田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~

皐月なおみ

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深川めし疑惑

安居家にて

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 りんからの催促がないのをいいことに、のぶは深川めし屋近くで見たことを、りんに告げるかどうか次の月まで迷った。
 心は乱れて小さな間違いを繰り返し、晃之進に出す田楽に胡麻と間違い七味をかけてしまい心配されるしまつだった。
 そして結論が出ないままに、晃之進の母の月命日を迎えた。毎月の月命日に、のぶは店を閉めて安居家に行くことにしている。
 世話になった晃之進の母親に申し訳ないと思いつつ、憂鬱な気持ちで、のぶは安居家に向かった。

「いらっしゃい、のぶ。待ってたわ。ぼうやがいないのは、ちょっと変な感じがするわね」

 朔太郎を引き取ってからは毎月一緒に来ていたから、確かにどこか物足りなさを感じる。こうやって少しずついろいろと変わっていくのかもしれないと一抹の寂しさを感じた。
 子が大きくなるのは嬉しいけれど、別々の時間は増えていく。

「ぼうやは寺子屋には慣れた?」
「ええ、毎日楽しく通っています」
「少し遠いから疲れているでしょう? 旦那さまも、もう少し近いところを紹介すればよかったのに。いくら先生がよくても遠いんじゃかわいそうよね」
「それももう慣れたみたいです。足が強くなるのでかえってよかったかもしれません」

 世間話をして、仏壇に線香をあげたあと、どちらともなく台所へ移動する。
 いつもなら、線香をあげたあとはそのまま仏間で茶を飲みおしゃべりをする。晃之進の母親が生きていた頃は、彼女が寝ているそばでよくそうしていたからだ。でも今日は、倉之助の話になるのは確実で、ならばそれを位牌の前でするわけにはいかない。

「それでのぶ……なにかわかった?」

 台所の上り口に腰を下ろすならり、りんが声をひそめる。
 この段になってものぶは深川めし屋の女と倉之助の件を話すのかどうか決めかねていた。

「深川界隈でうちの旦那さまが聞き込みをするような事件が起きてるかどうか、晃之進さまに聞いてくれた?」

 待ちかねたように問いかけられて、とりあえずそちらの件について話をする。

「き、聞きました。これといってないそうです」

 りんの目もとがきつくなる。
 のぶは慌てて付け加える。

「でも、わたしに言えないだけかもしれません。内密に動かなくてはならない事件もあるでしょうし」

 けれど彼女は納得しなかった。

「やっぱり聞き込みか、あとをつけるしかなさそうね」

 もはやのぶの言葉は耳に入らず、ぶつぶつと呟いている。

「それはさすがに……旦那さまは捕物の玄人ですから、お義姉さんの尾行なんてすぐに見破られますよ」
「あら、わたしだってこれでも八丁堀生まれなのよ。見つからないようにあとをついて行くことくらいできるわ。実はこの数日音を立てずに歩く鍛錬をしているのよ」

 不服そうするりんに、のぶの胸は痛んだ。
 八丁堀生まれと尾行の得手不得手は関係ないし、尾行の腕など少しの鍛練では身につかない。それでも音を立てずに歩く鍛錬をしていたという、りんのそんなところがのぶは好きだ。彼女を悲しませる倉之助を憎らしく思った。
 こんな妻がありながらどうしてよその女に目がいくのだろう。

「大丈夫、絶対にのぶには迷惑をかけないわ。でもわたし、深川にはあまり詳しくはないでしょう? だから簡単な見取図を書いてもらえないかしら。あと着物を貸してもらえない? 旦那さまにばれないように」

 もはや行く気満々だ。止める手段はひとつしかないと、のぶは覚悟を決めた。

「ま、待ってください、お義姉さん、あの……もうひとつ話があるんです」
「なぁに?」
「……その前に確認したいのですが、お義姉さんは、旦那さまに女性がいるとしたら、お相手がどこの誰か知りたいんですよね。どこの誰かわかったらことを荒立てるつもりはないと……」
「ないわ。どこの誰かを知りたいのも、正妻としての務めだと思うからよ。なにかあった時に対処しなくてはならないもの」

