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《本編》
30. 限界だから…
しおりを挟む「……………」
無言でテーブルの上に置かれた封筒を見つめる彰宏さんを、僕も無言で見つめていた。
「仕事…やめるのか?」
視線を僕に移して、彰宏さんが訊く。
「…はい」
僕は頷く。
封筒の表には『辞表』の文字。僕が昨夜、書き上げたものだ。それを今朝、朝食が終わって彰宏さんが席を立つ前にテーブルの上に置いた。朝しか話す時間がないから。
「そうか」
と彰宏さんからは一言だけ。
「……………」
理由を訊かれない事で悟る。
本当に僕の事はもう…どうでもいいんだな…。
「今まで我儘を言ってごめんなさい」
僕が軽く頭を下げてから顔を上げると、彰宏さんは訝しげな顔をしていた。
「…我儘?」
「はい。大学を卒業したら働きたい、っていう僕の我儘です。聞いてくださってありがとうございました」
「我儘だなんて思ってない」
「…いいえ」
今度は首を横に振った。
「結婚したら、僕は家に入るべきでした。元々大学は、Ωでも独りでも生きていける様に…その為には学歴と資格があったほうが良いと思って行かせてもらったんです。ですが、縁があり貴方と結婚する事になりました。だから、僕は働かずに家庭に入ればよかったんです。多くのΩがそうであるように…」
αは番のΩを囲いたがる習性がある。自分達の家の中で。守りたい、誰にも見せたくない、自分だけを見てほしい、愛してほしいという気持ちの表れだという。αが望むのは守りたくなる様なΩであり、自立したΩは望まれない。たとえ最初はそういうΩを好み尊重してくれていたとしても、いずれ番への執着や独占欲が暴走して束縛に走るか、関心を失くして他のΩを求める。
恐らく僕は関心を失くされたほうだ。
彰宏さんは僕自身を望んでくれたんだと思ってた。結婚する前、彼自身も言ってたもの。Ωだからじゃない。僕だから好きになったって。働く事を考え学ぶ僕は素敵だって。そう言ってもらえて嬉しくて、僕なりに頑張ったけれど…。結局は彰宏さんも、いつでも家に居て自分を待っていてくれるような儚げな人が良いんだね。あの人はきっと、貴方が来るのをずっと家で待っていてくれるんでしょう?
「そんな事、思ってない」
彰宏さんが否定するけれど、否定されると惨めな気持ちになる。今更そんな事を言われても、僕はもう何を信じたらいいのか分からない。
「いいんです、もう…。
それに、もう働くのは限界かな…って…」
「限界…?」
彰宏さんが眉を寄せる。
「…疲れたから…。これ以上はきっと同僚の人達にも迷惑をかけるだろうし、2年半だけだけど社会勉強も出来ましたから、そろそろ家でゆっくりしようかな…って…」
いろいろ理由を付けてみたけれど、結局は限界だからというのが本当の理由だ。
1ヶ月程前から、僕は頭痛と倦怠感に悩まされる様になった。原因は判ってる。強い抑制剤の多用だ。その副作用。
処方された抑制剤は7回分。それを僕は2回の発情期で使い切った。処方された直後の発情期では注意書きを守って、いつもの抑制剤と併用しつつピーク時に1日間を開けてから服用した。服用したのは計2錠。その時は軽い頭痛があったくらいで、発情期終了後の生活に支障は無かった。心はともかく、体のほうは。けれど、その次の…今から1ヶ月程前の発情期で、僕は残りの5錠を全て使い切ったのである。しかも、5日続けての服用。
僕は『不安症』を発症していた。ちゃんと受診して診断された訳ではないけれど、一人になると、常に不安に襲われる様になった。番のαがいない。さみしい。嫌われたのかも知れない。いつか捨てられる…。常にそんな不安に支配され、夜も眠れなくなった。食も細くなった。意味もなく涙が溢れた。けれど、彰宏さんが家に…傍にいる時だけ、様々な不安から解放された。彼の匂いに包まれるだけで安心出来た。夜ベッドの中で眠れない時も、夜中に帰宅した彰宏さんがベッドに入って来るだけで…触れる事は無くても、安心していつの間にか眠りに堕ちた。彰宏さんの前では普通だから、彼は気付かない。
そして、強い抑制剤を毎日服用した発情期は、僕は発情そのものに恐怖を感じていた。番のαが傍にいないのに発情してしまう自分が浅ましく思え、恥ずかしいとさえ思って…。この時の僕の不安は、ピークに達していたんだと思う。そして用法用量なんか無視して服用した結果、かなり熱は抑えられたが、その代わり、途轍もない倦怠感と頭痛が発情期が終わるまでずっと続いたのである。
発情期が終わった後も、軽い倦怠感と頭痛は続いた。幾ら軽くても常にだと辛い。加えて、夜は彰宏さんが帰宅する夜中まで眠れず、慢性的な寝不足。結果、仕事に支障が出た。一つ一つは小さなミスで同僚達もカバーしてくれたけれど、それが続けば邪魔にしかならない。上司も同僚も「気にしないで」と言ってくれるけれど、素直にそれを受け入れる程、僕は厚顔無恥にはなれない。だから、仕事は好きだったけれど辞める事にしたんだ。
仕事を辞める本当の理由を彰宏さんに言える訳ないけれど…。
「分かった。これは俺が預かろう」
暫く考え込んでいた彰宏さんは、辞表を手に取り言った。
「ありがとうございます。それと、今月末日までは働くつもりなので、あと1週間程ですけど、それまで…あの…会社まで車に乗せていただけると…」
「? 何を言っている? いつも一緒に出勤しているじゃないか。もちろん乗せて行くよ」
「………。…はい」
別に酷い言葉を言われた訳じゃないのに、彰宏さんは「仕事を辞める」という僕を尊重してくれただけなのに、淡々と受け入れた夫の言葉に、酷く傷付いている僕がいたー。
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