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010 ゼノンと蝶
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「ルシェル様」
ゼノンの声は、低く、穏やかだった。けれどそこには、明らかに彼女を案じる気配が宿っていた。
「ゼノン様……どうして、ここに?」
声が自然と震える。
胸の奥に渦巻く感情を押し殺しながら、ルシェルはそっと問いかけた。
ゼノンはゆっくりと歩み寄り、ほんの少し距離を残して立ち止まった。
その距離が、彼の誠実さの証のように感じられて、ルシェルの胸はわずかに緩んだ。
「宴のあと、姿が見えなかったので……どこかで泣いていらっしゃるのではと思って……」
「……泣いてなどいませんよ」
即座に返したものの、その声は震えていた。
「それなら、よかった」
ゼノンは気付かぬふりをしてくれたようだった。
「夜は冷えます。お体に障りますよ」
彼の言葉に、自然と笑みがこぼれた。
「ええ、そうですね。ご心配ありがとうございます」
ゼノンは迷いなくルシェルの隣に歩み寄ると、彼女と同じように空を仰いだ。
蝶は月のまわりをゆるやかに弧を描きながら舞い続けている。
「…蝶が、戻ってきたのですね」
ルシェルは少しだけ驚いたようにゼノンを見つめた。
「ゼノン様も……あの蝶をご存知なのですか?」
「…」
ゼノンは黙っている。
「この子、最近ずっと私に会いに来てくれなかったんです。でも……今日は来てくれたみたい。どうしてかしら」
ルシェルの声は震えながらもどこか嬉しげで、まるで旧友に再会した少女のように無防備だった。
「きっと…ルシェル様が本当に必要としたから、戻ってきたのでしょう」
「……ふふ、そうでしょうか?それなら嬉しいです」
そう呟いて笑ったルシェルの横顔を、ゼノンはそっと見つめていた。
彼の胸の奥には、言葉にできない想いが膨らんでいた――けれど、それを伝える資格が、今の自分にはまだないこともよく分かっていた。
「ゼノン様」
「はい」
「……宴で、私に“美しい”と仰ってくださいましたよね」
「はい」
「私は…全然美しくないのです。とても醜い心を持っています。イザベルが懐妊したと聞いた時……最初に感じたのは、喜びなどではなく悲しみと憎しみでした。この国の皇后として、彼女が陛下の子を宿したことを真っ先に喜ぶべきなのに……」
ルシェルは自嘲気味に微笑んだ。月明かりの下でも、その笑みはかすかに陰を帯びていた。
「いいえ。それでも、貴女は美しいです。誰かを想う貴方の心は、貴方だけのものです。たとえそれが良くない感情であったとしても、それも含めて、誰かを愛するあなたは美しいと思います」
ルシェルははっとして、ゼノンを見上げた。
「私はルシェル様が、私にご自分の心を隠さずにいてくださることが…何より嬉しいです」
ゼノンはどこか悲しそうに、そして儚げに微笑んだ。
ルシェルはこれまでずっと堪えていた涙が溢れ出してしまった。
「私は皇后でありながら子を成せていません。皇后として一番重要な勤めを果たせていないのです…その上、ノアの心さえも離れてしまいました。それでも、私が彼を想う気持ちは変わらない……そして、皇后であることに誇りを持っています」
ゼノンは何も言わず、ただ彼女の言葉を聞き続けた。
「けれど……最近、分からなくなるのです。ノアへのこの想いは本物なのか…それとも、ただ愛し合っていたあの頃の美しい記憶に縋っているだけなのか……」
「ルシェル様…」
「ゼノン様にどう接したらいいのか…正直、困っていたんです。私はこの国の皇后で、皇帝の妻で、ノアを愛していて…。だけど、あなたは私に寄り添い、私の話を真剣に聞いてくれた。そして、あんなに嫌な言い方をしたのに、それでも変わらず私に接してくださいました。本当にありがとうございます」
ゼノンは返事をしなかった。ただ静かに、彼女の言葉を受け止めていた。
「なんだか……この庭も、私自身も、何もかもが変わってきているようでおかしな気分です」
「変わることは、悪いことでしょうか?」
その一言は、まるでこれまでの自分を全て肯定してもらえたようだった。
ルシェルは答えられなかった。
ゼノンは一歩、彼女に近づいた。
「ルシェル様」
「……はい」
「私は、あなたがこの国の皇后であっても、皇帝陛下の妻であっても、今こうしてそばにいてくださることが、ただただ嬉しいのです」
その声には、恋情を超えた何かが宿っていた。
静かに寄り添うような、でもどこか祈りに似た響きがあった。
「私はあなたに幸せでいてほしい。ただ、それだけです。それ以上は何も望みません」
ルシェルの喉が詰まった。
「……どうして、そんなふうに言えるのですか?」
「それは……」
ゼノンは視線を月から彼女へ戻し、ほんの一瞬、何かを言いかけて飲み込んだ。
「……あなたが、誰よりも幸せになる価値がある人だからです」
彼の声は、まるで心の奥に直接触れてくるようだった。
(どうして出会って間もない私のことを、そんなことを想ってくれるのだろう…)
でも、その問いは口に出さなかった。
銀の蝶が、ふわりとふたりの間を舞い抜けた。
