私たちの離婚幸福論

桔梗

文字の大きさ
13 / 46

013 あなたがいない日々

しおりを挟む
ーー5日後の午後、応接の間。



「ユリアナと申します。お目通り、光栄に存じます」



そう名乗った娘は、静かで落ち着いた雰囲気を纏っていた。

年はイザベルと同じだが、イザベルよりも明らかに落ち着いた様子で、どこか大人びている。

長い睫毛の奥にある瞳は、決して派手ではないが澄んでおり、人の気持ちを静かに映し出すような色をしていた。



ルシェルは名簿に記された素性を思い出しながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。



「あなたの生家は薬師をしているそうね」



「はい、両親が薬草を扱う者でございました。私は幼い頃から調合や経過観察などを手伝っておりましたので、多少医学の心得はございます」



「それは心強いわ。妊婦の傍に仕えるには、そうした実務的な能力が必要ですものね」



ユリアナは深く頭を下げた。控えめだが、芯のある受け答えだった。

一通り、質問を終えた後、ルシェルは再びユリアナに問いかけた。



「ユリアナ、私の個人的な質問にも答えてくれるかしら?」



「もちろんです、皇后陛下」



ルシェルはふっと息をつき、窓の外に目をやった。



「人は……心が何かに揺らいだ時、それにどう向き合うべきだと思う?もしそれが望まぬ時に訪れたなら」



ユリアナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。



「そうですね…揺らぎがあるということは、そこになんらかの感情がある証です。自分の気持ちを蔑ろにせず、むしろその揺らぎに寄り添ってあげることが、心の平穏を保つことになるのではないかと…。ですから、どの気持ちも蔑ろにすることなく受け止め、その揺らぎと向き合うべきだと…私はそう思います。答えになっていますでしょうか?」



その言葉に、ルシェルは目を伏せた。



「ええ……そうね、ありがとうユリアナ。あなたのいう通りだと思うわ」



ルシェルはユリアナに優しく微笑みかける。



「ユリアナ、あなたにイザベルの侍女をお願いするわ。彼女のこと、どうかよろしくね」



「はい。承りました、皇后陛下」



部屋を出ていくユリアナの背中を見送りながら、ルシェルはそっと胸元に手を置いた。



彼女がどう答えるか全く想像していなかったが、彼女の答えを聞いて、彼女はきっと誠実であると思えた。



他にも何人か侍女候補と面会してみたが、ルシェルの質問に対して、ルシェルが望むものとは違う回答ばかりだった。



「心が揺らぐのは意志が弱い証拠です」「揺らいだのなら迷わず身を任せるべきです」そんな回答ばかりだった。



誠実さに欠けるのだ。宮殿では、事柄に対して言い切ることや相手を否定する言動は、命取りになることがある。

ルシェルは人の嘘や悪意には敏感だった。



この宮殿で過ごすことになれば、嫌でもいろんな噂に触れたり誰かに貶められることもあるだろう。



イザベルのことは到底好きにはなれないし、憎しみさえ覚えることがあるがーーそれでも公爵家に生まれ、なに不自由なく育ち、長年皇后になるために地盤を固めてきた自分に比べたら……きっとイザベルは孤独で不安に違いない。



そんな時に、自分を否定せずただそばにいてくれる存在がどれほどありがたいものか、ルシェルはよく知っている。

ルシェルにとっては、エミリアやイリアがそうだ。

だからこそ皇后として、皇帝の子を孕った側室のためにできることはしなければと思った。



私情は挟んではいけない。この国の皇后として。



***



一方その頃、アンダルシアの王都。



ゼノンは王宮の一室で、父王の容体報告を受けていた。

病状は安定しているが、依然として油断はならないという。側近たちは彼の早期の即位を求め始めていた。



「……父上はまだご存命だ。即位など早すぎる」



冷ややかに告げたゼノンの言葉に、老臣たちは黙して頷いた。



一人、窓際に立ち、雨の音に耳を澄ませる。



(彼女は……元気にしているだろうか)



ライラックの香りーー柔らかな声ーー月下の静けさ。

ルシェルの面影は、彼の胸の内で止まることなく広がっていく。



精霊は、契約主の想いに応じて動く。

ゼノンが口に出さずとも、蝶は必ず彼女の傍へ向かう。



(私はこの想いを……今世では言葉にしないと決めた。けれど…)



