私たちの離婚幸福論

桔梗

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026 静かな怒り

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ゼノンの低い声が絞り出される。



だが彼はその場で声を荒げることはしない。

杯を置き、にこやかに見える笑みを浮かべたまま――しかし、その掌は白くなるほど拳を握り締めていた。  



藍 はあくまで無垢な顔で微笑んでいた。



「失礼しました……場を和ませるつもりだったのですが…。暁蝶は美しく貴き絆の象徴。皇后殿下に相応しい逸話だと思いましたので…」



ゼノンの胸の内で煮えたぎるのは激怒。



(あれは…俺と”彼女”だけの……なぜ、他人の口で弄ばれなければならないんだ!)



彼の脳裏に、過ぎ去りし時の記憶がよみがえる。

薄明の空に舞う暁蝶の群れーー愛らしい笑顔で自分の元に駆け寄る彼女。

そして俺は、彼女の手を取りーー。



ゼノンは杯を指先で弄びながら、わざと軽やかな調子で言葉を重ねた。



「……暁蝶の話をするとは。あなたは実に趣深いですね。黎明に舞い降り、契りを結び、そして死を超えて再び出会う。……そうでしょう?」



場内がひたりと静まり返る。



藍 は怯むまいと扇を口元に当てたが、その手はわずかに震えていた。



ゼノンは一歩、また一歩と藍に近づき、笑みを深めた。



「ですが――その伝承は、アンダルシア王国の王家に古より伝わる神聖なもの。精霊の誓いにすら比せられるほどの……血に刻まれた記憶です」



低い声が次第に鋭さを帯びる。



「……それを、酒の席での戯れのように持ち出し、ましてやあなた如きが皇后陛下を語るとはーー」



杯が床に落ち、赤い雫が弾けた。



「璃州国は――我がアンダルシアを侮辱する気ですか?」



笑みを張りつかせたままの声には、冗談めいた余裕と、冷酷な威圧が入り混じっていた。



(怒っている彼を見るのは初めてだわ…)



初めて見るゼノンの怒りに、ルシェルは驚いていた。



藍は凍りつき、周囲の使節団たちは誰ひとり息を呑む以外のことができなかった。



「…そんな、貴国を侮辱する気など…」



「ではどのようなおつもりで?」



「…ですから…私はただ、場を和ませようとしただけで…」



「この場が和んだように見えるのでしたら、あなたはとても目がお悪いのですね」



「…」



藍はもう何も言い返せなかった。



「…申し訳ございません、王子殿下。藍様に悪気はないのです。どうかご容赦くださいませんか…」

「その通りでございます!私どもは、決してアンダルシアを侮辱するつもりなどございません!」



璃州国の使節たちが口々にいう。



ゼノンの怒りに満ちた表情を見ながら、ルシェルもまた、胸の奥で微かな記憶の扉が開きかけていた。



(なぜか……私もあの伝承を知っている気がする…。光に包まれた朝、蝶が舞い、誰かが私の手を取った……誰……誰なの?)



ルシェルは突然頭痛に襲われる。



「…皇后陛下!大丈夫ですか?」 エミリアがルシェルにそっと声をかける。



「ええ、大丈夫よ…。少し気分が悪いだけ」



その様子に、イザベルの侍女であるユリアナが咄嗟に水を渡す。



「皇后陛下、こちらをどうぞ」



「ありがとう、ユリアナ」



「いいえ、お顔の色が優れませんね。どうかご無理なさいませんよう」



「ええ、助かるわ」



ユリアナは心配そうにルシェルを見ていた。



イザベルは気に入らないと言った表情でユリアナに声をかける。



「あなたは私の侍女でしょう?私にも飲み物を頂戴」



「申し訳ありません、イザベル様…。こちらをどうぞ」



ユリアナは慌てて飲み物を渡す。



周囲の囁きはますます膨れ上がる。



「あんなに怒るということは、やはりアンダルシアの王子殿下と皇后殿下が……?」

「馬鹿な……たかが伝承であろう?」

「ですが、王子殿下は皇后陛下にギンバイカの花冠も渡していましたし…」



そのざわめきを、ノアの低い声が断ち切った。



「――くだらぬ、たかが贈り物如きで騒ぐでない。今後この話題を出したものは容赦せぬ」



氷の刃のような声音。

ノアは冷然と一同を冷たい目つきで見渡した。



***



――夜がふけ、長かった光華祭も無事が幕を下ろした。



宮殿の回廊には二人の影。



「皇后陛下に謝罪してください」



ゼノンの怒りを抑えたような冷たい声に、藍は喉を詰まらせた。

闇の中に浮かぶゼノンの眼差しは、氷より冷たい。



「何を謝れというのです?」



「とぼけないでください」



笑みすら浮かべた声音。

だがその奥底には鋭い刃が潜んでいる。



「先ほどの件ですよ。伝承を口実に、あなたは我が国と皇后陛下を辱めた。…どれほどの罪か、わかっていますか?」





藍 は思わず後ずさった。

だがゼノンは追うように一歩踏み出す。



「アンダルシアの古の伝承を、面白半分に引き合いに出し、ヴェルディア帝国の皇后陛下まで愚弄したのです。まさか…璃州はアンダルシアとヴェルディアの両国を敵に回す気ですか?一介の使節に過ぎないあなたがこのような外交問題を起こしても果たして許されるのかーー実に見ものですね」



「……っ」



藍 の唇が震えた。



ゼノンはふと声を低め、今度は囁きのように告げる。



「それとも……二度とあなたが余計な口を聞けぬように舌を引き抜いてあげましょうか?」



ぞっとするような冷たい響き。



(王子は本気だ…)



藍 は頭から血の気が引いていくのを感じた。



「……わかりました。皇后陛下に…謝罪…いたします」



「そうか、それは賢明な判断です」



ゼノンは口元に皮肉な笑みを浮かべ、ランの肩を軽く叩いた。



「どうぞ謝罪は今夜のうちに。皇后陛下はとてもお優しい方です。……あなたが謝罪すれば、きっと許してくださるでしょう。ですが気を抜かぬように…。あなたががまた同じようなことをすれば、必ずその報いを受けることになるでしょう」



藍 は胸を押さえ、震える足で皇后の部屋へ向かった。



月明かりが細い影を伸ばす中、彼の心臓は不規則に跳ね続けている。



(あの王子…聞いていた印象と全く違う…ただの遊び人だと侮っていた…)

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