私たちの離婚幸福論

桔梗

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019 悪意

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燦々と差し込む朝日を背に、ノアは机上の文書に目を通していた。

その傍らには、さりげなくイザベルの姿がある。



「…陛下、皇后陛下の噂、お聞きになりましたか?」



その声には一見無邪気な柔らかさがある。

しかしノアは、目を逸らさずに言葉を返した。



「何のことだ?」



「私、そんなに詳しくはないんですけど…」



イザベルは肩をすくめ、話すことを躊躇うようなそぶりを見せている。

だがその目元には、まるで何かを企んでいるような微笑みが浮かんでいた。



「皇后が何かしたのか?」



躊躇っているイザベルに対してノアは訝しげな顔をする。



「その…実は…、ルシェル様がアンダルシアの王子殿下から、髪飾りを贈られたそうなんです…」



「…それがどうかしたのか?贈り物など、外交儀礼の一つだ。問題はないだろう」



ノアの声は淡々としている。

だがその奥には、苛立ちのような何かが滲んでいた。



「…そうですよね…でも…陛下、もしもその贈り物に別の意味があったとしたら…?」



「…別の意味だと?」



「はい…私、聞いちゃったんです…。“あの蝶の髪飾りは特別なものだ”って――」



ノアは目を細めた。

書類を静かに閉じ、イザベルの方を向く。



「お前は誰からその話を聞いた?」



イザベルは唇に指を当てた。

ノアは、今までイザベルの前で見せたことのないような、険しい表情をしている。



(陛下、何か怒ってる…?)



「それは…璃州国の使節団の方とお話しした時に…」



「それで、その使節はなんと言ったのだ?」



「えっと…確か、蝶の髪飾りを贈るというのは――“心を捧げる”意志の表れで…中でも、皇后陛下が王子殿下に送られた髪飾りは“暁蝶”と言って、アンダルシアでは契りに近い意味を持つそうです…」



「…なるほどな。お前はそれを聞いて私に話したということか。なんのために?」



ノアは腕を組み、怪訝そうな表情でイザベルを見る。



「…ごめんなさい。私はただ…陛下に話しておかなくちゃと思って…」



その言葉に、ノアはしばし視線を落とす。



「…いや、もうよい。怒っているわけではない。だが、余計なことは気にするな。たとえ事実であっても、皇后の威厳にも関わることだ。他のものに無闇に口にしてはならないぞ、よいな?」



「ええ、わかりました陛下…」



イザベルはそう言いながら、長い睫毛を伏せた。



「事実確認は、私が直接皇后にする。お前はもうこの件に関わるでないぞ」



「…はい、陛下」



ーー光華祭の準備が進む宮中の庭園の回廊。



白と金の装飾を控えめに施された衣を纏い、セリス・ユルファが静かに歩いてくる。

ゼノンは彼に気づき、互いに軽く会釈した。



「久しいな、セリス」



「本当に。まさかこの国であなた様とお会いすることになるとは…」



セリスは穏やかな微笑を浮かべる。その背に漂う空気は、とても清らかで澄んでいた。



「聖月国からの使節として君が選ばれたと知ったとき、なんだか腑に落ちたよ」



「外交の場など、本来私には性に合いません。けれど…精霊の声が、行くべきだと告げたのです」



ゼノンは、ほんの僅かに顔を曇らせた。



「……セリス。彼女は――」



セリスは目を細め、ゼノンの言葉の先を待った。



「彼女は思い出すだろうか…?」



セリスはそっと頷いた。



「…それが彼女のためになると思いますか?」



ゼノンは黙ったまま、庭に目をやる。

そこでは花々が、風に揺れていた。



「私は、彼女には幸せでいて欲しいんだ。いや、そうでなくてはならない。だが、今の彼女は…とても幸せそうには見えない」



「先日の宴の際に、彼女に精霊について多少話しましたが…やはりあなたからもきちんと話をするべきです。そして、いずれ彼女の記憶が戻れば…その時は、聖月国はあなたがたを見守りましょう」



ゼノンの唇に、わずかな笑みが戻った。



「…そうだな。いずれ話さなくてはいけないと思っている」



「ですが、あまり思い悩まぬことです。あなたがたは今を生きているのですから…前世に囚われすぎぬように」



「あぁ、わかっている」



ーー宮殿の書斎にて。



ルシェルは、古文書の束を前に、指先でそっと紙をなぞっていた。

その手元には、先日ゼノンから贈られた”蝶の髪飾り”がある。

飾り台の上で、銀の羽がほんのかすかに光を反射し、揺れていた。



その蝶を見つめるたびに、胸の奥にざわめきが広がる。

懐かしさとも、痛みとも言えぬものが、脈打つように心の奥に流れこむ。



「セリス様は、『精霊は人の心に敏感で、時として、魂のつながりすら感じさせることがある』と言っていたわね…」



ルシェルは髪飾りを見つめながらつぶやいた。



(もしかして、あの蝶も精霊だったりしないかしら…?普通の蝶にしてはあまりにも美しすぎるし…)