 気丈にもはっきりとりんは言う。
 やり方や発想はやや突飛だが、すべては武家の妻としての役割をまっとうしようという責任感から来る気持ちだろう。
 ならば自分が見たものを話すべきだと確信する。

「おかみさん、落ち着いて聞いてください」

 そしてのぶは半月前に、深川めし屋で見た出来事を、りんに告げた。
 話しながら、のぶの胸はじくじくと痛み、暗澹たる思いでいっぱいになる。話を聞いているりんの顔色が、真っ白になっていくからだ。

「お義姉さん……つらい話を聞かせてしまってすみません」

 すべてを話し終えて項垂れる。偶然知ったこととはいえ、りんにとってつらい事実を告げたのが申し訳ない。
 けれど彼女は気丈にものぶの手をぎゅっと握った。

「のぶ、ありがとう。おかげで、旦那さまのお相手が、どこの誰かがわかったわ」

 真摯に礼を言われてたじろいだ。

「いえ、そんな。わたしはただ猫を追いかけていただけで……」

 とはいえ一応は気は済んだようだと安堵する。
 夫婦の関係は心配だが、彼女がことを荒立てるつもりはないならば決着はついたといったところだろう。
 そのはずだ。
 ……そのはずだけれど、なにやらりんはぶつぶつと呟いている。

「そう……深川めし屋の方……。おかみさんなのかしら。それども奉公人? のぶ」
「は、はい」
「綺麗な方だった?」
「ど、どうだったかな」

 たじたじしながらのぶは答える。
 たおやかな綺麗な人だったように思うけれど、それをそのまま伝えてよいのかどうかわからない。どう言えばりんは一番傷つかずにすむのだろう。
 自分よりも綺麗な人だったらあきらめがつくだろうか。
 その逆は?

「遠目だったので造作まではよくわかりませんでした」

 結局あたりさわりのない言葉を口にしてお茶を濁す。
 りんは「そう」と残念そうに答えて、なにやら思案している。そしてなにを思ったのか、にっこりと笑った。

「のぶ、お腹すかない?」
「え? ええ……まぁ」

 唐突に話題が変わり、戸惑いながらのぶは頷く。
 もちろんお腹は空いている。月命日でここを訪れると、おしゃべりの後は昼食をとる。いつもならもう食べ始めている頃合いだ。

「今日は外へ食べに行きましょう」
「え? ……どこへ?」
「深川よ。深川めし屋へ行きましょう」
「ええ⁉︎」

 それはもしかして件の深川めし屋だろうか。いやもしかしなくてもそうだろう。
 驚愕するのぶを横目に、りんはすっくと立ち上がる。のぶはあわあわと口を開いた。

「お、義姉さん……! そんな……ことを荒立てるつもりはないっておっしゃったのに」

 まさか乗り込むと言い出すとは思わない。

「もちろん、ことを荒立てるつもりはないわ。でもどんな方かこの目で見たいじゃない。こっそり見るくらいなら、ことを荒立てるとは言わないんじゃないかしら。お相手の方の生業がごはん屋さんなのはありがたいわね。誰でも客のふりして紛れ込みこっそり見られるんだもの」
「い、いや、客のふりって……」

 深川めし屋は、漁師めしと言われている。このあたりの漁師が漁の前後に食べに行くめし屋である。

「お義姉さん。深川めし屋の客はほとんど漁師の男たちですから、わたしたちが行ったら目立ってしまいますよ」

 しかものぶは田楽屋を営んでいる都合上、深川ではそこそこ顔が知られている。噂になれば当然なにをしてたんだ、と言われかねない。

「あら、ごはん屋さんはごはん屋さんじゃない。誰が行こうとかまわないと思うけど」

 そう言ってりんは、のぶが止める間もなく奥の部屋へ引っ込み、すぐに戻ってくる。紙入れを取ってきたようだ。

「どんな方かこの目で確認したら今度こそ静観します。行くわよ、のぶ」

 そして驚く素早さで、さささと勝手口から外へ出る。
 のぶは慌ててあとを追った。
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