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043 企み
しおりを挟むーー大広間の扉の前には、すでにノアの姿があった。
深い紺の礼装に身を包み、肩には金糸で紋章が縫い込まれている。
ルシェルと視線が合う。
短い沈黙ののち、ノアがわずかに微笑んだ。
「……綺麗だ」
かつて幾度となく聞いた言葉と同じだった。
だが今は、そのひとことの重さが違って聞こえる。
「ありがとう、ノア」
彼の名を呼ぶと、ノアの目がほんの一瞬やわらいだ。
「行こう。今日は、君が主役だ」
差し出された腕に、ルシェルはそっと手を添える。
指先に触れる温度は、昔と同じ。なのに、どこか遠い。
ーーその頃、イザベラの寝室。
イザベルは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く組みしめたまま、動かない。
「……本当に、行かれないのですか?」
侍女ユリアナが、おずおずと問いかける。
「皇后陛下のお誕生日の宴です…ご挨拶だけでも……」
「私は招かれていないわ」
イザベルは、笑っているとも泣いているともつかない声で答えた。
「……陛下も、何も仰らなかったもの。呼ばれてもいないのに行けというの?」
ユリアナは言葉を失い、ただ主人の横顔を見つめる。
イザベルの健康的だった頬は少しこけ、赤い瞳の下には薄い影が出来ていた。
「でも……あまりお部屋にばかり籠もっていては……お体に毒です」
「……ユリアナ。今夜は、もう下がっていて」
「ですが――」
「いいの。ひとりになりたいのよ」
強くも弱くもないその言い方に、逆らう余地はなかった。
ユリアナは深く頭を下げ、静かに部屋を辞す。
扉が閉じられ、足音が遠ざかる。
ユリアナが部屋を出るのとほぼ同時に、低く甘やかな声が背後から零れる。
「あなた、いつになったら魅了を使うつもりなの?」
振り返るまでもない。
イザベルはゆっくりと瞳を伏せた。
「モルガン…」
黒い影が、ゆらりと灯の端に揺れた。
闇よりも深い艶を持つ黒髪、紅玉のように光る瞳。
「皇后の晴れ舞台の夜に、自分の部屋でひとり。しかも、お腹には皇帝の子。……これほど滑稽で哀れな構図、そうそう見られないわね」
「やめて!」
イザベルはかすれた声で遮る。
「そんなこと、言われなくても分かっているわ」
「分かっていて何もしないのなら、負け犬と同じよ」
モルガンの唇が、愉悦と憐憫をないまぜにして歪む。
「このまま何もしなければ、あなたは初めからいなかったことにされるわ。皇帝は皇后と腕を組んで笑い、その傍らで貴族たちは、あなたのことを嘲笑うの」
「……やめてって言ってるでしょう」
「やめないわ」
モルガンは一歩近づいたように見えた。実際には音も重みもないのに、存在だけがぐっと迫る。
「今夜は好機よ、イザベル」
イザベルのまぶたがぴくりと動く。
「……今夜?」
「そうよ。今夜は月が一番輝くーー満月だもの」
モルガンが怪しげに微笑む。
「でも…こんな状況でどうやって陛下と二人きりになればいいの?」
「そうね…この薬草をほんのひとつまみ、水で煎じておいて、宴の席で少しだけ口にしなさい」
「……まさか、自分で毒を飲めと?」
「毒なんて言い方は大袈裟ね、少し手足が痺れる程度よ。お腹の子にも影響はないわ。むしろ問題は、その後」
モルガンの瞳が妖しく細められる。
「あなたが飲んだ杯を誰が運んだか。あなたを敵視しているのは誰かーー人々は勝手に犯人を作り上げてくれるわ。一番疑わしく見えるのは一体誰かしらね?」
イザベルの脳裏に、皇后の顔がよぎる。
「あなたただ、苦しんで気を失うふりをすればいいの。あとは勝手に周りが動くわ。皇帝は、あなたの元へ行くはずだから、そこで二人きりになれるはずよ。あなたは唇を噛み、血をにじませて口付けを交わせばいいの」
「……でも、陛下が本当に私のところに来てくださるかどうかなんて、分からないじゃない……」
イザベルは唇を噛んだ。
かつてのように、自分だけを見てくれる皇帝ではないことくらい、誰よりも分かっている。
「……もし陛下が、来なかったら?皇后のそばから離れなかったら?全部、無駄になるかもしれないでしょう?」
モルガンは、その怯えをおもしろがるように目を細めた。
「本当にそうかしら?」
「……どういう意味?」
「いい?よく聞きなさい、イザベル」
モルガンが、彼女の耳元まで近づく。モルガンは一瞬、静かに笑った。
「もし皇帝が来なくても、そのときはそれでいいのよ。皇帝があなたと皇后のどちらの元に行くかなんて……そんなことは、別にどうだっていいの。あなたはもう、皇帝に愛されるかどうかではなく、自分の居場所とお腹の子供を守るために戦っているのよ」
その言葉は、痛いほど正確に胸の中心を突いた。
(そうよ……陛下は私に離宮を用意すると仰った。私のためだと言いながら、本当は宮廷の外に出したいだけ…。ここにいる限り、私とこの子はずっと怯えて生きていかないといけない……)
イザベルはゆっくりと立ち上がる。
腹部が重く、少しだけバランスを崩した。
「モルガン……この薬草は…どのくらい飲めばいいの?」
モルガンの唇が、満足げに曲がった。
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