ゼノンの心にあるのは、かつての後悔と未だに溢れ続ける彼女への恋慕の情だけ。



『大丈夫……あなたの中で私は生きていくの。だから、ひとりじゃないわ…あなたをずっと愛してる…』



かつての最愛の人…”彼女”の言葉を思い出す。



ゼノンは静かに目を閉じた。



その瞬間、遠く離れたヴェルディア帝国の空に、銀色の蝶が舞い上がった。

それはまるで、言葉なき想いが風に乗って届いた証のように、夜空を静かに巡っていた。



***



ユリアナをイザベルの侍女に採用して数日後。



ルシェルは穏やかな表情で朝食の席についた。

エミリアからの報告で、イザベルの体調は安定しており、ユリアナがよく気を配っていると聞かされていた。



「イザベル様もユリアナを気に入られたようですね」



「そう。それは良かったわ」



イザベルに対して、これまで表面上は皇后として威厳ある態度で接していたが、どこかで言葉にならない怒りや妬みを抱えていたことは確かだ。



だが、今はなぜか胸の奥には奇妙な静けさがあった。



執着、嫉妬、孤独、諦め――それらをすべて抱えたまま立ち続けてきた自分の影が、どこかで少しずつ薄れていく。

以前のようにノアを想い、悲しくなることも無くなった。そのことが逆に悲しくもある。





ーーそんなルシェルの元に、一通の書状が届いた。



それはアンダルシア王国からの正式な書簡。

ゼノンがヴェルディア帝国に戻ってくるという内容だった。



ルシェルはその手紙を手に取り、しばし眺めていた。

最後に添えられたひとつの言葉――



《私がいない間、一人で泣いていませんでしたか?》



そのたった一文に、ルシェルは小さく息を呑んだ。



(……ええ、泣いていないわ)



心の中でそう答えた瞬間、彼女の胸に、ほんのわずかな灯がともった。




そしてその夜、ルシェルはいつものように庭園を歩いていた。



月は満ち、花々が夜露をまとって咲いている。

風がそっと頬をなで、草の香りが微かに揺れる。



空に目をやると、再び銀色の蝶が、夜の帳をすり抜けるように舞い降りてきた。

それは彼女の足元を巡り、しばし空中にとどまると、またふわりと風に乗って、遠く、遥かな空へと消えていった。

彼女はその光景を目に焼きつけるように見つめながら、静かに微笑んだ。

しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません~死に戻った嫌われ令嬢は幸せになりたい~

桜百合
恋愛
旧題:もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません〜死に戻りの人生は別の誰かと〜 ★第18回恋愛小説大賞で大賞を受賞しました。応援・投票してくださり、本当にありがとうございました! 10/24にレジーナブックス様より書籍が発売されました。 現在コミカライズも進行中です。 「もしも人生をやり直せるのなら……もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません」 コルドー公爵夫妻であるフローラとエドガーは、大恋愛の末に結ばれた相思相愛の二人であった。 しかしナターシャという子爵令嬢が現れた途端にエドガーは彼女を愛人として迎え、フローラの方には見向きもしなくなってしまう。 愛を失った人生を悲観したフローラは、ナターシャに毒を飲ませようとするが、逆に自分が毒を盛られて命を落とすことに。 だが死んだはずのフローラが目を覚ますとそこは実家の侯爵家。 どうやらエドガーと知り合う前に死に戻ったらしい。 もう二度とあのような辛い思いはしたくないフローラは、一度目の人生の失敗を生かしてエドガーとの結婚を避けようとする。 ※完結したので感想欄を開けてます(お返事はゆっくりになるかもです…!) 独自の世界観ですので、設定など大目に見ていただけると助かります。 ※誤字脱字報告もありがとうございます! こちらでまとめてのお礼とさせていただきます。

旦那様、離婚してくださいませ!

