当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜

平山和人

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霊峰エターナル・ハイの標高が上がるにつれ、重力は狂い、酸素の代わりに「純粋な魔力」が肺を焼く。 シオンの右腕は、もはや肘から先が完全に氷の彫刻のように透き通り、動かなくなっていた。彼はその腕をマントの下に隠し、冷汗を流しながらもエルナの腰を抱き、一歩一歩、浮遊する岩を飛び越えて進む。


「……殿下、休んでください。私の魔力を分けますわ」


「……案ずるな。ただ、少しばかり感覚が鋭敏になっているだけだ。……お前の鼓動が、自分のことのように聞こえる」


シオンは虚勢を張るが、その声はかすかに震えていた。 山の中腹には、通称『忘却の吹雪』が吹き荒れている。この雪に触れた者は、自分の最も大切な記憶……すなわち、自分を自分たらしめている「愛の記憶」を一つずつ失っていくという。


「エルナ、私の後ろにいろ。……私の魔力が尽きるまで、雪一粒だってお前には触れさせない」


シオンは残った左手で、エルナを自分の胸の中に完全に閉じ込めた。氷のドームを展開し、吹き荒れる雪を遮断する。しかし、そのドームを維持するために、シオンの脳内では凄まじい「消失」が始まっていた。


(……王宮の風景が消えた。……父の顔が思い出せない。……自分が、なぜ王子と呼ばれていたのかも……。だが、それらはどうでもいい。……ただ、この腕の中にいる女の名前だけは……)


シオンは奥歯を噛み締め、消えゆく記憶の奔流の中で、エルナという存在だけを魂の深淵に釘付けにしていた。 エルナは、シオンの胸元で彼の鼓動が不規則に、そして弱くなっていくのを感じていた。


「……殿下、私を見て。私を忘れないでください……!」


エルナはシオンの凍りかけた頬を両手で挟み、無理やり視線を合わせる。彼の瞳は、かつての鋭い知性を失いかけ、ただ本能的な「所有欲」だけで輝いていた。それは、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な光景だった。



吹雪を抜け、一時的に風が止む洞窟に辿り着いた時、シオンの意識は混濁の極みにあった。 彼の体は、右腕だけでなく右足までもが透き通る氷と化し、動かすことすらままならない。エルナは彼を壁に座らせ、自らの体温でその氷を溶かそうと必死に抱きしめる。


「……あ……え……な……」


シオンの唇から、断片的な音が漏れる。 彼は、自分が誰なのか、ここがどこなのか、もうほとんど分かっていない。ただ、目の前にいる白銀の髪の女性が、自分の「すべて」であることだけを、魂が叫んでいた。


「殿下……、私です。エルナですわ。……思い出してください、あなたが私を追いかけ回して、あんなに私を困らせたことを……!」


エルナの目から涙が溢れ、シオンの氷の肩に落ちる。すると、その涙が触れた部分の氷が、魔力的な反応を起こして赤く輝いた。


「……刻む……。お前の……中に……」


シオンは動かない右手の代わりに、魔力を凝縮させた左手の指先を、自らの胸元……心臓の真上の皮膚に当てた。そして、激痛に顔を歪めることもなく、自らの肌に文字を刻み始めた。


『エルナのもの(Property of Elna)』


「何を……、なんて馬鹿なことをしているのですか……!」


「……こうすれば……記憶が消えても……私の体がお前を……忘れない……。……お前が……私を捨てるというなら……この文字ごと……私を壊して行け……」


シオンは、血を流しながらも満足そうに微笑んだ。その狂気は、もはや聖域の域に達している。エルナは絶句し、そして彼をさらに強く、骨が鳴るほどに抱きしめた。


「……捨てませんわ。誰が、こんなに面倒で、自分勝手で、重たい男を拾うというのです。……私が、最後まで面倒を見てあげます。だから、絶対に死なせない……。私の許可なく、消えることなんて許しませんわよ!」


二人の魂を結ぶ「ソウル・リンク」が、命の樹の光に呼応するように、激しく共鳴を始めた。それは、滅びゆく肉体を超越した、執着の極致。
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