当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜

平山和人

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二人が荒野を歩き始めてから、数ヶ月の月日が流れました。かつての「空中都市」という特権的なゆりかごを失った世界では、季節の移ろいは暴力的なまでの質量を持って二人の肉体を削っていきました。魔法による体温調整も、空腹を麻痺させる術式も、今のエルナには使えません。


「……シオン、殿下。……もう、一歩も、動きませんわ。……私をここに捨てて、どこかへ野垂れ死にに行っていらして」


エルナは、泥に汚れた革靴を投げ出し、枯れ果てた大樹の根元に座り込みました。かつて全次元の因果律を掌握したその指先は、今は焚き火の煤で黒ずみ、爪は短く欠けています。それでも彼女は、ボロボロになった絹の端切れで優雅に顔を拭い、高慢な笑みを崩そうとはしませんでした。


シオンは無言で、彼女の前に跪きました。彼の背中には、村々で略奪に近い形で手に入れた乏しい食料と、エルナが「どうしても捨てられない」と言い張った数冊の魔導書が詰まった重い荷嚢があります。彼は一言も文句を言わず、エルナの腫れ上がった足を自らの膝に乗せると、冷たい掌で優しく、しかし執拗に揉み解し始めました。


「……捨てていけだと? 冗談はやめろ、エルナ。……お前が死ぬときは、私がその命を食らい尽くすときだ。こんな道端で無価値に朽ち果てることなど、私が許さない」


シオンの瞳には、飢えと疲労を超越した、どす黒い情念が揺らめいていました。彼はエルナの足首に唇を寄せ、そこに刻まれた「氷の鎖」の痕跡をなぞります。物理的な鎖は消えても、二人の魂を繋ぐ呪縛は、この不毛な大地でより深く、太く育っていました。


「……ふふ、本当に救いようのない執着ですわね。……でも、良いですわ。あなたがそうやって私の足元に跪いている限り、私はまだ『女王』でいられる気がしますもの」


エルナはシオンの首に腕を回し、その耳元で毒を吐くように囁きました。


「……ねえ、殿下。ユリからの『招待状』、本当は届いていますわよね? ……あなたが私の目から隠し、握りつぶそうとした、あの三通目の魔導通信のことですわ」


シオンの肩が微かに震えました。彼は黙秘を貫こうとしましたが、エルナの透徹した瞳からは何も隠せません。彼女は「神」としての全能を失ってもなお、統計的な推論と人間観察だけで真実を導き出す怪物なのです。


「……あの女は、新しい秩序を築くために、お前の『脳』を求めている。……お前を、再び公衆の面前に引きずり出し、誰もが仰ぎ見る偶像に仕立て上げようとしている。……そんなことは、死んでもさせない」


シオンはエルナを押し倒すように抱きしめました。枯れ葉の擦れる音が、静寂な荒野に響きます。


「お前は、この荒野の片隅で、私だけのために知恵を絞り、私だけのために微笑んでいればいい。……飢えるなら共に飢えよう。凍えるなら、私の血を啜って暖を取れ。……世界にお前を共有させるくらいなら、私はこの大地ごと、お前を深淵へ埋めてやる」


「……あら、怖い。……ですが、殿下。ユリの提案には、一つだけ魅力的な条件がありましたわ。……それは、私たちが『人間として』法的に夫婦として認められ、誰にも邪魔されない隠れ里を保証するという項目ですの。……今の私たちに最も欠けているのは、プライバシーと、そして清潔なシーツですわよ?」


エルナはシオンの胸を軽く叩き、挑発的に笑いました。彼女は知っているのです。シオンがどれほど独占欲に狂っていても、彼女自身が「退屈」によって死ぬことを、彼は何よりも恐れているということを。


「……条件がある」


シオンは長い沈黙の後、絞り出すような声で言いました。


「……ユリの組織には協力する。だが、お前は常に私の影の中にいろ。……姿を見せるな、声を聞かせるな。お前の言葉はすべて私が代弁し、お前の功績はすべて私の闇に葬り去る。……世界が再生しても、お前は『死んだ女王』のままでいろ」


「……ふふ、どこまでも徹底した秘密主義ですわね。……良いでしょう。私はあなたの『姿なき参謀』として、この滅びかけた世界を裏側から操って差し上げますわ。……表舞台で汗を流すのはユリに任せて、私たちはその果実だけを、この暗い悦楽の中で分け合いましょう」
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