田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~

皐月なおみ

文字の大きさ
38 / 46
かりんとうもどきの恋心

かりんとう屋の疑惑

しおりを挟む
 松太郎が寺子屋を替えたことで、田楽屋での親子の対面ができなくなったなみは、ひどく落胆した。
 松太郎の寺子屋替えは、姑の独断だったようで、例によって父親は口を挟めないようだ。
 朔太郎とのぶが橋渡ししていた文のやり取りは、倉之助、晃之進、のぶを介して続けている。もちろんなみは申し訳ないと固辞したが、皆、子を持つ親である。面倒だなどとは思わない。
 そして今日、のぶのところへ文を受け取りにきたなみは、浮かない表情である。
 前の通りで遊ぶ朔太郎とはなを悲しげに見つめてため息をついた。

「新しい寺子屋のお師匠さんはとっても厳しい方みたい。松太郎もつらいって……」

 どうやら松太郎は、文で母親に新しい寺子屋のつらさを訴えているようだ。

「わたしも読むのがつらいくらい」
「隣町の寺子屋って、評判がいいんじゃなかったの? だからみんな変わっていったんでしょう?」

 さちが首を傾げた。

「どうでしょう? わたしはちょっとその評判信じられないわ。松太郎は又三郎先生の方がよかったって言ってる。確かに学問の進みは早くなったけど、全然楽しくなくないみたい。少しでも字が乱れるとぴしりと手を叩かれるみたいで」

 ため息まじりのなみの話に、さちは目を丸くする。

「え? 松太郎さんの字でも?」

 ここで熱心に手習いをしていた松太郎の字は大人顔負けの整ったものだったのに。

「そうみたいね。寺子屋ではまたいつ叩かれるかとびくびくしているようよ。又三郎先生のところからうつってきた子たち皆、戻りたがってるって。松太郎も姑に頼んでるみたいだけどだめだって言われるみたいで」
「松太郎さんかわいそう……」

 自身も子どもの頃、師匠と相性が悪かったさちは、心底同情している。のぶも同じ気持ちだった。毎日びくびくしながら通うなんてかわいそうだ。

「子どもたちが嫌がるような師匠のところへ行かせるなんて、ひどい話だとわたしは思うけど」

 さちの言葉にのぶは複雑な気持ちで頷いた。かつてはのぶも、朔太郎をそこへ行かせてはどうかと思っていた。つくづくあの時、晃之進が止めてくれてよかったと思う。そんなところへやっていたなら、朔太郎は寺子屋そのものを嫌いになっていたかもしれない。
 はじめて又三郎が来た日から、彼は一日おきに店に顔を出すようになった。寺子屋へ来いと言うわけでもなく、ちょっと寄ったという風で、小上がりで練習中の駒回しの腕前を朔太郎に披露する。
 それに朔太郎は、あーでもないこーでもないと指導して、自分のやり方を見せたりしている。
 はじめの日の仏頂面はどこへやら、今は又三郎が来ると思しき日は、店を閉めるやいなや駒を持って、そわそわと待っている。
 昼間、店で過ごしている時の表情も明るくなった。又三郎が師匠でなかったら、こうはならなかっただろうと思うと、世間の評判などまったくあてにならないとのぶは思った。

「又三郎先生はあんなにいい方なのに、どうして隣町の寺子屋の方がいいなんて噂が流れるんだろう? 子供たちは楽しく通ってたのに……」

 自分だってその評判に右往左往してたくせに、つい恨みがましい口調になってしまう。その評判のせいで、又三郎の寺子屋は、寺子が減り朔太郎が悲しい思いをすることになったのだ。
 もう二度、世間の噂には惑わされない。そう決意しながらのぶはふたりの前に茶請けを置いた。

