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翌朝、小屋の扉を激しく叩く音で二人は目を覚ましました。 シオンが殺気を放ちながら剣の柄に手をかけたとき、扉の隙間から飛び込んできたのは、一通の使い魔の伝令——紙で折られた小さな鳥でした。
紙鳥はエルナの指先に止まると、ユリの声で喋り始めました。
『エルナ、シオン。……生きてるんでしょうね、あなたたち。世界は今、地獄よ。神を失った人々は、自由という名の毒に当てられて、あちこちで略奪と暴動を繰り返している。……私は今、生き残った者たちを集めて、新しい自治組織を立ち上げようとしているわ。……エルナ、あなたの知恵が必要よ。統計学でも魔導工学でもいい、この混乱を収めるための「数式」を貸してちょうだい』
シオンは鼻で笑い、その紙鳥を指先で握りつぶそうとしました。 「断る。……エルナの知性は、私のためにのみ振るわれるべきものだ」
しかし、エルナはシオンの手を制し、潰れかけた紙鳥を優しく受け取りました。
「……殿下、勘違いしないでくださいまし。私は、彼女を助けるつもりなんて毛頭ありませんわ。……ただ、この『無秩序な初期状態』を放置しておくのは、数学的にひどく気持ちが悪いのです」
エルナの瞳に、かつての支配者としての光が、ごく僅かに、ですが鋭く宿りました。
「……ユリに伝えなさい。……『公式』は教えないけれど、『ヒント』くらいは与えてあげてもいいわ、と。……その代わり、対価として最高級の紅茶の葉と、それから……。殿下の独占欲をなだめるための、強固な鍵付きの書斎を用意させることですわね」
シオンは忌々しそうに舌打ちをしましたが、エルナの唇に浮かんだ不敵な笑みを見て、抗うのをやめました。
彼女が再び世界に知恵を貸し、何らかの秩序を築こうとすれば、また多くの人間が彼女を求めるようになるでしょう。それはシオンにとって耐え難い苦痛です。しかし、同時に、知略を巡らせて他人を翻弄するエルナこそが、彼の愛した「悪役令嬢」の真の姿であることも、彼は理解していました。
「……いいだろう。だがエルナ、一つだけ約束しろ。……お前が世界に何を与えようと、お前の心臓の最後の一拍まで、その所有権は私が握っている。……ユリであれ、民衆であれ、お前に触れる者がいれば、私は何度でもこの世界を焼き尽くす」
「ええ、分かっていますわ。……あなたのその重すぎる愛が、私の人生における最大にして唯一の『確定事項』ですもの」
二人は小屋を出て、朝靄に包まれた荒野へと再び踏み出しました。 かつての女王と王子。 今は、愛という名の呪縛で互いを縛り合う、美しくも醜い逃亡者。
世界は崩壊し、魔法の時代は終わりました。 けれど、二人の間には、統計学でも解析不能な、熱い火花が散り続けています。
「……殿下、歩くのが早すぎますわ。エスコートの作法を、基礎から叩き直して差し上げなくてはなりませんわね」
「黙れ。……嫌なら、一生抱きかかえて歩いてやろうか?」
「あら、それは名案ですわ。……では、よろしくてよ?」
二人の笑い声が、冷たい朝の空気の中に溶けていきました。 それは、救済のない世界で、二人の悪役だけが手に入れた、永遠に未完成なハッピーエンドの風景。
それから数十年後、再建された地上の都市には、奇妙な伝説が残ることとなります。 危機のたびにどこからともなく届けられる、完璧な解決策が記された匿名の手紙。 そして、その手紙を届ける使者の背後には、常に影のように寄り添う、氷のような瞳をした「騎士」の姿があった、と。
人々は彼らを神と呼ぶことはありませんでした。 ただ、畏怖を込めてこう呼びました。
「――世界を捨て、愛を選んだ、孤独な支配者たち」と。
数式は答えを出し終え、物語のページは閉じられました。 ですが、荒野に咲く一輪の花のように、彼らの歪な愛は、語り継がれることのない歴史の闇の中で、今もなお、激しく、美しく、燃え続けているのです。
紙鳥はエルナの指先に止まると、ユリの声で喋り始めました。
『エルナ、シオン。……生きてるんでしょうね、あなたたち。世界は今、地獄よ。神を失った人々は、自由という名の毒に当てられて、あちこちで略奪と暴動を繰り返している。……私は今、生き残った者たちを集めて、新しい自治組織を立ち上げようとしているわ。……エルナ、あなたの知恵が必要よ。統計学でも魔導工学でもいい、この混乱を収めるための「数式」を貸してちょうだい』
シオンは鼻で笑い、その紙鳥を指先で握りつぶそうとしました。 「断る。……エルナの知性は、私のためにのみ振るわれるべきものだ」
しかし、エルナはシオンの手を制し、潰れかけた紙鳥を優しく受け取りました。
「……殿下、勘違いしないでくださいまし。私は、彼女を助けるつもりなんて毛頭ありませんわ。……ただ、この『無秩序な初期状態』を放置しておくのは、数学的にひどく気持ちが悪いのです」
エルナの瞳に、かつての支配者としての光が、ごく僅かに、ですが鋭く宿りました。
「……ユリに伝えなさい。……『公式』は教えないけれど、『ヒント』くらいは与えてあげてもいいわ、と。……その代わり、対価として最高級の紅茶の葉と、それから……。殿下の独占欲をなだめるための、強固な鍵付きの書斎を用意させることですわね」
シオンは忌々しそうに舌打ちをしましたが、エルナの唇に浮かんだ不敵な笑みを見て、抗うのをやめました。
彼女が再び世界に知恵を貸し、何らかの秩序を築こうとすれば、また多くの人間が彼女を求めるようになるでしょう。それはシオンにとって耐え難い苦痛です。しかし、同時に、知略を巡らせて他人を翻弄するエルナこそが、彼の愛した「悪役令嬢」の真の姿であることも、彼は理解していました。
「……いいだろう。だがエルナ、一つだけ約束しろ。……お前が世界に何を与えようと、お前の心臓の最後の一拍まで、その所有権は私が握っている。……ユリであれ、民衆であれ、お前に触れる者がいれば、私は何度でもこの世界を焼き尽くす」
「ええ、分かっていますわ。……あなたのその重すぎる愛が、私の人生における最大にして唯一の『確定事項』ですもの」
二人は小屋を出て、朝靄に包まれた荒野へと再び踏み出しました。 かつての女王と王子。 今は、愛という名の呪縛で互いを縛り合う、美しくも醜い逃亡者。
世界は崩壊し、魔法の時代は終わりました。 けれど、二人の間には、統計学でも解析不能な、熱い火花が散り続けています。
「……殿下、歩くのが早すぎますわ。エスコートの作法を、基礎から叩き直して差し上げなくてはなりませんわね」
「黙れ。……嫌なら、一生抱きかかえて歩いてやろうか?」
「あら、それは名案ですわ。……では、よろしくてよ?」
二人の笑い声が、冷たい朝の空気の中に溶けていきました。 それは、救済のない世界で、二人の悪役だけが手に入れた、永遠に未完成なハッピーエンドの風景。
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人々は彼らを神と呼ぶことはありませんでした。 ただ、畏怖を込めてこう呼びました。
「――世界を捨て、愛を選んだ、孤独な支配者たち」と。
数式は答えを出し終え、物語のページは閉じられました。 ですが、荒野に咲く一輪の花のように、彼らの歪な愛は、語り継がれることのない歴史の闇の中で、今もなお、激しく、美しく、燃え続けているのです。
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