田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~

皐月なおみ

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かりんとうもどきの恋心

又三郎の話

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 朔太郎が寺子屋へ行くと言い出したのは、突然だった。
 朝、いつものように家族三人で朝餉を取ったあと晃之進が出かける準備をしていると、二階から風呂敷包を背に下りてきた。

「さく?」

 まるで寺子屋へ行くかのような格好に、のぶが驚いて問いかけると一文字に結んでいた口を開いた。

「おいら、行く」
「お、そうけ。んじゃ顔を拭け。もう少ししたら出るからよ」

 いたって気楽に晃之進が答える。でものぶは、じゃあいってらっしゃいとそのまま送り出すわけにはいかなかった。
 無理をしてるのではないかと思ったからだ。
 ここ五日程、又三郎が田楽屋に来ていない。かりんとう屋の話からのぶが連想したあることから、彼の周辺が少しごたごたしていたからだ。
 又三郎からは、落ち着いたらまた朔太郎の顔を見にくるという伝言を受け取っているし、それは朔太郎にも伝えているけれど。

「先生は今少しお忙しいから来れなかっただけ。また来てくださるよ」

 朔太郎のことを忘れたわけじゃないという意味でそう言うと、朔太郎が重々しく言った。

「でも、このままでは腕がなまる。おいら先生の駒回しの師匠だから、ちゃんとおしえないと」

 のぶと晃之進は顔を見合わせた。ここで又三郎に駒回しをおしえている朔太郎は、すっかり駒回しの師匠の気持ちでいるようだ。
 寺子としてではなく、師匠としての役割をまっとうしようという気持ちから寺子屋へ行こうと決意したのが、可愛らしい。そしてとにかく嬉しかった。
 緩みそうになる口もとを引き締めて、のぶも真摯な顔で頷いた。

「なら行っておいで、先生もここに来なくても駒の鍛錬ができるなら喜ばれるよ。しっかりね」

 そこから慌てて握り飯をふたつ作り、昼餉として持たせ、慌ただしく見送った。
 その日は日中、店を開けても、なにをしていてもそわそわと落ち着かなかった。
 朔太郎が寺子屋へ行くのは本当に久しぶり。
 他の寺子たちの輪の中に入れただろうか?
 寂しくてやっぱり来るんじゃなかったと泣いてはいないだろうか……
 どうしても悪いことばかり頭に浮かんで落ち着かない。本当は、店を閉めて見にいきたいくらいだった。
 だが気候のよいこの季節は、田楽がよく売れる。店を開けた途端客が引も切らずに来て、とてもそれどころではなかった。
 そしてその日の田楽を売り切った頃。
 通りの向こうに朔太郎の姿を見つけたのぶは思わず大きな声をあげ、店を放り出して駆け寄った。

「さく!」

 そのまままだ小さい身体を抱きしめる。

「がんばったね、えらかったよ。どうだった?」

 覗き込んで頭をなでると、朔太郎がへへへと笑った。

「べつに普通だ」

 どことなくほっとしているように見えるのは、彼自身も久しぶりの寺子屋でつつがなく過ごせたことに安堵しているのだろう。
 このくらいで大袈裟なと自分でも思うけれど、熱いものが込み上げて目が潤む。

「朔太郎は、今日一日、よく頑張っていましたよ」

 頭上から声をかけられて、のぶははじめて今日はよしではなく、又三郎が一緒だと気がついた。朔太郎が久しぶりに行ったので、一緒に帰ってきてくれたのだろう。

「先生……」

 慌てて立ち上がり、頭を下げる。そしてそのまま店の中へ招き入れた。

「わざわざありがとうございます。どうぞお座りください」
「いえ、朔太郎が来てくれたのが嬉しくて浮かれてついてきてしまいました」

 にっこりと笑って朔太郎の頭をなでた。

「おかげでわたしは駒回しのこつを掴めた。正太も喜んでたな。また明日も頼む」
「うん!」

 そこへ店の中に、子どもが駆け込んできた。

「さく、なんだ、いるんじゃねえか」

 彼は裏店の子で、ここのところ家にいた朔太郎はよく彼と裏通りで遊んでいた。今日は来ないからどうしたのかと誘いにきたのだろう。

「なんで来ねえんだよ」
「今日は寺子屋へ行ったんだ」
「ふーん。んじゃ、今から来いよ、めんこしようぜ」

 朔太郎はちらりとのぶを見る。普段ならろく確認もせずに、「行ってくる」と出ていくが、いまは又三郎が来ているからいいのだろうかと迷ったのだろう。

「朔太郎、行っていいぞ。また明日な」

 又三郎が声をかけて、のぶはそれに頷いた。

「遊んでおいで」

 躾のことを考えると風呂敷包を二階へ持っていってから……と言うべきなのだが、今はそんな気にはなれなかった。朔太郎が今日一日寺子屋へ行って帰ってきた、それだけで胸がいっぱいだ。

「うん!」

 元気に頷き「先生、さようなら」と挨拶をして、朔太郎は男の子と連れ立って出ていった。

「小さい子には優しくね」

 ふたりに声をかけてから、のぶは又三郎に向き直った。

「先生、本当にありがとうございました。田楽、食べていってくださいね」
「いいのですか、嬉しいです」

 又三郎が、いそいそと腰を下ろすのを横目に、のぶは晃之進の夕餉にととっておいた分を長火鉢にかける。

「田楽目当てにきたみたいでお恥ずかしい」
「そんなそんな。うれしいです」

 香ばしい匂いをさせる田楽を又三郎の前に置くと、彼はあっという間に平らげる。茶を飲む段になって、のぶは、かりんとうもどきを出した。
 又三郎がそれを掴み首を傾げた。

「これは、かりんとうですか?」
「ええ。……て言っても、もどきです。前に先生が持ってきてくださったのをさくが気に入っていたので、家にあるもので作ってみたんですよ。豆腐を小さく切ったものを生地の代わりにして……なので歯応えが本家よりずいぶん落ちます。でもその分食べやすいみたいで、小さな子にはいいんですよ。さくが気に入ったので、ここのところ毎日のように作っています」
「へぇ……」

 感心したようにそう呟いて、又三郎はそれをかじる。そして目を丸くした。

「なるほどこれは食べやすい。年寄りにもいいですね。さすがはおかみさん。お菜作りの名人だ」

 手放しに褒められてのぶは、身の置き所がないような気持ちになる。ただ見よう見まねで作っているだけだ。しかも今日は生地に絡める蜜を煮詰める時に失敗して少し焦がしてしまった。

「ちょっと苦くないですか? わたし火加減を間違えたので」
「いえ、わたしはこのほろ苦さが好きです。茶によく合う」

 お世辞という感じでもなくそう言って又三郎は嬉しそうにかりんとうもどきを食べている。茶を飲み、ふぅっと息を吐いて、少し遠い目になった。

「小さい頃、実家でも食べさせてもらいました。母上が、作ってくれまして」
「まあ、お母さまが?」
「そうです。実家のあたりは江戸のようにたくさん店もないですから、なんでも自分で作らねばなりませんし」

 仙台藩がどんなところかのぶはよく知らないがここより寒いところだと聞いたことがある。
『実家』という言葉と子どもたちに話をする時とは少し違った彼の声音に、のぶは彼の向かいに腰を下ろした。朔太郎を気遣って送ってくれたのだと思うが、なんとなくそれだけではないように感じた。
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