その瞬間、風がふと吹き抜け、机上の紙がふわりと舞った。

驚いてそれを追ったとき、蝶の髪飾りが微かに震えたように見えた。



「…風、かしら?」



ルシェルは目を細めた。

そして不意にこれまでのあらゆることが頭に浮かんだ。



ノアが、自分を忘れてしまったと知ったときの、あの絶望感。

過去のノアとの愛しい日々。愛し、愛された記憶。

そして、ゼノンとの出会い、ノアとは異なる自分を見つめるゼノンの眼差し――。



そのとき、読書室の扉が静かに叩かれた。



「ルシェル様、失礼いたします。皇帝陛下がお呼びです」



ルシェルは目を伏せ、蝶の髪飾りにそっと手を伸ばす。



「…陛下が?…すぐに行くわ」



(呼ばれる理由なんてあったかしら?)



ルシェルは疑念を胸に、ノアの執務室へ向かった。



***



ーー皇帝の執務室にて。



「陛下…お呼びでしょうか?」



静かに言うルシェルに、ノアは答えない。

だが彼女の姿を目にした途端、ノアのその目の奥に激しい感情が走った。



「…来たか」



「はい。何かご用ですか?」



「そなたに、確認しておきたいことがある」



ノアは立ち上がる。天上の燭台に揺れる光が、彼の金色の瞳を鋭く照らす。



「はい、なんでしょうか?」



「アンダルシアの王子から、贈り物をされたそうだな」



ルシェルは小さく頷いた。



(もう知ってるの?誰から聞いたのかしら…)



「ええ。髪飾りをいただきました。でも、それは――」



「特別な意味のあるものだと聞いた」



その言葉には、冷たさと、どこか切実な怒りが滲んでいた。

ルシェルは胸の奥がざわめいた。

だが、それを表には出さず、静かに言葉を選ぶ。



「…ええ、確かに蝶の髪飾りは意味のあるものだと言われていますが、今回はあくまで外交の上での贈り物にすぎません。以前王子が来訪された際に私も私的にお渡しした贈り物がありましたので、そのお礼としていただいたのです。他意はございません」



ノアは目を細める。



「…他意はないだと?…本気でそう思っているのか?」



「ええ。それにたとえ特別なものだったとして、何か問題がありますか?」



「なんだと?」



ノアは不服そうにルシェルを睨みつける。



「そなたはこの国の皇后なのだぞ?一国の皇后が他国の王子から特別な贈り物をされたとあれば、外交問題にもなりかねない。まさか、王子が”蝶の髪飾り”の意味も知らずに皇后に贈ったとでも?」



ノアは怒りの混ざった声で問いかける。



「ええ、ですが陛下は外交問題になどしないでしょう?陛下は私に関心がありませんから」



「関心などそんなことは関係ない!そなたは私の妻であり、この国の皇后なのだ!」



(どうしてこんなに怒っているのかしら…)



「そなたは、皇后が受け取るものすべてが“国”の行為と見なされることを、まだ理解していないのか?」



その声音には、冷徹な断罪があった。だが、それだけではない。

言葉の端に、何か別のもの――釈然としない苛立ちのようなものが、かすかに滲んでいた。



ルシェルはノアの目をしっかりと見つめた。

視線の奥に映るノアの眼差しは、かつて彼女が知っていたものとは違っている。

けれど、そこにある得体の知れぬ熱を見て、ふと――これは本当に“皇帝”としての怒りなのだろうか、という疑念が浮かぶ。



「……もしかして、陛下は嫉妬されているのですか?」



問うた自分の言葉に、ルシェル自身が驚いた。

ノアは一瞬だけ言葉に詰まった。

けれどすぐに、静かに吐き捨てるように言った。



「…何を馬鹿げたことを言っているのだ。私情で話しているのではない。そなたは、皇后としての自覚が足りない」



冷たい言葉。

けれど、そのすぐあとに、ノアはなぜか目を伏せた。

それがまるで、感情を抑え込むかのように見えた。



「皇后と王子についてのよからぬ噂が広まっている。お前が何も言わずに贈り物を受け取ったからだ。皇室の名に泥を塗る行為だとわからなかったのか?」



その叱責は正論でしかない。

けれど――ルシェルの中で何かが引っかかっていた。



皇帝として、当然の判断を下すだけなら、あそこまで声を強める必要はない。

だがノアの口調には、明らかに”それ以上”の感情があった。



(――いや、そんなはずはない。ノアは記憶を失っているんだから)



「…軽率な行動をとったことは、お詫びいたします。ですが、そこまで叱責されるいわれはございません。これで失礼致します」



ルシェルは頭を下げて、下がろうとした。



「二度と、軽率な行動をするな。そなたはこの国の“皇后”であると言うことを忘れるな」



その言葉に、ルシェルの指がぴくりと震えた。



(皇后、皇后ってそればかりねーー)



「…」



ルシェルは何も答えずに部屋を出た。
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