「評判には、尾ひれがつくからね。たいていの人は、聞いた時よりも大袈裟に話すものだからさ。どんどん話が大きくなっていく」

 さちが訳知り顔でそう言って、のぶが出したかりんとうを口に放り込んだ。そして目を丸くする。

「美味しい! これかりんとう? でもなんか違うような……」
「わたしが作ったのよ。見よう見まねだけどね」

 朔太郎の気持ちに寄り添ってやれなかったことを悔やんだのぶは、あの日以来、家で手習いをさせるのはやめにした。
 今は彼の傷ついた心を癒す時期なのだと心に決めて、美味しいものを食べさせて、好きなだけ遊ばせている。そして朔太郎が気に入った、かりんとうをたくさん食べさせたいと思ったのだ。
 けれどこのあたりには、かりんとう屋はない。ならばとのぶは試しに自分で作ってみることにした。水分を切った豆腐をちょうどよい大きさに切って、油で揚げ、熱いうちに水飴に絡めたものが、のぶ特製かりんとうもどきだ。
 朔太郎が気に入って、もっと食べたいとせがむので、ここのところ毎日作っている。

「はー、やっぱりのぶのお菜の腕はさすがだね。かたくないから食べやすいよ。あとではなにも食べさせよう」

 まずは自分が食べてみて、はなに食べさせてもよさそうだと思ったのだろう。

「あら嬉しい。たくさんあるからどんどん食べて」
「ありがとう。それにしても美味しい。この前の食べたかりんとうとは大違い。このかりんとうを食べさせたら、あのかりんとう屋はきっと裸足で逃げ出すよ」
「え、かりんとう屋があるの? どこに?」

 ここのところ探していたかりんとう屋の話に、のぶは食いつく。が、さちは顔をしかめて首を横に振った。

「いやこれの方が美味しいから、わざわざ買う必要はない。それに親戚の法事で行った姑の実家の近くだから、ここからは行けないよ」
「なんだ」

 がっかりとしてそう言うと、さちが「行かなくていいって」と言った。

「寺子屋の話じゃないけど、前評判なんてあてにならないね。その店もね、開く前はすごく評判がよかったんだ」
「へえ」
「なんでも上方で修行を積んだ職人が開く店だとか言って、近所に噂が流れてさ。うちの姑はそういうのに弱いから買ってきたんだよ。でもべつに普通だった。なんなら固くて食べづらいくらい。はなはひとつも食べなかったもん」

 食べ物には好みもあると言うけれど、おやつなのに、子どもがひとつも食べないのは珍しい。

「店をはじめたばかりの頃は、評判を聞きつけた人で行列が出来てたって話だけど、すぐにそんなことはなくなって今は閑古鳥が鳴いているらしい。……で、聞くところによると、どうやらその噂が、眉唾物だったんだって」

 眉唾物とは不穏な話だ。

「どういうこと?」

 なみが興味をそそられたように問いかける。

「噂自体が意図的に流されたものだったのよ」
「意図的に?」
「そう、ほらどこにでもいるじゃない。人の事情を根掘り葉掘り聞きたがって、それをあっちこっちに言いまくる人」

 いったいどういうからくりか、そういう人は町内にひとりはいるものだ。もちろん悪いことばかりではなく、防犯の上では役に立つこともあるにはある。

「でね、そういう人に金子を握らせて、今度かりんとうの店を出すから、評判を広めてほしいってあらかじめお願いしてあったらしい」

 だから店を始めた途端に首尾よく人が殺到したというわけか。

「うまいこと考える人がいたものね」

 なみが感心したように息を吐く。のぶも同じ気持ちだった。
 評判は商売をする上では大切だ。
 春に通ってくれていた宮大工も田楽屋の評判を聞いて来てくれたのだから。でもそれをわざと作ろうだなんて、のぶは思いもしなかったやり方だ。
 とはいえ、今回はそれが裏目に出た。

「評判なんてあとからついてくるものなのに、わざと流すなんて悪手だよ。いい評判を聞いてたらそれだけ客の期待は大きくなる。並大抵の味じゃ納得できない」

 自身も商売をしているさちの話に、のぶとなみは頷いた。
 けれど、真っ当に商売していれば必ず客が来るというわけでもないのが難しいところで、多少無茶をしても、人を集めたいという気持ちはわからなくない。

「わざと評判を流すか……いろいろ考える人がいるものね」

 呟くと、こつんと胸を叩かれたような心地がする。どうしてか、ひっかかりを覚えた。
 わざと大袈裟な評判を流し、たくさんの客を呼び込む。けれど実体は、評判とは違っている……
 のぶの中でその話が、近ごろ悩まされているある事柄と繋がった。
 起こったことは逆だったけれど……

 ——もしかして、あれもそうだったのでは?
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

出雲屋の客

笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。 店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。 夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。