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★ノモンハン事件★
【第1次ノモンハン事件①】
しおりを挟む夕方近くに丘の頂上に上がった。
頂上には対空火器が並び、対空指揮所をはじめ扶桑から取り外された大型の測距儀も陸上用に改造されていた。
確かに日本のような地形だと海軍の艦船が付けているような測距儀は使えないが、ここは広大なハイラルの平原地帯だから使い道は大いにある。
風のない空が薄っすらと柴色に染まりかけ、平原の向こうには第23師団のものと思われる夕食の炊き出しをしているらしい煙が上がっていて、隣に並んでいる薫さんがまるで深い森の奥にある泉のような透き通った冷たい目をしてハイラルの景色を見ているのが印象的だった。
やがて空が燃えるような赤に変わり、そして柴色から濃紺に変わるころ急にノモンハン付近から明るい光の玉が幾つも空に舞い上がった。
“照明弾‼”
私たちは慌てて丘の頂上から下にある司令部に向かった。
司令部では石原少将が無線で状況を確認している最中で、辻少佐と思われる声に怒鳴り声を上げていた。
『敵部隊がハルハ河を越えています!』
「敵とはソビエト兵か?それともモンゴル兵か?」
『く、暗くて分かりません!』
「敵の規模は⁉」
『不明ですが、大部隊だと思われます!』
「戦車は?」
『分かりませんが、これより司令部に戻ります‼』
「バカ野郎‼ 何のために中隊規模で参謀を偵察に出していると思っているんだ!敵の規模も戦車の有無も分からないのでは分隊規模の偵察と何ら変わらん! 交戦しながら、正確な情報を寄越せ‼」
『ですが……』
「後ろには小松原の第23師団も控えている。貴様は、そこに留まり正確な情報を伝えろ!」
『応援を寄越して下さい‼』
「バカか⁉ 敵の規模も分からないのに、応援など出せるか! 先ず情報が先だ!それくらい作戦参謀の一員なら新兵でも分かる事だろうが‼」
石原は、そう言って無線を切った。
越境攻撃ですかと石原に聞くと、彼は未だ分からんとだけ答えた。
たしかにたくさんの照明弾は上がったが、その数に見合うだけの大部隊が渡河を始めたかどうかは分からない。
照明弾の上がった正面には小部隊しか居なくて、大部隊は密かに別の渡河地点から回り込んでくる可能性だってある。
もし前線にいる辻少佐の言い分を鵜呑みにして後続の第23師団を動かしてしまえば、我が方が逆にハルハ河に追い詰められる可能性もある。
石原の言う通り、ここは多少の犠牲を覚悟してでも、正確な情報が求められることは間違いない。
「すまんな、部下が醜態をさらしてしまって。まったくロクに部隊経験のない奴に参謀なんて務まるわけがない。彼にとっても、これはいい勉強だろう。……ところで、君、部隊経験は?」
石原に聞かれて困った。
過去の世界に戻る前であれば、私は航空隊に居て何度かの空戦も経験したが、この時代では自分自身がいったい何物なのかも実際のところ分かっていない。
私が直ぐに答えないのを見て彼はすぐに話を変えた。
「まあ、遠くから来たんだ、今夜は疲れただろうからゆっくりしてくれ」と。
私たちはすぐに部屋には戻らず、もう一度丘の頂上に行った。
静かだった空気がドンパンという火薬の振動を伝え、遠くのノモンハンからはかすかに赤い閃光が飛び交っていた。
薫さんが手話を使って私に聞いた。
石原少将は彼らを見捨てるつもりなのだろうかと。
私は少し考えて答えた。
見捨てるつもりはないだろうが、下手に今動くことは彼らだけでなく、もっと多くの犠牲を払うことになるだろうと。
とにかく今は、情報が最優先となることは間違いない。
“風林火山”
これは戦国の武将、武田信玄の旗印として有名だが、これは紀元前500年ごろにいた中国の武将で軍学者である孫武の句から引用されて兵法書『孫子』に書かれている。
“疾こと風の如く、徐なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し”
意味は、軍が動くときは風のように早く動き、時を待つときは林のように静かに待ち、攻める時は火のように激しく攻め、守る時は山のように動かないと言う意味になる。
今は情報が集まるまで待つとき。
次の行動は、その情報次第で、風になるのか火になるのか、あるいは山になるのか……。
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