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【第二章】 「腹黒王子に逃げた俺、逃げきれませんでした」
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しおりを挟む部屋に戻ると、風紀委員会が例のノートを手に持って開いていた。
そのノートとは——俺の人に知られてはいけない現在進行形の″黒歴史″の一冊め。
ちなみに二冊めは俺の鞄の中にある。
この悪魔に命を握られた状態だというのに、創作の手は止められない。
腐男子のサガって恐ろしい。俺の馬鹿。
この供給過多の学園の、素晴らしい男子カップル達をメモして創作にした″妄想ノート″だ。
世に出たら俺は社会的に完全に死ぬ。
いや、もっと正確に言うと、
(……おいおいおいおい、よりによって“会長×委員長シリーズ”のページ!!)
ページ中央には、優雅な筆跡で書かれたタイトルが踊っていた。『学園権力者の秘密:壊れる幼馴染の関係』。
ページの中では、護堂要が天瀬晴人を執務机に押し倒し、シルクのシャツを無理やり剥ぎ取る場面が——
「……これ、僕が要に押し倒されてるとこなんだけどさ」
「……………」
目の前には、晴人がノートを片手に優雅に座っていた。
ほんのりと微笑みながら、その悪魔はページの角を指先でなぞっている。
「ごごごごごめんなさいごめんなさい妄想なんですほんとただの妄想なんですお二人をやましい目で見ている訳じゃないんですいや見てるけどそれは俺の目が腐ってるだけでお二人が本当にそんなことしてるとか思ってるわけじゃなくてでもでもでもっ」
「うん。すっごい饒舌。普段からそれくらい話してくれたらいいのに」
「いやほんと…勘弁してください……!!!」
顔が燃える。喉が焼ける。心臓が止まりかけてる。
というかそれ、返して!捨てて!読み上げないで!
でも晴人はノートから視線を外さず、冷静な口調で続けた。
「それで、なんか僕が要に押し倒されてるとこ、やたら僕のこと綺麗なお姫様みたいに書いてくれてるけど……」
ページをめくりながら、さらりと口にする。
「これ、根津くんの目には僕がこう見えてるってこと?」
「ひょ、ひょえ……っ」
口から変な悲鳴が漏れた。
こんなの、羞恥心のブラックホール。早く吸い込まれて消えたい。
「それなら……」
晴人がノートから顔を上げ、ふわりとした笑みでこちらを見つめてくる。
その青みがかった瞳には、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。
「僕が“攻め”の時の描写ってさ、もしかして根津くんが僕にしてほしい願望?」
「…………っ!!!」
何かが喉に詰まった音がした。
そして俺は、必死で手を伸ばしてノートを奪い返そうとしたけれど——
「だめだよ、ほら。まだ読んでる途中」
ひらりとかわされて、晴人の指先にノートは再び握られる。
(え、なにこれ、拷問?拷問だったらもう喋るからやめてほしいんだけど……!!)
