後の動向が気になり、大本営に電報を打とうと思いホテルのスタッフに依頼したが、日本軍から一切の通信手段を止められているので何も出来ないと言う事だった。



 しかたなく私たちはこの日もノモンハンには到着できず、ホテルで夜を明かす事となった。

「薫さん、まだ起きている?」

 なかなか眠れずにいて、薫さんに声をかけてみた。

 かさかさと布団が擦れる音がした。

「この先、どうなる?」

 今度はさくさくとペンを走らせる音がしたあと、私の顔の前に一枚の紙が突き出された。

 月の光に照らされたその紙には『なるようになるさ。だから、今を憂う事なかれ』と、

たおやかな文字で書かれていた。

「二人きりなんだから、話してもいいのに……」

 私はつい、そう呟いてしまう。

 すると今度はゴソゴソと音がしたかと思うと布団がはがれ、柔らかくて温かい“けもの”が私の上に覆いかぶさってきた。

 私は驚いて、その“けもの”の名を呼び、制止を試みる。

「か、か・お・る、さ……っ」

 だが言い終わる前に私の言葉は、妖艶で無口な “けもの” に、呑み込まれてしまった。
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