ましろ
恋愛
ローズが結婚して3年目の結婚記念日、旦那様が事故に遭い5年間の記憶を失ってしまったらしい。 まぁ、大変ですわね。でも利き手が無事でよかったわ!こちらにサインを。 離婚届?なぜ?!大慌てする旦那様。 今更何をいっているのかしら。そうね、記憶がないんだったわ。 夫婦関係は冷めきっていた。3歳年上のキリアンは婚約時代から無口で冷たかったが、結婚したら変わるはずと期待した。しかし、初夜に言われたのは「お前を抱くのは無理だ」の一言。理由を聞いても黙って部屋を出ていってしまった。 それでもいつかは打ち解けられると期待し、様々な努力をし続けたがまったく実を結ばなかった。 お義母様には跡継ぎはまだか、石女かと嫌味を言われ、社交会でも旦那様に冷たくされる可哀想な妻と面白可笑しく噂され蔑まれる日々。なぜ私はこんな扱いを受けなくてはいけないの?耐えに耐えて3年。やっと白い結婚が成立して離婚できる!と喜んでいたのに…… なんでもいいから旦那様、離婚してくださいませ!

捨てたものに用なんかないでしょう?

風見ゆうみ
恋愛
血の繋がらない姉の代わりに嫁がされたリミアリアは、伯爵の爵位を持つ夫とは一度しか顔を合わせたことがない。 戦地に赴いている彼に代わって仕事をし、使用人や領民から信頼を得た頃、夫のエマオが愛人を連れて帰ってきた。 愛人はリミアリアの姉のフラワ。 フラワは昔から妹のリミアリアに嫌がらせをして楽しんでいた。 「俺にはフラワがいる。お前などいらん」 フラワに騙されたエマオは、リミアリアの話など一切聞かず、彼女を捨てフラワとの生活を始める。 捨てられる形となったリミアリアだが、こうなることは予想しており――。

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

侯爵家の婚約者

やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。 7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。 その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。 カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。 家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。 だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。 17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。 そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。 全86話+番外編の予定

私を忘れた貴方と、貴方を忘れた私の顛末

コツメカワウソ
恋愛
ローウェン王国西方騎士団で治癒師として働くソフィアには、魔導騎士の恋人アルフォンスがいる。 平民のソフィアと子爵家三男のアルフォンスは身分差があり、周囲には交際を気に入らない人間もいるが、それでも二人は幸せな生活をしていた。 そんな中、先見の家門魔法により今年が23年ぶりの厄災の年であると告げられる。 厄災に備えて準備を進めるが、そんな中アルフォンスは魔獣の呪いを受けてソフィアの事を忘れ、魔力を奪われてしまう。 アルフォンスの魔力を取り戻すために禁術である魔力回路の治癒を行うが、その代償としてソフィア自身も恋人であるアルフォンスの記憶を奪われてしまった。 お互いを忘れながらも対外的には恋人同士として過ごす事になるが…。 完結まで予約投稿済み 世界観は緩めです。 ご都合主義な所があります。 誤字脱字は随時修正していきます。

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

「出来損ないの妖精姫」と侮辱され続けた私。〜「一生お護りします」と誓った専属護衛騎士は、後悔する〜

高瀬船
恋愛
「出来損ないの妖精姫と、どうして俺は……」そんな悲痛な声が、部屋の中から聞こえた。 「愚かな過去の自分を呪いたい」そう呟くのは、自分の専属護衛騎士で、最も信頼し、最も愛していた人。 かつては愛おしげに細められていた目は、今は私を蔑むように細められ、かつては甘やかな声で私の名前を呼んでいてくれた声は、今は侮辱を込めて私の事を「妖精姫」と呼ぶ。 でも、かつては信頼し合い、契約を結んだ人だから。 私は、自分の専属護衛騎士を最後まで信じたい。 だけど、四年に一度開催される祭典の日。 その日、私は専属護衛騎士のフォスターに完全に見限られてしまう。 18歳にもなって、成長しない子供のような見た目、衰えていく魔力と魔法の腕。 もう、うんざりだ、と言われてフォスターは私の義妹、エルローディアの専属護衛騎士になりたい、と口にした。 絶望の淵に立たされた私に、幼馴染の彼が救いの手を伸ばしてくれた。 「ウェンディ・ホプリエル嬢。俺と専属護衛騎士の契約を結んで欲しい」 かつては、私を信頼し、私を愛してくれていた前専属護衛騎士。 その彼、フォスターは幼馴染と契約を結び直した私が起こす数々の奇跡に、深く後悔をしたのだった。

処理中です...