「……ねえ根津くん」
晴人は、ふいに声を落とした。
「これさ。もし本当に、僕が君の妄想通りにしたら……」
ぴたりと、視線が絡まる。
「君は、僕を嫌いになる?」
その問いに、どう答えたらいいのか分からなかった。
心の中に、何かがふつりと音を立てて割れるような、そんな感覚だけが残った。
***
夕方。
生徒会室には、俺と会長、そして凪くんだけがいた。
今日は風紀委員会の定例報告があるらしく、晴人は来ていない。
「……それで、晴人とはどうなの?」
その一言は、思いのほかラフな声音だった。
けど、聞いてきたのは“あの”凪くんで——
いつもの優しい口調とはまるで違っていた。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
凪くんは俺の反応にも特に表情を変えず、机に腕をのせてゆるく続けた。
「……晴人と、うまくやれてる?」
なんて言えばいいのか分からなかった。
優しくされてる。気にかけてもらってる。
でも、何かがおかしい。何かが怖い。
その″何か″に名前がつかないまま、言葉に詰まっていると——
「お前の“普通”は見つかったのか、そうじゃないのかって聞いてるんだ」
バサッと書類を置く音と同時に、会長が割り込んだ。
その声はいつもより低く、怒っているわけではないのに、容赦がなかった。
「……あの、“普通”って……」
「昼に何を食いたいかも選べねえ奴が、恋人面されて喜んでるのを見てると、正直イラッとすんだよ。少しは考えろ、自分の意思ってもんを」
「要はこんな言い方だけどさ、意外と心配してるんだよ?」
凪くんが苦笑まじりにフォローする。
……まあ、護堂会長の言い方が不器用なのは今に始まったことじゃない。
「余計なこと言うな」
「それなら、“余計なことを言わないようにするのが要の役割”なんじゃない?」
凪くんがにこっと笑いながら皮肉を返す。
あれ?それって……昨日昼休みに会長が言ってた台詞とそっくりじゃ……。
あー、可愛い受けの皮肉弄りですね。
最高です助かります捗ります。
もっとお二人のイチャイチャを見せていただけると俺は今日も安らかに寝られそうなんですけど——
と、妄想モードが半開きになった所で、話が戻る前に急いで閉じた。
「……晴人はさ、良いやつって言ったら良いやつなんだけど……なんというか、不器用なんだよね」
「アイツは、器用すぎて不器用」
会長が言った矛盾した表現が妙にしっくりくるのは、たぶん委員長が“全部やってくれる”人だからだ。
「相手の気持ちを想像するより、自分の中の最適解を押し付けちゃうタイプ。……まあその辺は、“恋人”の美咲くんのほうがよく分かってるか」
「……恋人じゃ、ないです……」
ポロリと口から落ちた言葉に、自分でも一瞬、時間が止まった気がした。
「……え?」
凪くんの目がわずかに見開かれる。
まさかこの人から、あんな反応が返ってくるとは思わなかった。
「……俺たち、“偽装カップル”なんです」
口にした瞬間、背中にどっと冷や汗が流れた。
その言葉は“言ってはいけないこと”だった。
誰にも言わないって約束したのに。
思わず、こめかみに冷たい汗が伝う。
「……偽装、って……それ、本当に晴人が了承してやってんの?」
「……はい、一応、表向きの対策っていうか……あの人の方から言い出して……」
「……一応、ね」
要が重く呟く。凪くんも視線を落としたまま、眉をひそめている。
(……あ、これ、やばい空気だ)
「ご、ごめんなさい。あの、その……別に、誰かを騙すつもりとかじゃなくて、あくまで委員長の……」
「それ、晴人は“遊び”のつもりでやってないぞ」
バッサリと切り捨てるような会長の言葉に、心臓が一瞬止まった。
「……え?」
「お前には“偽装”でも、晴人には“本気”だよ。……多分な」
「本気って……」
「だってあいつ、お前の生活、完璧に掌握してんじゃん」
「いや、それは……」
返せない。
本当はずっと、違和感があった。
朝起こされる時間、選ばれる食材、用意されたタオル、スキンケア、ノートの管理——
全部、″俺が何もしなくても進んでいく″。
「偽装すればあいつの風除けにはなるだろうが、どう考えても踏み込みすぎてる」
会長の言葉は容赦なかった。
けれど、否定できる材料も、俺にはなかった。
「……俺、どうしたらいいんでしょうか……」
搾り出すような声が出た。
目の前の二人は、互いに顔を見合わせる。
「……お前が晴人から逃げたいと思うなら、逃してやる」
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「……逃げて、いいんでしょうか……」
「うん。だいぶ手遅れだね。ちゃんと、自分の意思くらい確保しとくこと。じゃないと、思考がどんどん狭まって、逃げられなくなるよ?」
(……それって、もう、俺が逃げなきゃいけないって前提じゃん)
だけど——どこかで、救われた気もした。
凪くんと会長の目には、俺のことを“ちゃんと危険な状況にある”って認識している光があった。
それはつまり、今のこの息苦しさは“気のせい”なんかじゃないって証拠だ。
(……俺、いま、ちゃんと迷ってもいいんだ)
そう思えること自体が、少しだけ心を軽くした。
——そして、それは確実に“逃げるための第一歩”だった。
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