そして、それはまるで祝福するかのように、ルシェルの肩にそっと降り立った。
「……あ」
小さな羽ばたきが、彼女の頬をかすめる。
その優しい触れ方に、心がほぐれていくのを感じた。
「ゼノン様」
「はい」
「……ありがとうございます」
ルシェルは心からの感謝を伝えた。
「私はどんな時も、貴女の味方です」
ゼノンはそう伝えると、ただそっと彼女の隣に立ち続けた。
あくまでも、触れない距離を保ったまま。
でもその静けさが、ルシェルには何よりも心地よかった。
「……エミリアに見られたら怒られるわね、こんな夜更けに」
「私が代わりに怒られてあげましょう」
「そう、それは心強いですね」
ふたりは微笑み合い、そして再び黙った。
言葉よりも、静けさのなかで交わされるこの気持ちだけが確かなものだった。
蝶はやがて、再び夜空へと舞い上がっていった。
その光を見上げながら、ルシェルはそっとゼノンに訊いた。
「アンダルシアでは……妻以外の人を…その…、側室を迎えることはないというのは…本当ですか?」
「ええ。私の国では、婚姻は魂の契約です。ですが、一部の貴族は不貞を働くことも多々あります。本来であれば許されないことですが…」
「……それは、仕方のないことなのでしょうね。男性ならば、他の女性に目移りしても仕方がありませんもの」
「……そんなことはありません。特にアンダルシアの王族にとっては、婚姻は特に重要な意味を持ちます。生まれてくる子供は、精霊の血を受け継ぎます。精霊の加護を強く受けるアンダルシアの王族にとって、ただ一人を愛することは絶対の掟であり、誇りでもあるのです」
その言葉に、胸が苦しくなった。
(もしも私が、別の形でこの人に出会っていたら、そんなふうに大切に想ってもらえたのだろうか……)
ふと、そんな思いがよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
「ルシェル様」
「なんでしょうか?」
「いつかもしあなたがすべてを投げ出したくなったときは……どうか私を思い出してください。そして私を頼ってください」
そのやさしさが、痛かった。
「…ありがとうございます。ですが、私はこの国の皇后ですから…」
「……ええ、わかっています」
「私は…ノアを……」
「ええ、わかっています」
ゼノンは、それでも充分だというように微笑んだ。
「それでも……私が今ここであなたと話していることが、私にとっては奇跡なのです」
風が吹き、夜の花々が揺れた。
やがてゼノンは一礼し、静かに言った。
「そろそろ、お戻りください。お身体を冷やさぬように」
「……ええ」
ルシェルはそのまま、ゼノンに背を向けた。
だがその歩みは、心なしか軽やかだった。
蝶はそのあとをついてくるように、ひらり、ひらりと舞っていた。
そしてゼノンは、ただその背を見送った。
誰にも聞こえぬような小さな声で、そっとつぶやいた。
「……今世では、どうか、貴女が幸せでありますように」
そしてその夜、庭園はまた静寂に包まれた。
ゼノンの声は、低く、穏やかだった。けれどそこには、明らかに彼女を案じる気配が宿っていた。
「ゼノン様……どうして、ここに?」
声が自然と震える。
胸の奥に渦巻く感情を押し殺しながら、ルシェルはそっと問いかけた。
ゼノンはゆっくりと歩み寄り、ほんの少し距離を残して立ち止まった。
その距離が、彼の誠実さの証のように感じられて、ルシェルの胸はわずかに緩んだ。
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「それなら、よかった」
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「ええ、そうですね。ご心配ありがとうございます」
ゼノンは迷いなくルシェルの隣に歩み寄ると、彼女と同じように空を仰いだ。
蝶は月のまわりをゆるやかに弧を描きながら舞い続けている。
「…蝶が、戻ってきたのですね」
ルシェルは少しだけ驚いたようにゼノンを見つめた。
「ゼノン様も……あの蝶をご存知なのですか?」
「…」
ゼノンは黙っている。
「この子、最近ずっと私に会いに来てくれなかったんです。でも……今日は来てくれたみたい。どうしてかしら」
ルシェルの声は震えながらもどこか嬉しげで、まるで旧友に再会した少女のように無防備だった。
「きっと…ルシェル様が本当に必要としたから、戻ってきたのでしょう」
「……ふふ、そうでしょうか?それなら嬉しいです」
そう呟いて笑ったルシェルの横顔を、ゼノンはそっと見つめていた。
彼の胸の奥には、言葉にできない想いが膨らんでいた――けれど、それを伝える資格が、今の自分にはまだないこともよく分かっていた。
「ゼノン様」
「はい」
「……宴で、私に“美しい”と仰ってくださいましたよね」
「はい」
「私は…全然美しくないのです。とても醜い心を持っています。イザベルが懐妊したと聞いた時……最初に感じたのは、喜びなどではなく悲しみと憎しみでした。この国の皇后として、彼女が陛下の子を宿したことを真っ先に喜ぶべきなのに……」
ルシェルは自嘲気味に微笑んだ。月明かりの下でも、その笑みはかすかに陰を帯びていた。
「いいえ。それでも、貴女は美しいです。誰かを想う貴方の心は、貴方だけのものです。たとえそれが良くない感情であったとしても、それも含めて、誰かを愛するあなたは美しいと思います」
ルシェルははっとして、ゼノンを見上げた。
「私はルシェル様が、私にご自分の心を隠さずにいてくださることが…何より嬉しいです」
ゼノンはどこか悲しそうに、そして儚げに微笑んだ。
ルシェルはこれまでずっと堪えていた涙が溢れ出してしまった。
「私は皇后でありながら子を成せていません。皇后として一番重要な勤めを果たせていないのです…その上、ノアの心さえも離れてしまいました。それでも、私が彼を想う気持ちは変わらない……そして、皇后であることに誇りを持っています」
ゼノンは何も言わず、ただ彼女の言葉を聞き続けた。
「けれど……最近、分からなくなるのです。ノアへのこの想いは本物なのか…それとも、ただ愛し合っていたあの頃の美しい記憶に縋っているだけなのか……」
「ルシェル様…」
「ゼノン様にどう接したらいいのか…正直、困っていたんです。私はこの国の皇后で、皇帝の妻で、ノアを愛していて…。だけど、あなたは私に寄り添い、私の話を真剣に聞いてくれた。そして、あんなに嫌な言い方をしたのに、それでも変わらず私に接してくださいました。本当にありがとうございます」
ゼノンは返事をしなかった。ただ静かに、彼女の言葉を受け止めていた。
「なんだか……この庭も、私自身も、何もかもが変わってきているようでおかしな気分です」
「変わることは、悪いことでしょうか?」
その一言は、まるでこれまでの自分を全て肯定してもらえたようだった。
ルシェルは答えられなかった。
ゼノンは一歩、彼女に近づいた。
「ルシェル様」
「……はい」
「私は、あなたがこの国の皇后であっても、皇帝陛下の妻であっても、今こうしてそばにいてくださることが、ただただ嬉しいのです」
その声には、恋情を超えた何かが宿っていた。
静かに寄り添うような、でもどこか祈りに似た響きがあった。
「私はあなたに幸せでいてほしい。ただ、それだけです。それ以上は何も望みません」
ルシェルの喉が詰まった。
「……どうして、そんなふうに言えるのですか?」
「それは……」
ゼノンは視線を月から彼女へ戻し、ほんの一瞬、何かを言いかけて飲み込んだ。
「……あなたが、誰よりも幸せになる価値がある人だからです」
彼の声は、まるで心の奥に直接触れてくるようだった。
(どうして出会って間もない私のことを、そんなことを想ってくれるのだろう…)
でも、その問いは口に出さなかった。
銀の蝶が、ふわりとふたりの間を舞い抜けた。
そして、それはまるで祝福するかのように、ルシェルの肩にそっと降り立った。
「……あ」
小さな羽ばたきが、彼女の頬をかすめる。
その優しい触れ方に、心がほぐれていくのを感じた。
「ゼノン様」
「はい」
「……ありがとうございます」
ルシェルは心からの感謝を伝えた。
「私はどんな時も、貴女の味方です」
ゼノンはそう伝えると、ただそっと彼女の隣に立ち続けた。
あくまでも、触れない距離を保ったまま。
でもその静けさが、ルシェルには何よりも心地よかった。
「……エミリアに見られたら怒られるわね、こんな夜更けに」
「私が代わりに怒られてあげましょう」
「そう、それは心強いですね」
ふたりは微笑み合い、そして再び黙った。
言葉よりも、静けさのなかで交わされるこの気持ちだけが確かなものだった。
蝶はやがて、再び夜空へと舞い上がっていった。
その光を見上げながら、ルシェルはそっとゼノンに訊いた。
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(もしも私が、別の形でこの人に出会っていたら、そんなふうに大切に想ってもらえたのだろうか……)
ふと、そんな思いがよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
「ルシェル様」
「なんでしょうか?」
「いつかもしあなたがすべてを投げ出したくなったときは……どうか私を思い出してください。そして私を頼ってください」
そのやさしさが、痛かった。
「…ありがとうございます。ですが、私はこの国の皇后ですから…」
「……ええ、わかっています」
「私は…ノアを……」
「ええ、わかっています」
ゼノンは、それでも充分だというように微笑んだ。
「それでも……私が今ここであなたと話していることが、私にとっては奇跡なのです」
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やがてゼノンは一礼し、静かに言った。
「そろそろ、お戻りください。お身体を冷やさぬように」
「……ええ」
ルシェルはそのまま、ゼノンに背を向けた。
だがその歩みは、心なしか軽やかだった。
蝶はそのあとをついてくるように、ひらり、ひらりと舞っていた。
そしてゼノンは、ただその背を見送った。
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